いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きているひとには、話せないこと。

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生きているひとには話せないことがある。こんな気持ちをぶちまけてしまっては、聞くひとの心を不快にさせてしまうかもしれない。迷惑をかけてしまうかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。何よりも、また今日も伝わらなかったという思いが、自分の心を傷つけてしまうかもしれない。言葉にするだけでも楽になること、誰かに話すだけでも楽になることは確かにあるのだと思う。ただ、言葉にすることで、悲しみや苦しみを強化してしまうこともあるような気がしていて、頭ばかりでそういうことを考え込んでしまう時は、誰にも、何も、話せなくなる。

 

そういう時期が、わたしにはある。

 

家のない生活をしていた頃、また、移動を続ける生活をしている中で、稀に「さすがに今日はしんどいよ」と思うことがある。苦しみの渦中にいる時期はつらいが、そこを経ることでしか得られない教訓のようなものもある。私の場合、生きる気力をなくした時は、好きな道を歩くこと、好きな歌を歌うこと、好きなひとを思うことが力になった。好きな道を歩くこと。できることならばコンクリートなどで舗装をされた道ではない、土の上を歩くこと。好きな歌を歌うこと。できることならばただ頭の中で思い浮かべるだけではない、声に出して歌うこと。好きなひとを思うこと。できることならば家族や友達や恋人の存在だけではない、いまはもう生きてはいないひと、もう、すでに死んでしまっているひとを思うこと。

 

変わるものと、変わらないもの。

何処の国に行っても、同じ月が輝いている。日本にはない景色に触れた時、その、変わる景色を前に「自分がいる場所が世界のすべてではないのだ」と心が楽になることもあれば、変わらない景色を前に「遠く離れても、同じ世界を生きているのだ」と心が慰められることもある。この国には四季がある。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。いつまでも春のままではいられないけれど、春は必ず訪れる。この世の中には、多分、変わるものと変わらないものがあるのだと思う。季節は変わり続けるけれど、季節は巡り続けるということは変わらない。いつまでも春のままではいられないけれど、夏を経て、秋を経て、冬を経て、春は必ず訪れることは変わらない。どんなに素晴らしい権力者にも、ひとがひとを好きになること、朝が来ることを止めることはできない。

 

熱海の家の近くに、好きな山がある。

 

私はこの山が好きだ。遠く離れても、この山のことを思うと力になる。ひとだけに求めるとつらくなってしまうことを、この山の道を歩くと、その、心許ない思いを受け入れてもらえる【不安や恐れが浄化されていく】気持ちになる。いまの私には、ひとに誇れるようなものは何もない。何もない癖に、それでも、何かを失うことを恐れてしまう瞬間がある。誰かに理解を求めてしまう瞬間がある。自分のみじめさばかりが溢れ出してしまう瞬間がある。そんな時、私は、この山を思う。そして「何もかも失ったとしても、この山は残るのだ」ということを思い、大丈夫だ、自分は、生きていけるのだという気持ちを取り戻す。

 

祈る姿は美しい。

現在開催しているわたり人間の一環で、昨日、東京の阿佐ヶ谷ユジクで上映された映画「ラサへの歩き方」に御招待をしていただいた。仏教で最も丁寧な礼拝方法と言われている『五体投地』で2400キロを一年かけて歩き続ける内容で、チベットの田舎町を部隊にはじまるとても静かな映画だった。五体投地で大事なことは「他者のために祈ること、それから自分の幸せを祈ること」だと言う。私は、この映画を見ながら、二回涙を流した。決して、泣かせるための映画ではなかった。五体投地という非常に厳しいスタイルで2400キロを一年かけて歩く、ただ、それだけの内容なのに「ただ、それだけのこと【やるだけ大変なこと、やるだけ無駄なこと、やるだけ身体をすり減らすこと】」を真摯に続ける人達の姿に、胸が打たれた。

 

2400キロを歩くことは大変なことだ。それを、五体投地という酷なスタイルで歩くことは、日本人からして見たら「なんでそんな大変なことを!」と思う。でも、その「なんでそんな大変なことを!」と思うようなことを精一杯にやっている人の姿に心が打たれる。意味とかではない、損得勘定とかでもない、ただ、ひとつのことに命を込める「その姿、その生き様」に、まばゆいばかりの生命の輝きを見たからなのだと思う。ああ、この人たちは、いま、間違いなく生きているのだ、そして、自分自身の命もまた、同じように生きたがっているのだという感動。頭ではない、肉体全身を通じて「生きていること」を実感したいのだと願っている、自分のこころの奥底にある何かとの邂逅。

 

彼らは、決して「自分の凄さを見せつけるため」に歩く訳ではない、見事なまでに真逆だ。自分を自然の中に投げ出して、自分自身を消すこと、自身の奢りを認識すること、他者のために祈ることを通じて『自分を優先するのではなく、自分以外のものを優先する』生き様を見せる。その姿の中に、私は、美と呼ばれるようなものを見た。そして、自分自身の過去の体験を思い出していた。昔、疲れ切っていた状態で夜の街を漂泊していた時、ふと、大切なひとの存在が頭に浮かんだ。自分が疲れていることは置いておいて、ただ、そのひとがいま安らかな気持ちでこの夜を過ごしてくれていたらいいなあとこころ静かに思えた時、不思議なことに、疲れも悩みも吹き飛んでいた。そして、涙が流れそうになったことがある。私は、祈るという行為の中に『美』にも似た何かを感じた。祈る姿は美しい。昔から、そんな風に思っていた。そして、「祈りのない美はないし、美のない祈りはない」のだと、ふと、そんな言葉が頭をよぎっていた。

 

【イベント詳細】わたり人間 〜ACROSS THE UNIVERSE〜

 

『ラサへの歩き方 祈りの2400キロ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は『ラサへの歩き方 祈りの2400キロ』映画パンフレットです。映画なんて、と思っていた自分にビンタだ。世界には自分の知らない素晴らしい芸術作品群が無数に転がっているのだと痛感しました。そして、知らないことを知ることはこんなにも嬉しいことなのかと思いました。こちらの作品はまだDVDが出ていないために、奇跡的にお近くのミニシアターなどで上映される機会があれば、是非、実際にご覧いただけたら嬉しいです。映画のパンフレットをご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

【映画予告篇】 『ラサへの歩き方~祈りの2400km』映画オリジナル予告編 - YouTube

 

自然の中に自分を投げ出す。

金も命も時間も花も、多分、大切なことは「使い方」だ。命の本領が発揮される瞬間、それは、命を使うに値するものを見つけた時だと思う。逆説的になるけれど、自分なんてどうなってもいいからこれだけは伝えたい、これだけはどうにかしてやりたいという祈りにも似た感覚の中で、命の本領は発揮をされるのではないだろうか。自分を守るから弱くなる。自分のことばかり考えるから、自分自身を見失う。自分なんてどうなってもいいからこれをする、自分なんてどうなってもいいからこれをやりたい、大袈裟な言葉で言えば「自分を生かそうとするのではなく、自分を自然の中に投げ出して殺してしまうようなこと」の中に、結果として、自分は生きているのだという最高の実感を覚えるのではないだろうか。

 

自分の弱さを痛感することの多い日々だ。私は、すぐに誰かに何かを求めてしまう。誰かに何かを期待してしまう。恥じることの多い日々だ。誰かのせいにしている限り、自分を見ないで済む。誰かの醜さを指摘している限り、自分の醜さを見ないで済む。他人の生き方にああだこうだと口を出している限り、自分の人生を真面目に生きないで済む。まずは自分なのだろう、ひとのことをああだこうだと言い始めた時ほど、私は、自分自身から離れているのだろう。

 

五体投地で大切なことは「他者のために祈ること、それから自分の幸せを祈ること」だと言う。いまの私には、ひとに誇れるようなものは何もない。何もない癖に、それでも、何かを失うことを恐れてしまう瞬間がある。誰かに理解を求めてしまう瞬間がある。自分のみじめさばかりが溢れ出してしまう瞬間がある。そんな時、私は、熱海にある山の存在を思う。そして「何もかも失ったとしても、この山は残るのだ」ということを思い、大丈夫だ、自分は、生きていけるのだという気持ちを取り戻す。透明になるということ、執着やエゴと呼ばれるものから自由になるということ、大袈裟な言葉で言えば『最大限に自分の命を生かすために、自分を殺す【自然の中に自分を投げ出す】」ということが、澄み渡る普遍的な祈りとなり、ひとの心に浸透をするのだと思う。

 

 

人生は続く。

 

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