いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【DPS-バンコク】「お金がなければ生きていけない」という嘘。

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バリでの生活も最終日を迎え、バンコクスワンナプール空港に向かう。バリでの数日間を共にしたナンシーとは様々なことを話し、様々なインスピレーションをもらった。ナンシーの存在自体が輝きを帯びていて、一緒にいるだけでも潤いと安らぎを与えてくれるような、素晴らしい時間を過ごした。

「奇跡は余白に舞い込む」という真実。

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ナンシーとの話の中で、もしも、世界からお金がなくなったらどうなるのだろうか、という話をした。私自身、先月の末までは所持金が4000円しかない酷く惨め(?)な状態だった。そのような状態の中で「交通費などはないけれども、それでも私に会いたいと思ってくださる方がいたら、連絡をください」という投稿をした。


すると、驚いたことに関西方面に住む大勢の方々や、高知に住む男性からも連絡をいただき、そしていま、このブログ記事を私はバリから更新している。先月の末頃には、まさか数日後の自分がバリにいるだなんて想像もしていなかった。人生は何が起こるかわからないということを、自分の身体を通じて実感している。

そして、ナンシーと「お金がなくなったらどうなるのだろうか」という話をしていた。私にはまるでお金がない。それでも、いま、こうしてバリで非常に豊かな生活を送ることが許されていて、ほとんどお金も使うことなく、ただただナンシーの温かい好意に甘えながら、彩りに溢れた日々を過ごしている。

いま、この瞬間に、世界からお金がなくなったら。

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たとえば、これは非常に大袈裟な(そして現実離れをした)例え話かもしれないけれど、いま、この瞬間に、世界からお金がなくなったとする。それでも、皆が皆、自分がやっている仕事をいままで通りに続けていれば、世界は回り続けるし、いままでと同じように、連綿と社会は続いていく。

そして、この世界からお金がなくったら、お金を徴収したり、お金を管理したり、お金を分配するための仕事は不要になり、「仕事のための仕事」は消えて、何もしなくてもよくなる(必ずしも働く必要がなくなる)人達も出てくる。もしもお金が不要になれば、あらゆるモノやサービスも、基本的には無料で受けることができる。

基本的にはすべてが無料で受けることができる世の中において、多分、人間はいつか必ず「受けるだけでは飽き足らなくなる」瞬間が訪れる。そして、その瞬間から、その人は「与える」側の人間になる。自分には何ができるだろうかと考えて、思い浮かぶひとつひとつの物事を試しながら、最も多くの人達に貢献できることを見つけては、そこに「やりがい」のようなものを感じていく。

従来の常識とは異なる「別の常識」の力。

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もちろん、このような例え話が現実離れをした、ただの御伽噺のように聞こえることは百も承知している。しかし、それでもなお、もしかしたら「そう遠くない未来に、このような状態が実現するのではないだろうか」と感じている自分もいる。

私自身の生活を省みる。私には、金も、仕事と呼べるようなものも、専門的なスキルも、何もない。それでもなお、こうして無事に生きていることができているばかりか、様々な恩恵を受けながら、(もちろん毎日が喜びに溢れている訳ではないけれど)非常に豊かな日々の中を過ごすことができている。

誤解されると困るが、私は「金がなくても無事に生きていることができるばかりか、比較的自由度の高い人生を謳歌できている」ことを自慢したい訳ではない。そうではなく、真逆で、自分のような何もない人間でさえも、こうして無事に生きることができていることの中には、何か従来の常識とは異なる『別の常識』の力が働いているような、そういう不思議な感覚を覚えることがある。

「自分には何かが足りない」という思いから自由になること。

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最近、自分の中で不思議な意識の変化が起きている。いままでの私は(多分多くの人達と同じように)「お金がないと不安になる」ように感じていた。それが、最近では「お金があると不安になる」という、真逆の反応を自分の身体が覚えていることに気がついた。


たとえば、お金がなければ「仕事がなくなったらどうするのだ!」とか「病気になったらどうするのだ!」とか「万が一の時はどうすればいいのだ!」という声が聞こえてくる。そして、そのように感じる時は『足りていないこと』が不安になり、その不安を消すために「もしもに備えてお金を貯めておこう」というような気持ちになる。

しかし、万が一の時でも充分にどうにかなる金額というのは非常に曖昧で、掴み所がなく、幾ら貯めても『足りない、足りない』という思いから自由になることは出来ない

お金がなければ不安になる。非常に当たり前の心理状態だとは思うけれど、この不安は、実はお金に対する不安ではないような気がしている。「お金があれば安心だ」というのは真実かもしれないけれど、同時に、ある種の冷たさも感じる。その冷たさとは、「持てる人は受けることができるけれど、持たざる人は受けることさえもできない」という冷たさだ。

現在の責務は「(自己責任という名前の)地獄をサバイバルすること」ではない。

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これも乱暴なたとえ話になるのかもしれない。もしも自分が病気になってしまっても、働けない状態になってしまっても、そして、自分にはまるでお金がなかったとしても、手を差し伸べてくれる人が周囲にいれば、その人は死なない。私にとって、最大の地獄とは「八方塞がりの状態に陥ること」よりも「八方塞がりの状態に陥った時に、助けてくれる人が誰もいない」ことだと思っている。

自分のことはなんでも自分でやって一人前(誰かに頼るのは半人前)という価値観のままでは、お互いに助け合う(助けを求める力)を養うことができない。結果として、あらゆる問題を自分自身で解決するためにお金を溜め込もうとするのだろうけれど、不安(『足りない』と感じる気持ち)を原動力にしてしまう限り、常に不安はつきまとう。

現在の責務は「(自己責任という名前の)地獄をサバイバルすること」ではなく、地獄を天国に塗り替えることなのではないだろうか。何もかもを自分一人でやるための力を養うことではなく、お互いに持てるものを持ち寄り合う練習を重ねることが、いま、この瞬間から求められているように感じている。

「お金がなければ生きていけない」という嘘。

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「お金がなければ生きていけない」ということが幻想だとしたら、それでは、何がなければ生きていけないのだろうか、みたいな話をナンシーと交わしていた。しばらく考えた後に、私は、「自然」とか、「優しさ」とか、そういう言葉が浮かんできた。自然がなければ生きていけない、太陽がなければ人類は死滅するし、水や食料や酸素がなければ、そもそもで生活を続けることさえもできなくなる。

そして、人として自然であること。

同時に、月並みな言葉になるけれども「優しさがなければ生きていけない」ということを思う。私が、いまもこうして無事に生きていることができているのは、ナンシーをはじめとした様々な人の優しさによるところが大きい。大きいというどころか、それしかない。優しさがなければ生きてこれなかった。

私はナンシーに「ナンシーにとって、これがなければ生きていけないみたいなものはありますか?」と尋ねた。しばらく考えた後に、ナンシーは「そうね」と言って、そして、自信かな、と答えた。

自信がなければ生きていけない。

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「自信かな。それは『自分は偉い』とか『自分には力がある』とか、そういうエゴイスティックなものではなくて、自分で自分のことを『自分は大丈夫なんだ』って思えることだと思う。それは地球と繋がっているという感覚みたいなもので、自分は大丈夫なんだって信じることができたのならば、お金がなくても、何もなくても、きっとどうにかなるんだと思う」

私は、ナンシーの言葉と、ナンシーが言葉を放つ時に漂う光の粒子のようなものに魅せられて、ほんとうにその通りだなと思った。自信があれば、自分をオープンな存在にして、自分を世界に委ねることができる。自信を失えば、不安や恐怖心が身体の内側を静かに蝕み、自分自身を閉ざしてしまう。

「けーちゃんのブログで、前に書いてあった『自分をオープンにしている限り、人間は死なない』っていうのに、凄い共感したんだ。そして、其の後に書いてあった『調子に乗ったら即死する』っていうのを読んで、そうそう、そうなのよって思ったの!」と、ナンシーは言葉を投げかけてくれた。

ゴールドのような海の中へ。

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「お金がなければ生きていけない」というのは、何処までが真実で、何処までが幻想なのだろうか。いま、この瞬間にも、世界には様々な問題が溢れている。精神的な悩みを抱えた大勢の人々や、紛争が絶えない地域がある。その問題の多くが「金」と「金にまつわるもの」で構成されているように感じることがある。

それでは、金を溜め込めば幸せになれるのだろうか。私には、まだ、何も答えはわからない。ただ、金がなくても回る世界のイメージを持つことは、不思議な力を与えてくれる。「奪い合えば足りず、分け合えば余る」という言葉もある通り、人々の意識が『奪う』ことから『与える』ことへとスイッチした瞬間に、驚くほど簡単に世界はコロンと変わるのではないだろうか、という妄想をすることがある。

バリには様々な神が暮らしているのだという。いまの私には何も答えはわからず、わかっているのは『生きている』ということ、それだけだ。そして、生きていればバリにも足を運ぶことができて、ナンシーという素晴らしい女性と出会うこともできて、そして、美しい景色を眺める機会にも恵まれる。


自然が与えてくれる美しさを前にすると、いろいろなことがどうでもよくなる。自然、優しさ、そして、自信。なんだ、すべては既に揃っているじゃないか、という気持ちになる。足りていないものは何もなく、他には何もいらないという気持ちになる。確かに此処にある生命の、静かな充足感を覚えることができる。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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