みんな、誰かのこどもなんだ。
東梅田のドトールにいる。最近、お孫さんが出来た女性が「孫はもちろん可愛いけれど、孫を可愛がる娘が一番可愛い」と話していて、猛烈に感動した。大袈裟だが、母と娘の最終形態を見た気がした。孫が可愛いと話す多くの親も、同じ気持ちなんじゃないだろうか。自分の子供が、子供を可愛がる姿には、映画のような美しさがある。そして、当たり前だが「みんな、誰かのこどもなんだよな」と思った。
前に、母親に言われた。お前がどういう生き方をしているのかは謎だけど、お母さんは、お前は「みんなから愛されている間は生きて、みんなから愛されなくなったら死ぬんだね」って思っているよ、と。これはすごい。究極の信頼だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年12月11日
やりたいんでしょ?やんなよ。 - いばや通信 https://t.co/wjx3u0hdoJ
おおまかなスケジュール
12月14日(土)【残り1席】坂爪圭吾 弾き語り@大阪市東住吉区「おうち」
12月21日(土)16時 坂爪圭吾&五十嵐千尋&MIKI 演奏会@ごちゃまぜの家
1月8日(水)19時 THE PRESENTS DEBUT LIVE@東京都渋谷区『La.mama』
1月14日(火)19時 坂爪圭吾 弾き語りLIVE@東京都吉祥寺『曼荼羅』
2月14日(金)19時 THE PRESENTS presents「PRESENTS is HERE」@大阪
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連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu
言葉が、現実を推し進める。
生きていると、様々な人々に会う。女性の中には、母親との確執を抱いている人も少なくない。私は男だから、母と娘という関係性は、想像することしかできない。この記事をご覧の女性は、母親と、どのような関係にあるだろうか。人生は夢みたいなものだとしたら、私たちは思い込みで生きていると言うこともできる。問題があるのではなく『問題があると思い込んでいる』だけで、問題がないのではなく『問題がないと思い込んでいる』だけかもしれない。全部が思い込みでできているならば、前向きな幻想を見た方がいいだろう、とも思う。だが、時折、どうしようもなく『本当』であるものと出会う。どうしようもなく胸が震える言葉と出会う。
この記事『本物を知ると、偽物が分かる』で、鬱病の経験を書いた。この時期に、両親から「お前は愛されている」ということを、態度ではなく言葉で伝えてもらった。そのことで、自分の中の何かが氷解し、愛情を求めたり承認を求める気持ちが薄れた話を書いた。学校や職場にはいじめがある。一番苦しいいじめは『無視をする』ことだと聞く。まるで、そこに居ないように扱われることが、人間にとって一番苦しい。感情も同じだ。確かにあるはずなのに、まるで、そんなものは存在していないように扱われたとき、最大の苦しみを覚える。言葉は、そこに光をあてる。無視されていた感情に「お前は、ここにいたのか」と、スポットライトを当てる。
おまえはとっても正しいことをしたんだよ。
何かいいものを見つけたとき、まずしなくちゃいけないのはね、
それをだれでもいいから、出会った人に分けてあげて、
いっしょに喜ぶことなの。
そうすれば、どこまでも広がっていく。
それが正しい行いってものなんだ。
フォレスト・カーター『リトル・トリー』【めるくまーる】
素晴らしい言葉と出会えたとき、それを誰かと分かち合いたいと思う。ある女性が言った「孫はもちろん可愛いけれど、孫を可愛がる娘が一番可愛い」という言葉に、私は、映画のような美しさを覚えた。こどもを可愛がる娘と、娘を眺める母親を想像して、映画のような美しさを覚えた。それは、愛と光にあふれた光景だった。生きている限り、誰もが『思い』を抱く。たとえ、それが勘違いだとしても、偏った思い込みだったとしても、思いは現実を作り、思いは『傷』を作る。生きるよろこびとは、まったく傷がないことではない。傷に、意味が与えられることだ。
みんな、誰かのこどもなんだ。
小さな子供と触れ合うとき、自分も、昔はこうだったんだよなと思う。そう思うと、不思議と涙が出そうになることがある。それは、きっと「そのこどもは、今も自分の中にいる」からだ。現在の中に、過去も、未来も、全部、ある。大人になると言うことは、子供ではなくなるということではない。それは、年齢の可動域を増やすことだ。34歳の自分には、3歳のような純真さもあれば、14歳のような真っ直ぐさ、21歳のような危うさもあれば、34歳なりの落ち着きもある。生きることは、多様性を深めることだ。生きることは、命のグラデーションを身にまとうことだ。
ある父親が、息子に言った。「自然に生きるということは、必ずしも『おだやかに生きる』ってことだけじゃないんだよ。天気に晴れも嵐もあるように、気分も浮き沈みがあって自然なんだ。晴れの日ばかりじゃ、自然じゃないんだよ。嵐もあるのが、自然なんだ。だから、自分はこういう人間だって簡単に決めつけないことだよ。天気みたいに、移り変わることが自然なんだ。晴れの日の自分。嵐の日の自分。花みたいな自分。鳥みたいな自分。海みたいな自分。それを、全部ひっくるめたものが自分なんだよ。自然に生きると言うことは、そういうことなんだよ。」
私は、優しい言葉を愛したい。人間の分離感を推し進めるものではなく、人間の一体感を予感させる言葉を愛したい。育った国籍や環境は違えど、それでも「同じ人間じゃないか」と言える部分を、俺たちは兄弟姉妹じゃないかと言える部分を、スポットライトで照らしていたい。みんな違っているようで、実は、そんなに違っていない。根底では、みんな繋がっている。私は、誰かを愛することができている自分を、愛する。それは、誰かが私を愛した記憶を、私が継承しているように感じるからだ。私から生まれる愛なんて、たかが知れている。だが、私を『通じて』生まれる愛には、無限の広がりがある。愛と光に満ちた、映画のような美しさがある。
最近、お孫さんが出来た女性が「孫はもちろん可愛いけれど、孫を可愛がる娘が一番可愛い」と話していて、猛烈に感動した。大袈裟だが、母と娘の最終形態を見た気がした。孫が可愛いと話す多くの親も、同じ気持ちなんじゃないだろうか。自分の子供が、子供を可愛がる姿には、映画のような美しさがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年12月11日
だれでもふたつの心を持っているんだよ。
ひとつはね、からだの心(ボディ・マインド)、
つまりからだがちゃんと生きつづけるようにって、働く心なの。
からだを守るためには、家とか食べものとか、
いろいろ手に入れなくちゃならないだろう?
おとなになったら、お婿さん、お嫁さんを見つけて、
子どもをつくらなくちゃならないよね。
そういうときに、からだを生かすための心を使わなくちゃならないの。
でもね、人間はもうひとつの心を持っているんだ。
からだを守ろうとする心とは全然別のものなの。
それは、霊の心(スピリット・マインド)なの。
いいかい、リトル・トリー、もしもからだを守る心を悪い方に使って、
欲深になったり、ずるいことを考えたり、人を傷つけたり、
相手を利用してもうけようとしたりしたら、
霊の心(スピリット・マインド)はどんどん縮んでいって、
ヒッコリーの実よりも小さくなってしまうんだよ。
からだが死ぬときにはね、
からだの心(ボディ・マインド)もいっしょに死んでしまう。
でもね、霊の心(スピリット・マインド)だけは生きつづけるの。
そして人間は一度死んでも、またかならず生まれ変わるんだ。
ところが生きている間、
ヒッコリーの実みたいにちっぽけな霊の心(スピリット・マインド)しか
持ってなかったらどうなると思う?
生まれ変わっても、やっぱりヒッコリーの実の大きさの
霊の心(スピリット・マインド)しか持てない。
だから、なにも深く理解することはできないんだ。
それで、からだの心(ボディ・マインド)がますますのさばるから、
霊の心(スピリット・マインド)はますます縮んじゃって、
しまいには豆粒ぐらいになって、見えなくなっちゃうかもしれない。
もう霊(スピリット)をなくしちゃったのとおんなじだよね。
そうなったら、生きてるくせに死んでる人ってことになるの。
いくらでも見つかるわ。
そういう人はね、女の人を見るといやらしいことしか考えない。
他人を見ると、なんでもケチをつけたがる。
木を見ると、材木にしたらいくらもうかるかってことしか考えない。
きれいなことなんかちっとも頭に浮かばないのさ。
そんな人がうようよしてるよね。
霊の心ってものはね、ちょうど筋肉みたいで、
使えば使うほど大きく強くなっていくんだ。
どうやって使うかっていうと、
ものごとをきちんと理解するのに使うのよ。
それしかないの。
からだの心(ボディ・マインド)の言うままになって、
欲深になったりしないこと。
そうすれば、ものごとがよーく理解できるようになる。
努力すればするほど理解は深くなっていくんだよ。
いいかい、リトル・トリー、理解というのは愛と同じものなの。
でもね、かんちがいする人がよくいるんだ。
理解してもいないくせに、愛してるふりをする。
それじゃ、なんにもならない。
フォレスト・カーター『リトル・トリー』【めるくまーる】
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu