いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

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ごちゃまぜの家の記念すべき第1号が横浜市港北区菊名からはじまった。昨日、正式に契約を終えて荷物の搬入を行う。事前から「はじまる時は声をかけてね!」と声をかけていただいた方の元に音速で駆けつけ、テーブルや椅子や大量の雑巾と大量の布団セット(布団セットを4組貰ったつもりが、蓋を開けて見たら掛け布団が4組はいっていたので現状掛け布団だけ家にあります!)を受け取り、飛騨産業のロッキンチェアまで譲り受けた。今日は洗濯機と冷蔵庫をいただく流れが来ていて、貰い物だけで成立する家になったら面白いなあなどと思う。ごちゃまぜの家のテーマは「温故知新」にしようと、今朝、庭の掃除をしながら思った。先祖代々から伝わる知恵や文化を継承しつつ、しっかりと未来も見据えていく「未来感漂う家の在り方」を追求してみたいと思う。

 

 

このような営み(?)をしていると「昔は日本もこうだったんですよね!」的なお言葉をいただくことがある。が、わたしは決して昔に戻りたいとは思わない。真逆で「未来に進みたい」と思っている。ただ、あまりにも未来のことばかりを考えていると『地に足がついていない感』が自分の中から醸し出されてしまうような気がするので、そこら辺はしっかりとバランスを取っていきたい。バランスを取るということ、これは非常に重要なテーマだ。いいことばかりをしていると悪いことをしたくなり、悪いことばかりをしているといいことをしたくなる。真面目なことばかりをしていると、肚の裏側で『全身全霊のギャグをかましたい』などと思ったりする。世の中が「ありのままで」などとやかましい時は、ありのままでいい訳がないじゃないかなどと思ったりする。世の中が「いまを生きる」とか「ワクワクに従う」などとやかましい時は、いまを生きている場合ではない【ワクワクに従っている場合ではない、ゾクゾクに従え!】などと思ったりする。誤解を恐れずに言えば、生きとし生けるものの本性は「天邪鬼(真面目な不良少年&少女)」なのだと思っている。

 

【イベント情報】5/31(水)坂爪圭吾さんトークライブ☆秦野くりはら

 

ダサいものは捨てる。

菊名の家にあるダサいものを徹底的に捨てる。掃除は人生哲学にも通じるものがある(ような気がしている)。ダサいものを捨てること、中途半端なもの(例えば百均の商品など)の介入を阻止すること、自分のこころがときめくものだけで空間を織り成すこと。安物買いの銭失いなどという言葉もあるけれど、わたしは「いいものを長く」使いたいと思う。これは、多分、人間関係にも通じるものがある。よくわからないひとたちとよくわからない付き合いをするよりも、わたしは「いいひとと長く」付き合っていきたい。友達は好きだけれど、友達ごっこは好きじゃない。ひとと話をすることは好きだけれど、表面的な会話を続けていると虚しくなる。愛想笑いをしないこと、自分の本音を隠さないこと、時には言い辛いことも勇気を出して真っ直ぐに伝えるということ、それが真の意味で「誠実である」ことのように思う。

 

【過去記事】真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。 - いばや通信

 

所有はダサい。

先日、とある著名人K様がポルシェを購買したという話を(K様の知り合いの女性から)聞いた。わたしは、まだそんなことをやっているのかと思った。ので、K様の知り合いの女性に「もしもK様に次会う時は、このように伝えてください。K様、いまのままではあなたは猛烈にダサいですよ。でも、そのポルシェをごちゃまぜの家の駐車場に置いて『僕が使っていない間は誰でも自由に使っていいですよ』ってみんなと共有をしてくれた日には、あなたは死ぬほど粋な男ですよ」と言った。多分、これまでの時代は「どれだけ素晴らしいものを『所有』しているか」がそのひとの格好よさ【社会的な地位】を測る尺度になっていたのだと思う。しかし、21世紀的な考え方では「どれだけ素晴らしいものを『共有』しているか」が、そのひとの格好よさを測る尺度になるのではないだろうなどと思っている。

 

豪邸を買ったひとがいる。でも、周囲のひとから見れば「だからなに?」という話である。だがしかし、そのひとが突如「誰でも自由にこの家を使っていいですよ!」的なノリで、その豪邸を開放【共有】した瞬間から、そのひとは『最高に粋なひと』になる。誤解を恐れずに言えば、所有を誇っている間は死ぬほどダサかったはずのあのひとも、それを共有した瞬間から、一気に格好良くなるという謎の逆転現象を発見した。これはたとえばの話になるけれど、これから先の人生、坂爪圭吾が手に入るものは家も車もなにもかもすべて「生きとし生けるものの共有財産になる」というとする。さすれば、たとえばわたしが家を手に入れた時は「みんなにとっての家が増える」ということになり、わたしがポルシェを手に入れた時は「みんなのポルシェが手に入る」ということになる(説明が下手すぎるけれど上手に伝わっているのだろうか…)。

 

こうなると、自分が豊かになるほど周囲のひとも同時に豊かになる【共有財産が増える】という流れになる。わたしは、こんな感じの流れを「いい感じだな」などと思う。所有の裏側には常に「失うことに対する恐れ」がある。どれだけ貯金や所持品を増やしたとしても、失うことを恐れるあまりに「まだ足りない!まだ足りない!」などなってしまい、死ぬまで所有物を増やそうとしてしまうのは人間のサガだ。そして、そのことによって「自らを身動きが取れない状態に置いてしまう」ことにもなる。しかし、共有という考え方には「失うことに対する恐れ」がない。仮に自分の手元からは一切合切がなくなってしまったとしても、まあ、いいか、別になにも問題はない、自分にはなにもなくても他のひとが持っているからどうにかなるという「こころの余裕」を生む。そういう話を、先日のツイキャス音声配信からちょっとだけ話したので、興味のある方は是非聞いてみてください(そして実際にお会いした際に話の続きをいたしましょう!!)。 

 

【音声配信】Recoded Radio ゴダまぜの家 - いばや #375656516 - TwitCasting 

 

踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

続けることに価値があるならば、終わらせることにも価値がある。この前の日曜日にわたり食堂【0円食堂】を開催した。そして、この日がわたり食堂&わたり文庫の最終回ということに(前日の夜に突然思い立ってそうすることに)して、およそ2年間続いた活動は終わった。認知度も高まり楽しみにしているひとも増えているのにどうして終わりにしちゃうのですかと尋ねてくださる方々に、わたしは正直に「自分が飽きてしまったからです」と答えた。わたり食堂の活動も、わたり文庫の活動も、我ながら素晴らしい営みだなと思いながら続けてきた。しかし、同時に「なんだかちょっと飽きてきたな。そろそろ刷新の必要があるな!」とも思っていた。わたり食堂を終わらせることに決めた時、不思議と、こころに「爽やかな風」が吹くのを感じていた。終わりは同時にはじまりでもあると言う。自分をレベルアップさせるために、古い自分を一回殺す(終わりにする)ことは、魂の新陳代謝になるのかもしれない。

 

 

ツイキャス音声配信の中でも話しているけれど、わたしは「いつか」とか「またの機会に」という言葉をあまり信用していない。いまやらなければ、多分、永遠にやることはないのだろうということを頻繁に感じる。わたり食堂も、本来であれば定期的に開催されることになっていたのだけれど、それでは「(何かをやりたいと思う気持ちが湧き出したとしても)毎月やっているならいまじゃなくていいか」という気持ちを生むことにもなる。その感覚を断ちたいと思う。すべてに終わりの瞬間があるということを、明確に意識しはじめた時に「いま」という瞬間に強烈な輝きは宿る。生きているのはいまだけだということ、目の前にいるひとも、目の前に広がる風景も、当たり前だと思っていたはずの日常も、もしかしたら「これが最後になるかもしない」という静謐な感覚を、失いたくないと思う気持ちが終わりにする道を選ばせた(のだと思う)。

 

 

失敗を恐れたりひとに馬鹿にされることを恐れて、自分の歌を歌うことを躊躇してしまうことがある。しかし、すべての瞬間には終わりがある。傷つくことを恐れることもあるけれど、いつの日か『傷つくことさえもできなくなる』瞬間が必ず来る。心臓に耳をすませる。鼓動の音が聞こえてくる。命は踊りたがっているのだと実感する。生きるということ、生きたいと願うこと、それは「踊り続けるということ【時には傷つくことさえも厭わないこと】」と同義なのかもしれないと思う。命は踊りたがっていて、カラダも、ココロも、それにつられるようなカタチで『自分のなにもかもを投げ出して、本当は踊りたい』のだと思う。それは、多分、いつの日か踊ることさえもできなくなる日が来ることを知っているかのように、生きろ、生きろ、と叫んでいる。

 

 

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あたひ。。。(熱海の朝日)

 

人生は続く。

 

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