いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

いいひとをやめると楽になる。

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伊勢神宮を経由して大阪にはいる。おとといの夜、伊勢神宮の内宮の真ん前にある宿に宿泊をさせていただいた。ほんとうは朝の6時頃に鳥居から登る朝日を眺める予定だったのだけれど、朝5時頃に一旦目覚めたものの「美しい風景よりもいまは睡眠を大事にしたい」という気持ちが勝り、寝た。8時過ぎに再び目覚めたものの、その日は昼から大阪で予定があったために結局伊勢神宮には一歩も足を踏み入れることなく三重県を離れた。最近、自分の精神年齢は高校生で止まっていることがわかり、自分に正直に考えてみたら「俺は神社や仏閣にはあまり興味がないみたいだ」ということが発覚をした。眼前に国宝級の何かがあるのにまったく行こうとしない自分を見て、ああ、こんな自分も悪くないなと自分のことを好きになった。

 

今週土曜日25日の11時から、東京都内でプロギャンブラーのぶきさんとの対談企画(?)に声をかけていただいた。荷物はバックパックひとつだけ、世界中のカジノを渡り歩き、地球6周分もの総移動距離を重ねながらブラックジャックとポーカーだけで飯を食っているプロギャンブラーののぶきさん。このような方の存在に触れると「この世の中にはいろいろな生き方があるのだなあ」と感慨深い気持ちになる。この日は、わたしの大好きなロゼカンパニーのおふたり【保科亮太さん&嘉向徹さん】もはるばる新潟県から下道を高速で飛ばして遊びに来てくれることになりましたので、お時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください(ロゼカンパニーのおふたりは最高におすすめです!)。

 

【イベント詳細】【緊急開催】いばや通信・坂爪圭吾×ギャンブラ=トーク!

 

花を買う前は死ぬ気で行く。

花を抱えている男性は素敵だと思う。海外などでは、花屋さんのお客さんの大半は男性で、女性が花屋さんに来ることは少ない。世間的にも「花は男性が女性に贈るもの」という認識が共有されているために、男性自身も花を買う(花を贈る)ことに対する抵抗が少ないと聞く。わたしは、この風習を「とてもいいことじゃないか!」と思うので、隙さえあれば誰かに会う前に近場の花屋さんで一輪の花を調達する。何度も書いていることだけれど、花を買うと「これから会うひとに会う楽しみが倍増する」ように思う(想像以上によろこんでもらえるので、男性のみなさまにはオススメです!)。

 

しかし、ひとつのトラップがある。全国各地の花屋さんを巡りながらわかったことがあるのだけれど、花屋さんの店員さんには悲しいことに疲れ切っているひとが多い。冬場の水作業などは地獄の沙汰なのだろうとは思うのだけれど、花を扱っているひとが枯れているという皮肉的な現実がある。わたしは、疲れているひと(チェーン店に多い)に接客をされると死にたくなっちゃうという病気を抱えているために、花屋さんに足を運ぶ前には大袈裟な言葉になるけれど「死ぬ覚悟をする(あるいは店内にいる間はひたすら呼吸をとめ続ける)」必要がある。花屋さんの前に到着をしても、すぐにはお店に入ることはできない。どうか店員さんの顔面が枯れ散らかしていませんようにと軽く願い、呼吸を整えてから、お店にはいる。

 

こんなことを言うと女性蔑視的な発言だと殴られてしまうかもしれないけれど、女性を潤わせるのは男性の役割だと思う。女性が潤えば日本も活気を取り戻し、日本も活気を取り戻せば、花屋さんに行く前に死ぬ覚悟をする(呼吸を止め続ける)必要はなくなる。男性陣には、これもひとつの社会貢献だと思って女性陣に花を配りまくって欲しいと思う(本当に!)。家のない生活をしていた頃、ああ、このひとは豊かな暮らしをしているなあと感じるひとのご自宅には必ず植物や生花が置かれていた。このひとはちょっと乾いているのかなと感じるひとのご自宅には、植物も生花も置かれていないことが多かった。多分、おはなを買うお金がないのではなく「おはなを飾る精神的な余裕がない」ことが、ある種の貧しさを生むのだと思う(逆に言えば、おはなを飾ることである種の豊かを生むのだと思う)。

 

「頑張る」必要はない。

 何かしらの機会でお会いした方々から、帰り際に「なんだか元気をもらいました!明日からも頑張ります!」と言ってもらえることは頻繁にある。しかし、わたしはこれまでの人生で頑張ったことがないので「頑張らないでください!」と返す。頑張ると言う言葉には、どこか「いやなことを無理をしてでも頑張る」的なニュアンスを感じる。頑張ることよりも頑張らないで済むことの中に、頑張ろうとしなくても自然とカラダが勝手にやってしまっていること(周囲からは謎に頑張っていると見られることもあるけれど、本人的にはまったくその気のないこと)の中に、そのひと自身の魅力は宿るのだと思う。

 

昔から「頑張る」という言葉が苦手だった。頑張るという言葉には「枯れた井戸を掘る」的な徒労感を覚える。多分、その井戸はすでに枯れているのだと思う。頑張りを必要としている時点で「すでにオワコン【八方塞がり】である」ような気がしていて、嫌なことを無理をしてまで続ける努力をする必要はないと思う。そんなことよりも、わたしは「今世は諦めてください!【人並みであることは捨てましょう!】」と思う。もっと言えば「ダメな自分を認めてください!【いいひと振るのはおわりにしましょう!】」と思う。頑張りたいけれどどうにもこうにも頑張れないということは、多分、本音の部分では「まったくやりたいと思っていない」からなのだと思う。ここはひとつ、潔く、晴れ晴れと、明朗に、自分にはできませんと諦めた方が楽になれるような気がする。

 

【過去記事】今世は諦めてください。 - いばや通信

 

損か得か、有利か不利か、それだけで道を選ぶと、いつの間にか「自分の好き嫌いがわからなくなる」という最悪の罠に嵌る。家庭教育や学校教育などでは「大学に行った方が得だ」とか「大企業に入った方が得だ」などと、自分の好き嫌いではなく世間的な損得勘定が基準になっていることが多いために、それを間に受けてしまうと「自分にとって有利か不利か」ばかりが行動の指針になってしまう。わたしの信条のひとつに「やりたいが『やらなきゃ』になったらゲームオーバー!」というものがあるのだけれど、多分、頑張りはじめているということは間違いはじめているということのサインなのだと思う(人間の最大のパフォーマンスが発揮される瞬間は『リラックスをしている時』だとわたしは思う)。

 

『森の絵本』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、長田弘(作)・荒井良二(絵)著作『森の絵本』です。こちらの本は、昨日、天王寺駅前でお会いした方から「わたしは好きなひとに絵本を贈ることが大好きなのですが、よかったらわたり文庫に加えてください」と託していただいた一冊になります。荒井良二さんの絵本はわたしも大好きなのですが、こちらの本の存在は生まれてはじめて知りました。そして、最初のページをめくった瞬間に「ああ、これは自分に大切な一冊になるんだろうなあ」という、温かな予感に包まれました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※

 

「ほら、あの 水のかがやき」と その声は いいました。

声のむこうを きらきら光る

おおきな川が ゆっくりと 流れてゆきます。

「だいじなものは あの 水のかがやき」

 

「ほら、あの 花々のいろ」と その声は いいました。

たくさんの花々が 咲きみだれています

そっと季節が ほほえんだみたいに。

「たいせつなものは あの たくさんの 花々のいろ」

 

「ほら、あの わらいごえ」その声は いいました。

公園の 木だちのあいだから

子どもたちの はじけるようなわらいごえが きこえてきます。

「あの 明るい わらいごえを わすれてはいけない」

 

長田弘(作)・荒井良二(絵)『森の絵本』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫 

 

いいひとをやめると楽になる。

何かをしなきゃいけないとか、何もしていない自分には価値がないという考え方からは、できるだけ距離を置いていたいと思う。何かをしなくちゃいけないという思いから何かをやるのではない、わたしは、あくまでも「やらなきゃではなく『やりたい』と思ったことをやりたい」と思う。語尾は「〜しなくちゃ」ではない、常に「〜したい」でありたいと思う。わたしは弱い。すぐに何かの影響を受ける(すぐに自分以外の何かの責任にしてしまう)。弱い自分を護るためには、最新の注意を払う必要がある。自分は本当にそれをやりたいと思っているのか。実際は「やらなきゃいけない(やってあげなくちゃいけない)」とは思っていないか。強迫的な感情にとわれていると気づいた時は、勇気を出して、できるだけその声を無視するようにしている(そうでもしなければ、簡単に自分を見失ってしまいそうな気がしている)。

 

 

これはただのお願いになるのだけれど、わたしは「やらなきゃよりも『やりたい』の声を聞いて欲しい」と願う。様々な方々と会う中で、自分を含めた多くの人たちが「こうでなければいけない」という檻の中に閉じ込められていて、そして、そのことによって苦しまれているように感じることは多い。でも、これをしなくちゃいけないという強迫的・懲罰的な気持ちに負けてはいけないのだと思う。これをしなくちゃいけないという思いの先に、必ず、自分の内側から湧き上がる「これをしたい」と思う前向きな気持ちはあるのだと思う。汚れていない純粋な声に耳を澄ませること、純粋な思いが湧き上がることを信じるということが、きっと「自分を信じる【自分を生きる】」ということなのだと思う。

 

 

金や名誉を求めることも、結婚相手や恋人を求めることも、人並みであることを求めることも、それによって「愛されることを求めている」だけなのだと思う。しかし、これさえあれば誰かに愛されることができるということは、これがなければ自分には愛される資格はないということになってしまう。しかし、わたしは「そんなことはないぜ」と思う。愛と呼ばれるものがあるのならば、それはそんなに器の小さなケチ臭いものではないと思う。そのひとが素晴らしいのは「そのひとがそのひとであるから」に他ならない、自分が自分そのものの部分を認めることができなければ、どれだけ多くの金を集めても、どれだけ多くの名声を集めたとしても、どれだけ素晴らしい装飾で着飾ったとしても、多分、虚しさを取り払うことは永遠にできないだろう。何かを通じた自分を誇りにする【自分以外の何者かになろうとする】のではなく、何もかもを取り払った後に残るもの、何者でもない自分そのものに胸を張れるような在り方を、多くのひとびとができるようになればいいと願う。

 

 

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人生は続く。

 

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