いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

今世は諦めてください。

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奈良県の雪山で遭難をしたばかりの保科さんが車で高知に来る。私たちは合流をして、高知県から愛媛県大洲市に向かう。大洲市在住のC様と合流をして、おはなとチョコレートを渡す。昨夜はC様のご自宅に宿泊をする。広い、広い、自然に囲まれた本当に素晴らしい家にC様はひとりで暮らしている。C様は言う。いくらでも泊まるスペースはありますから、好きな時に遊びに来てください。私と保科さんは「四国にみんなが自由に泊まれる家があったらいいね」などと話をしていたばかりだったので、この展開に驚愕をする。本日から、私は「与える喜びを与える喜びをツアー」を自主的に開催する。声をかけてくださるひとがいる限り、移動を続ける生活は続く。

 

【イベント詳細】与える喜びを与える喜びツアー 〜The joy of living is the joy of giving〜

 

大阪でカネがなくなった時は「終わったな」と思った。しかし「終わりははじまり」というのは世の常で、無事に(今回の企画の最終目的地である)愛媛県大洲市まで到着をすることができてよかった。今回も、幾つものドラマティックな出会いに恵まれた。金もない、仕事もない、特別なスキルも何もない、私はひとつのバトンみたいなものなのかもしれないと思う。私自身はからっぽで、しかし、からっぽな私を生かしてくれる方々がいるから私の生命は繋がれて行く。様々なひとが「私」というバトンを運んでくれる。 

 

flow + er = flower【流れゆくもの】

私はおはなが好きだ。そんな単純な理由で「花が欲しい方がいたらお気軽に声をかけてください。何処にでも渡しに行きます」というイベントを立ち上げたのが2月1日の水曜日。すると、富山県在住の20代女性S様から「おはなをください」という連絡が届く。S様曰く「私は両親を幼い頃に亡くしていて、ずっとおばあちゃんに育てられて来たのですが高齢のおばあちゃんは現在入院をしていて生死の境をさまよっている状態です。これからのことを考えると暗い気持ちになることもあるのですが、坂爪さんがおはなを配っていることを知って『私もおばあちゃんにおはなをあげよう』と思い、おはなをあげたらすごい喜んでもらえてすごい嬉しかった。だから、私も、坂爪さんからおはなをもらえたら嬉しいと思って連絡をしました」とのこと。私は、これはもう絶対に行くしかないヤツだろうと思い、新宿発の高速バスを予約して富山県高岡市に到着をしたのが2月7日の火曜日。 

 

富山から金沢・敦賀・京都を経由して大阪市内に到着をしたのが2月9日の木曜日。梅田で大学生のT君と合流をする。時間もあったので「梅田のグランフロントの適当なカフェに大量のおはなを購買して向かい、そこに来てくれたひとにおはなを配ろう」と思い立つ。残りのお金をおはなに変えて、私は、ほとんど無一文の状態になる。これからどうなるのかなんて知らない。どうやって愛媛県に向かうかもわからない。でも、きっと(これまでの人生もどうにかなってきたように)これからもどうにかなっていくのだろうと思い、あんまり先のことは考えないことを決める。梅田のグランフロントには、結果的に10名近い方々が遊びに来てくれた。そのうちの一人が、なんと、香川県高松市内までの交通手段を工面してくださるという驚きの展開になり、無事に四国入りを果たしたのが2月10日の金曜日。

 

その後の流れは前回のブログ記事に書いた。高知県にて「宿がない」的な投稿をしたら、愛媛県在住の女性M様が高知市内の宿を予約するためだけにはるばる高知県まで車を飛ばして来てくれた。その姿に、私は、言葉にならない感動を覚えた。M様曰く「実は、最近主人をなくしたばかりで生きる気力を失っていて、思うことと言えば『死にたい、死にたい』ということばかりでした。家を出ることもまったくなかったのですが、いま、坂爪さんのおかげでこうして久しぶりに外に出ることができて、なんだか、少しだけこころに風が吹いたような気がしていて、このような貴重な機会を与えてくださったことに感謝をします」とのこと。私は、こういう時に、なんて言えばいいのかがわからない。M様は、高知市内の宿を取るためだけに愛媛県から車を2時間以上も飛ばして現われて、ホテルを取り、私と五分程度話した後に、すぐに愛媛県まで舞い戻った。一緒にいた時間は五分程度、五分程度のものだったけれど、私は「なんだか本当に素晴らしいものを見せてもらった」という気持ちになったのが2月11日の土曜日。

 

【過去記事】マイナスに賭ける。 - いばや通信

 

この瞬間のために生きていた。  

高知から車で香川まで迎えに来てくれたHさんが「坂爪さんのブログは読者数もたくさんいるから、本を出したり広告などを貼り付ければそれなりのお金を生むこともできると思うのです。それなのに、なぜ、お金のない生活を選ぶのですか」と尋ねる。私は、しばらく考えた後に「自分でもなぜこのような生活をしているのかがよくわかっていないのですが、もしも、私に充分なお金があってあらゆる移動を自腹で賄うことができたのならば、いま、この瞬間(Hさんに車で送迎をしてもらう・車内で会話をする時間)はなかったのだと思います。変な言い方になるけれど、この生活をしていなければこの瞬間はなかったのだと思う幾つもの瞬間があったことを思うと、この生活をしていてよかったなあと感じます」と答えた。

 

兵庫県で出会った女性は「私は、旦那さんは五人くらいいた方がいいと思うんです。ひとりの旦那さんにすべてを求めるとつらくなってしまうと思うから、たとえば経済的に支えてくれる旦那さん、一緒にいると落ち着く旦那さん、広い世界を見せてくれる旦那さん、こどもの面倒を見てくれる旦那さん、思う存分愛させてくれる旦那さんみたいな感じで、旦那さんは五人くらいいた方がいいと思うんです」と話した。私は、なんとなく、わかるような気がした。結婚とはなんだろうか。恋愛とはなんだろうか。制度とはなんだろうか。多分、それらは「ただの言葉」に過ぎないのだと思う。万物は流転をする。すべては流れて行く。生きている時間も人間も空間も誰のものでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。固定された瞬間、私物化された瞬間、ひとつの言葉に囚われてしまった瞬間から、自由は奪われるものなのかもしれない。

 

『これが私の優しさです』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、谷川俊太郎著作『これが私の優しさです』です。こちらの本は、愛媛県今治市在住の女性K様が「わたり文庫用に、是非」と託してくれた一冊です。私の敬愛する三森さんは「男性は真理を求めて生きていて、女性は真理そのものを生きているような気がします」ということを過去に仰っておりましたが、雛祭の日にというひとつの詩に、私は、同じ匂いを嗅ぎ取りました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、島根県にわたりました ※※※

 

 雛祭の日に

 

娘よ ー

いつかおまえの

たったひとつの

ほほえみが

ひとりの男を

生かすことも

あるだろう

そのほほえみの

やさしさに

父と母は

信ずるすべてを

のこすのだ

おのが命を

のこすのだ

 

谷川俊太郎『これが私の優しさです』【集英社文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

ひとと同じであることを諦める。

先日、鹿児島県で久しぶりに労働をする機会に恵まれた。ここ数年、労働と呼ばれるものから随分と距離をとっていたために、私は人並みに働くことができるのだろうかと不安を覚えた。業務内容は「スーツに似合うハンカチーフを売る」というものだったのだけれど、私は、20分程度働いた後に「ああ!やばい!ダメだ!過労だ!」みたいな感じになってしまい、店長さんに「まだまだ働きはじめたばかりだというのに非常に申し訳ないのですが、1時間ほど、休憩をいただいてもよろしいでしょうか」と懇願をした。そして、お店の近くにあるドトールに逃げた。

 

ドトールでひとり珈琲を飲みながら「ああ、俺はたかだか20分程度の労働で過労死寸前になるほどには弱者なんだな」と思い耽った。自分を責める気持ちが湧き出してきたというよりは、逆に、いよいよ自分は来るところまで来たのだなあという清々しさが溢れ出した。そして、頭の中に「今世は諦めてください」という言葉が舞い降りた。ひと並みに生きることができなくて苦しんでいたのが私の10代。ひと並みになろうと踠いて踠いて結局つまづきまくっていたのがひと昔前の20代。そして、ひと並みであることを諦めたのが30代、いま、無理なことは無理なのだとひとつずつ諦める【余計な何かを剥ぎ落とす】ことを通じて、漸く、自分が少しずつ軽くなるような感覚を覚えている。

 

今世は諦めてくださいという言葉は、聞く人によってはネガティブな言葉に響くのかもしれない。諦めるなんて絶対にいけない、努力が足りない、根性が足りない、ひとは頑張れば必ず報われるのだという言葉を信じたいひともいるのだと思う。しかし、どうやら、私は違うみたいだ。私の場合、諦めるほどに軽くなり、諦めるほどに自由になる。いまの自分は、自分以上でもなければ自分以下でもない。これが自分なのだから、この自分で生きるしかないじゃないかと、ある種の清々しさが湧き出してくる。諦めるということは、生きることを諦めるということではない。それは、きっと「ひとと同じであることを諦める」ということなのだと思う。ひとと同じであることを諦めた先に見えるもの、それが、もしかしたら「自由」なのかもしれないと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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