いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。

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ムラキテルミさんと嘉向徹君と車で京都に行く。ムラキさんは、過去に、余命三ヶ月と言われた肝臓癌を断食で克服した。車内は、健康談義で盛り上がる。病気の原因は血液の汚れ。血液の汚れの原因は『食べ過ぎ』と『低体温』。ムラキさんは言う。さかつめさんは腎臓と肝臓を大事にしてあげるといいよ。肝臓は怒りをため込む臓器とも言われているから、睡眠時間をしっかりとって身体を休めてあげたり、怒りを溜め込まないこと。小豆煮もいいよ。私は、ムラキさんのことが大好きだ。好きな理由は108個以上あるけれど、最大の理由は「かわいいから」だ。
 
 
今週の土日は東京で開催されるイベントに登壇をする。ムラキさんは、私のことを「食客のプロ、現代版の吟遊詩人みたいだね」と言う。私はよろこぶ。秋葉原のイベントには、みっつも(精神的な都合がつけば)来る。私とみっつの出会いはおよそ二年前、東京にある三軒茶屋駅の改札前で、念願の初対面を果たした。その出会いは衝撃的で、以来、みっつとは暇な時に話したり話さなかったりしている。みっつは言う。菩薩みたいにみんなの話を優しく聞いてあげている時のさかつめさんも好きですが、阿修羅みたいに荒れ乱れている時のさかつめさんはもっと好きです。
 
 
 
 

奈良のイベントに登壇をする。

昨夜は奈良のイベントに登壇する。参加者は45名。主催者の女性は「保守的だと言われている奈良のひとがこんなに集まることは珍しい。奈良で何かをやる時は、大抵、奈良以外の方が来ることが多い」と話す。昨夜は、徹君も一緒に壇上にあがる。徹君は、佐渡島に家がある。この家は、佐渡島に家をもつ非常に粋な男性から「君みたいな若者を待っていたんだ!この家を、この環境を、大いに使ってくれたまえ」とプレゼントをされた。この家で、徹君は「誰でも自由に無料で生きていけることをあれこれ」を実験的に試しているが、現金収入がないために、来客を無料でもてなす代わりに自身は「はじめてのアコ○」で借金生活を続けている。

 
前に、ブログ記事で「私の役割は、話の長い校長先生に『校長先生、話が長いです』と実際に言うこと」だと書いた。その記事を見てくれた某S県の中学校の校長先生から「あなたは面白い事を言いますね。今度の全然集会で、一部引用してもいいですか?」という連絡が届く。私は驚き、この展開を愉快だと思う。そして「ご自由にどうぞ!」と答える。奈落の底を這い生きる自分みたいな地底人間の言葉が、非常にパブリックな場所で引用される。誤解を恐れずに言うと、私は、悪い影響を与えたいと思っている。その為、いままでは叱られることの多い人生だったが、最近は「怒られるよりも面白がってもらえる」ことが増えた。
 
 
昨夜、奈良のイベントに来てくれた女性が言う。「さかつめさん、前に『米をつくることや米を買うことは苦手だけど、米を貰うことは得意だ』みたいなことを書いていたじゃないですか。あれ、なんだか妙にツボにはまってしまって、私、7年振りに笑ったんです。この7年間、個人的にいろいろなことがありました。が、その言葉を思い出すだけでも不思議と何度も何度も笑いが溢れてしまって、ああ、自分はまだ笑うことができるんだって、私は、救われてしまったんですよ」と言う。私はよろこぶ。徹君のアコ○で借金生活の話題も、昨夜、非常にツボにはまってくれた方が「君達は最高だね!」と言ってくれた。
 

押し寄せの法則。

引き寄せの法則に対抗しない形で、いばやでは「押し寄せの法則【別名・しわ寄せの法則】」を提唱する。佐渡島で何かをやりたいと願った徹君は、無一物の状態で佐渡島に飛び出し、そこで家を得た。家賃を浮かす為に家のない生活をはじめた私は、無一物の状態で世間に飛び出し、結果的に様々な恩恵を受けることができた。仲間が集まったらやるとか、完璧な環境が整ったらやる的な考え方に象徴される「待ちの姿勢」ではなく、何もないけれどやる、ひとりでもやる、自信はないけれどやる、不完全でもやる、とりあえず実際に火の中に飛び込んで見た愚者の生き様を補う形で、与えられるものが奇跡だと思う。
 
いばやは勝手に押し寄せる。いばやは愚者の集団だ。頼まれもしない場所の中に、環境の中に、状態の中に、遊び感覚で自らを投じて成り行きを見守る。その反動は大きい。押し寄せの法則は、しわ寄せの法則でもある。が、このような生き方をすることの最大のメリットは「粋な人間に出会う率が飛躍的にあがる【ひとの優しさに触れがち】」ことだ。正々堂々、裸一貫、生涯無一物で飛び出す。すると、それを見た人が「あなたたち、このままだと死ぬよ!ほれ、これを使いなさい」的な感覚で様々なものをくれる。私達は「ありがとう!」と言う。頂き物を食べ、生きるパワーを得た所で、また次の死に場所【遊び場】を求めて彷徨う。
 
多分、仲間は「歩き出した後に出会うもの」だと思う。宝物も同じだ。ひとりの人間が覚悟を決める。周囲の人間の反対を押し切り、いまいる場所を離れて、出発をする。歩きはじめる。知らない場所に到着をする。知らないひとと出会う。困難に出会う。困難を乗り越える。また、困難に出会う。困難を乗り越える。また、困難に出会う。困難を乗り越える。困難を経て強さを、困難を経て優しさを得る。そして、歩き続ける。歩き続けるその中で、出会うものが仲間だと思う。そして、歩き続けたその先に、残る記憶【共に生きた形跡】が宝物になる。
 

『第三の嘘』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、私の愛する悪童日記三部作の最終話、アゴタ・クリストフ著作『第三の嘘』です。悪童日記はまじで面白いので、是非、皆様に読んでいただきたい作品になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※
 
 

思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。

トークイベントの際に「自由とは何か」という話題になる。私は「自分が消えている状態だと思います」と答える。過去の自分は、自由とは「やりたいことができる、行きたい場所に行ける、好きなひとといることができる」ような状態を自由だと思っていた。が、最近では「自意識やエゴと呼ばれるものからの自由」こそが、真の自由なんじゃないだろうかと思うことが多い。
 

 
私は、幸福とは全体感であり、不幸とは分離感だと思っている。俺が、俺がとなるほどに、不自由になっている【大きな何かから切り離されている】感覚を覚える。が、ある種の無心になれている瞬間、たとえば、私は夕日が好きなのだけれど夕日を見た瞬間の私は「思わず駆け出しちゃってる」状態になる。この「思わず○○しちゃってる感」こそが重要であるような気がしていて、この瞬間、私の自意識は全体に溶け出している。エゴイスティックな思いは消え失せて、大袈裟な言葉で言えば『主体を共有する』ような感覚を覚える。
 

 
俺が、俺が、となるほどに私は不自由になり、何かに執着をし、結果的に不足感を抱くことが多い。今回のブログ記事は、使う画像がなかった為にいばやのMAYUCHAPAWONCAさんの幼年時代の写真を勝手に拝借した。小さなこどもを見ていると、ああ、こいつらは主体が完全に溶け出している、だからこんなにも好奇心に満ち溢れていて、こんなにも生きる力に溢れているのだろうなあみたいな気持ちになる。見るもの、聞くもの、触れるものが、多分、全部、自分なんだ。思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番だと思う。こどもはいつだって規格外で、そして、自由だ。
 

 

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人生は続く。
 
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