いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【DPS-新潟】神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

f:id:ibaya:20151206182848j:plain

台北経由の便でバリ島を離れ、成田空港を経由して(日本のロンドンでお馴染みの)新潟県にはいった。日本海側の冬は厳しく、基本的には曇天が続き、太陽が顔を出す時間は限りなく少ない。だからこそ、日の光が差し込んだ瞬間のありがたみは身に染みて分かる。冬が厳しいことは辛く酷だけれど、だからこそ、春の訪れを心の底から喜ぶことができる。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・自分が嫌いなひとにではなく、自分が好きなひとのためにエネルギーを使うこと。


自分の意識を常に何処にフォーカスしているのか、不安や恐怖や憎悪を対象にフォーカスするのか、希望や感謝や喜びを対象にフォーカスするのかで、多分、自分の心の状態はいくらでも変わる。多くの場合、自分の気分が滅入ったり、沈みがちな状態になっている時は、前者(不安や恐怖や憎悪など)にフォーカスをしてしまっている。自分の感情は、自分で選択することができる。


2・最も身近な自然は人間。


人間は、ひとりでいるときほど深刻に物事を考えてしまう。しかし、まったく同じ状態に置かれていたとしても、誰かといるだけで笑い飛ばせることがある。私は、過去に重度の鬱病でぶっ倒れていたことがある。個人的に、鬱病の最も苦しかった点は「普通ならば感動できるはずの場面で、自分の心が何も動かなくなってしまったこと」だった。どれだけ心が動いたのかが人生の豊かさを決めると思っていた私にとって、この症状はほんとうに辛かった。「死んでいるのと同じだ」と、そう思っていた。

しかし、面白いことに、自分と似たような状態に置かれている(鬱病で会社を休職している)友達と電話で話をしている時だけでは、心が何も感じなくなっているはずの自分も、大きな声で笑うことができていた。多くの場合、電話の話題は『自分が如何にダメな人間か』ということだった。たとえば、私が「俺なんて昨日は20時間も寝たよ」と話せば、相手は「自分なんて親の前で泣き崩れちゃったからね」などという風に、お互いに自分のダメな部分を話し合っていた。

不思議なことに、電話のトーンは常に明るかった。日常的にはまるで笑顔になれる瞬間なんてなかったのに、電話の時間だけは、常に大声で笑っていた。ひとりでいる時は死ぬほど深刻になってしまうようなことでさえも、誰かと話すことで笑い飛ばせる瞬間がある。私が身体と精神を壊したのは、いまから5年以上も前の出来事である。新潟の海を眺めながら、ふと、過去の出来事を思い出していた。


3・神のなさることはすべて、時にかなって美しい。


失敗とは何だろうか。人は何を「失敗」と呼ぶのだろうか。身体を壊して寝たきりになった五年前の出来事は、自分にとって失敗だったのだろうか。確実に言えることは、現在の自分は、当時の自分をなくしては絶対に語ることができないということだ。そして、それらの出来事は「なるべくしてなった(起こるべくして起こった)」ように感じている。大袈裟な言葉で言えば、あのタイミングで神的な何かが「ここらでちょっと休んでおけ」と言ったような感じで、私をぶっ倒したのだと思う。

聖書の言葉に「神のなさることはすべて、時にかなって美しい」というものがある。乱暴に言い換えると「あらゆる出来事はベストタイミングである」という意味になる。五年前の自分に「お前がいまぶっ倒れているのは必然なんだよ」と言った所で何も耳には入らなかっただろうけれど(渦中にいる時はとてもじゃないけれど信じられないことでさえも)、あらゆる出来事はベストタイミングで発生しているのかもしれない。それならば、大切なことは『これがベストタイミングだ』と信じることだ。

4・運気と行動は比例する。


私は、同じ場所で同じことをする日々を過ごしていると、まるで自分が腐っていくような感覚を覚える。逆に言えば、行動を起こすと風が吹く。自分の中で見えない何かが周りだして、行動を起こす前に感じていた停滞感や閉塞感が消えてなくなるような感覚を覚える。清々しさを覚える。私は、この清々しさが好きだ。多分、運気と行動力は比例している。

5・絶対的な自分に集中すること。


答えは自分の内側にある。

6・自分の価値は、自分で決める。


自分の価値を決めているのは、自分自身だ。

7・生き様に宿る説得力は、言葉を超える。


理解を求めたり、何かを説明することにエネルギーを使うのではなく、自分しか行くことができない場所まで、どんどん足を進めること。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。最大の説得力は「自分が選んだ道で幸せそうに生きている姿を見せること」であり、生き様に宿る説得力は、言葉を超える。

8・感情は連鎖する。


悪い流れを断ち切ること。

9・自分のために生きること。


本当の意味で自由に生きている人は、それを見る人の心まで自由にする。自分の為に生きることが、結果として誰かの為になることがある。


10・遊び疲れたこどもが眠りに落ちるように。


思えば、同じようなことを、同じような言葉で延々と綴ってきたような気がする。やりたいことをやればいい。そのままでいい。そのままがいい。誰の目も気にしないでいい。どれだけ馬鹿にされたとしても、自分が「いい」と思えば、それだけでいい。それだけがいい。そういうことを、様々な言葉を使って、懲りることなく何度も何度も書き綴ってきたような気がする。

私は、誰に向かって言葉を紡いでいるのだろうか。それは、多分、自分と似たような人に向けて、そして、現在の自分に繰り返し言い聞かせるように、飽きることなく同じ言葉を書き綴っているのだろう。私の理想は、いまも昔も変わっていない。毎日「今日も生きた」と思って眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、遊び疲れたこどもが眠りに落ちるように、人生に幕を降ろすことだ。


天の下では、

何事にも定まった時があり、
すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、

死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えた物を引き抜くのに時がある。

殺すのに時があり、

いやすのに時がある。
くずすのに時があり、

建てるのに時がある。

泣くのに時があり、

ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、

踊るのに時がある。

石を投げ捨てるのに時があり、
石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、
抱擁をやめるのに時がある。

捜すのに時があり、

失うのに時がある。
保つのに時があり、

投げ捨てるのに時がある。

引き裂くのに時があり、
縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、

話をするのに時がある。

愛するのに時があり、

憎むのに時がある。
戦うのに時があり、

和睦するのに時がある。

働く者は労苦して何の益を得よう。

私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

神のなさることは、
すべて時にかなって美しい。

神はまた、人の心に永遠を与えられた。


しかし人は、
神に行われるみわざを、

初めから終わりまで見きわめることができない。

旧約聖書 伝道書)



f:id:ibaya:20151206182848j:plain

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya keigosakatsume@gmail.com