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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

【TAK-香川】いつも明るい人間になる必要はないし、いつも明るい人間でいる必要もない。

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岡山県を経由して香川県に入り、国の特別名勝に指定されている栗林公園を散策した後に徳島に向かい、徳島駅から高速バスで兵庫県の舞子に出て、舞子から三宮まで車で送迎してもらった後に山陽新幹線で熱海に入り、東京の台場と新馬場を経由し、いま、急遽新潟市内に戻ってきた。この数日間で、様々なひとと出会った。


最近足を運んだ場所で、自分がいいなと思う場所には「青色」を連想させる何かがある。高円寺は赤で表参道は青、福岡は赤で長崎は青、高知は赤で香川は青、大阪は赤で神戸は青、名古屋は赤で静岡は青、バルセロナは赤でモスクワは青、多分、沈黙を共有できる空間が自分は好きなのだと思う。自分の奥底にある「何か」に辿り着くためには、一定期間の沈黙が必要になる。沈黙に耐えきれずに発生するノイズは、出てくるはずの「何か」を簡単に捻り潰してしまう。

沈黙との向き合い方が時間の質を決める。


全国各地で開催されるトークイベントなどに出演する機会が増えてから、沈黙との向き合い方が時間の質を決めるということを思うようになった。私は、基本的に講演会のように自分が壇上に上がって聴衆に向けて一方的に話すというスタイルを好まないし、そもそも、大勢の人間の前で訴えたいと思う「何か」がない。そのため、私は一応壇上と呼ばれるようなものの上にはあがるものの、自分から話し始めることは少なく、司会や参加者からの質問に答える(あるいは、自分以外の登壇者達が交わしている会話に感じた共感又は違和感を伝える)スタイルでイベントは進行する。

質疑応答の時など、沈黙が訪れることが頻繁にある。参加者が私に質問をする。私が答える。司会が「他に何かあるひとはいませんか」みたいな形で、参加者達に投げかける。手を挙げるひとはいない。沈黙が生まれる。司会は「せっかくなので是非!」などと言いながら、更に発言を促す。私は思う。この瞬間が分かれ目になる。多分、沈黙には二種類ある。自分には何も言いたいことがない時に生まれる時間と、ほんとうは何かを物凄く言葉にしたいのだけれど、自分の中でまだ言葉にすることができていない何かを「消化する」ために必要な時間、の二種類だ。

私は、根本的に「話したいと思った時に話すのが良い」と思っている。最悪なのは「空気を盛り上げる(沈黙に耐えることができない)ためにとりあえず何かを言葉にした時」であり、大概の場合、そういう話題は軽薄な上に退屈で、周囲の人間の思考力と集中力を奪い、時間の質を下げる。自分の言葉で話しはじめるために、一定期間の沈黙(何かを消化する時間)を必要とするひとがいる。沈黙に耐えることができない人間は、消化の時間を奪う。

不安になることは異常ではない。


岡山で開催されたイベントの際に、参加者の女性が「坂爪さんは(家も金も仕事もない生活をしていると伺いましたが)不安になることはないのですか」と質問をした。私は「不安ですか・・・」と答えに窮した。思い浮かぶものが何もないので、その場では正直に「特にありません」と答えた。しかし、あとになってから自分の発言はまるで言葉足らずだったということに気がついた。

たとえば、現在の私は「家のない生活」をしている。数年前までは、当たり前のことだけれど普通に家のある生活をしていた。家があった頃は、常に不安に怯えていた気がする。その不安は「路頭に迷うことになったらどうしよう」という不安だった。いまはどうにか家賃を払うことができているけれど、何が起こるかわからない、何かしらの事情により家賃を払うことができなくなり、路頭に迷う日が来たらどうしよう」という不安に怯えていた。

路頭に迷うことに怯えていた私は、現在、路頭に迷うことを怯えていない。理由は単純で、既に「路頭に迷っている」からだ。私には不安がないのではなく、真逆で、不安のど真ん中を生きているだけに過ぎない。言い方を変えれば「不安を覚える暇がない」のであり、結果的に、不安を意識する時間が圧倒的に減少した。

不安になることはないのですかという質問に「特にありません」と答えた瞬間の私は、多分、言葉足らずだった。私が「特にありません」と言った瞬間に、亀裂が入った。ああ、これはいばやの坂爪さんだからできることであって、普通の自分には無理な話(縁のない話・参考には出来ない話)なのだという風に認識されてしまっているという印象を覚えた。別に、坂爪圭吾は頭がイカれているから不安を覚える神経回路が生まれた時から欠如しているとか、そういう類の話ではないと思う。不安がないのではなく「不安になることは異常ではない」と言った方が、自分の感覚を的確に伝えることができたのではないだろうかと反省をした。

「楽しく充実した日々を過ごさなければいけない」という嘘。


この世の中には「楽しまなければいけない」「みんなと仲良くしなければいけない」「楽しく充実した日々を過ごさなければいけない」というような風潮が強い。同様に、好きなことをやりましょうとかワクワクすることをやりましょうとか感謝をしましょうとかいつも笑顔でいましょうとかポジティブシンキングでいきましょうとかひとを愛しましょうとか夢や目標を持ちましょうとかいまを生きましょうとか、まるで小学校の標語のような中身の薄い言葉が溢れている。

こうした言葉に嘘臭さを覚えるのは、多分、自分だけではないと思う。あらゆる感情は自分の内側から湧き上がるものであり、強制された瞬間にそれは暴力になる。これらの標語は「明るい暴力」だと思っている。明るい言葉は、まさにその明るさによって、暗い状態に置かれている人間を追い詰めている。自分の中にあるネガティブな感情の存在を認めることが出来ない(そうしたくてもそうできない)時、そのひとは「自分はダメな人間だ」という烙印を押し、まるで自分に復讐するように、傷跡を残す。

元気になれと言われるよりも「別に元気にならなくてもいい」と言われた時の方が、逆に、元気に開きはじめるひとは増加するのではないだろうか。感謝をしろと言われるよりも「別に感謝なんてしなくてもいい」と言われた時の方が、逆に、何かに感謝をしたくなるひとは増加するのではないだろうか。強くなれと言われるよりも「別に強くならなくてもいい」と言われた時の方が、逆に、自然と強くなるひとは増加するのではないだろうか。

「大切なひとに何かをすることができる存在でありたい」と願う痛切な祈り。


たとえば大切な何かを喪失した時、自分にとって大切だと思う人に、自分は何も力になることが出来ないのだと身をもって痛感させられた時に、私達は自分の無力さを痛感する。引き裂かれるような痛みがあるからこそ、過去に何度も「そのこと」を実感したことがあるからこそ、逆に、誰かの力になることができたという実感の中に、まるで、いままでのすべてが星々の瞬きのような輝きを帯びて自分の日々に報いてくれるような、「生きていて良かった」と感じることが出来る喜びを覚える。

出来ることなら惨めな気持ちにはなりたくない。自分の無力さを痛感すること以上に、少なくとも、それと同じ程度には「自分は誰かの力になることができる」ということを実感したい。何かを後悔する気持ちは、これ以上は後悔をしたくないということを気付かせてくれるひとつのサインで、できることなら後悔の日々は終わりにしたい、できることならこれで悲しみを最後にしたい、できることなら自分にとって大切だと思うひとに何かをすることができる存在でありたいと願う痛切な祈りが、明日を繋いでいくのだろう。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com