いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

【DPS-メングイ】喜びを得ること、喜びを与えること、これ以上に大切なことはない。

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バリ島のメングイ地区にある、バリニーズのご自宅に二泊三日でお邪魔をさせていただいた。結論から言うと、非常に素晴らしい体験をさせていただいた。大人10人(!)子供20人(!)という大家族の暮らしからは、様々なことを教えられた。


バリニーズの暮らしは「新しいけれど、懐かしい」

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大家族が暮らす敷地の中に案内をしていただいた。敷地内には、幾つもの住居が立ち並ぶ。あまりにも全員の仲が良いために、何組の家族がいるのか見当もつかなかったのだけれど、ここでは、同じ血筋のいとこ同士が共同で暮らしている。自分のこどもと他人のこどもの間に境界はなく、こどもはあらゆる大人に心を許し、甘え、戯れ、大人はあらゆるこどもに分け隔てなく愛を与え、見守っている

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到着直後、ココナッツのウエルカムカットが行われた。ココナッツを切るにはある程度の腕前が必要になるらしいが、男性陣が器用にナイフを捌き、バリのお菓子と共に振る舞ってくれる。

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日本の和菓子のような味がする。これがひとつ10円程度で露店などに売られている。新しいけれど、懐かしい。バリにはそのように感じるモノがたくさんある。

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自宅の入り口には、日本でも頻繁に目にする竹で出来たゴザ(?)が敷いてある。

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サルがいた。飼っているらしい。他にも、大量のイヌ、ネコ、アヒル、ニワトリなどが放し飼いにされている。サルは凶暴なので鎖に繋がれていたけれど、人間も含めたあらゆる動物が『放し飼いにされている』比較的カオス(それでいて余裕がある)状態に、非常にヘブンリーな印象を受けた。

豊かさと水が湧き出る森の中へ。

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ナンシーの案内で、近くで所有しているという森林の中へと連れていってもらった。

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森の中へと続く道を歩く。

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途中、全裸で水浴びをしている男性とすれ違ったりもした。

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所有地に到着する。辺り一面には草木が生い茂っている。まだ、整備はしていないようだ。見上げると大量のバナナがなっていたり、みかんが落ちていたり、ココナッツやパパイヤが実をつけていたりするのが目に入る。拾う。食べる。美味い。足元からは水が湧き出ている。美味い。ここにいたら絶対に飢えて死ぬことはないのだろうな、と思う。

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ひっそりと牛が飼われていた。ナンシー曰く「水も果物もあるし、豊かだよね。けーちゃん(坂爪圭吾)の知り合いの人達も、日本で疲れたらここでお話会とかをやるのもいいかもね」

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見上げた空が綺麗だった。

ここでのルールはシンプル、何も考えないこと。

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敷地内に戻ると、用意されたいた食事が運ばれてきた。バリの人達はほんとうに優しい。これでもかというほどに優しさのシャワーを浴びせてくれる。串に刺したのは豚肉のミンチで、窯で焼き上げる。べらぼうに美味い。骨の部分など、人間が食べきれない部分は犬が食べてくれるから無駄が出ない。

バリの食事は、皆、別々のタイミングで食べる。日本のように、全員が揃ったら食べるというような習慣はなく、自分が食べたい時に食べるのが通常らしい。そのために「ご飯はもう食べた?」と尋ねることが、お互いのコミュニケーションのきっかけにもなるのだという。

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アヒルの行進を眺めていたら、ナンシーが「これから豚を捌くらしいけれど、けーちゃんも見るか?」と教えてくれる。私は、今までに豚が捌かれる瞬間を見たことがない。戦々恐々としながらも「見たいです」と答えると、ナンシーは言った。

「OK。わたしはこれからひと足先に自分の家に帰るから、明後日の朝、また迎えに来るね。ここにいるみんなはほんとうに優しいから、甘え切っても大丈夫。そして、ここの暮らしのルールはシンプル、何も考えないこと。何かをしてもいいし、何もしなくてもいいから、感じることに集中するのよ」

豚とガルンガン。

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豚を捌く現場に向かうと、突如、逆さ吊りにされた巨大な豚が目の前に現れた。テンションが上がった男性陣が「むおー!ぬおー!」と叫びながら、豚を担ぎ上げて運んでいる。バリの人達にとって、豚は最高のご馳走なのだという。(ここから先は閲覧注意になるのかもしれない)

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豚の捌き方は(わたしが見た範囲では)以下の手順で行われた。豚の喉元を裂く。血を抜く。表面をバーナーで焼く。皮を削り落とす。頭と胴体に切り分ける。腹を裂く。内臓を取る。骨と肉を切り分ける。余った皮を剥ぎながら、丁寧に肉の部位を切り取る。

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作業はおよそ一時間程度で終了した。その場にいる誰もが玄人だった。ナイフを器用に使いこなし、小さなこどもたちも、大人たちが捌く現場を真横で見ている。ほとんどの部位を捨てることなく、全体を10等分にして、身内全体で分け合い、各自で持ち帰って行った。

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7月15日はガルンガンと呼ばれる祝祭の日で、日本で言うところの『迎え盆』になる。この時期になると、画像のような装飾が住居のあちこちに施される。

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日本の獅子舞のようなものも行われていた。中に入っているのはふたりのこどもたちで、獅子舞を囲むように、その他大勢のこどもたちが楽器をならしながら行進をしていく。ここにもまた、日本と非常に似通った文化を感じることができた。

バリニーズの暮らしで感じた三つの問い。

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様々な感想を持ったが、とりわけ心に残ったのは以下の三つ。

1・家族単位で暮らす必要があるのか?
2・ほんとうの豊かさとは何か?
3・自分さえ良ければそれでいいのか?

1・家族単位で暮らす必要があるのか?

複数の家族が同居している、しかも、幸せそうに。このような状態を真近で見るのは初めての体験であり、非常に新鮮だった。誰が誰の親だとか、誰が誰のこどもだとか、そういう境目がこの場にはなかった。

そして何よりも印象的だったのが、誰も、何も、強制されて何かをやらされているという雰囲気がないということ。そして、だからといって何もしない訳でもなく、誰かが掃除をしている時は、誰かが赤ちゃんの世話をしたり、誰かが食事の準備をしている時は、誰かが洗濯をしているという感じだった。

いわゆる普通の家族は「ひとりの父親と、ひとりの母親と、何人かのこどもたち」で構成される。しかし、この場には複数の父親と、複数の母親と、複数の子供達が暮らしていた。必ずしもひとりの父親とひとりの母親だけで家族を構成する必要はないのだ、ということの実例を垣間見せてもらった。

2・ほんとうの豊かさとは何か?

おそらく、これから数年の間で『豊かさ』の定義は大きく変わる。いままでは「立派な車」や「大きな家」などに代表されるように、自分の所有物を通じて日々の豊かさを実感してきた。しかし、いまの時代に『いまよりももっと大きな家に住めたら、いまよりももっと立派な車に乗ることができたならば、自分はもっと幸せになれるのに』と感じている人は、ほとんどいないんじゃないのかと思う。

バリの大家族を構成するひとりひとりは、見ているこちらが泣きそうになるくらい、綺麗な瞳をしていた。瞳の輝きは『生命の充足』を物語っていた。誤解されると困るが、私は、バリが豊かで日本が貧しいと言いたい訳ではない。多くの人たちが「自分にとっての豊かさとは何か?」という問いを、自分自身に問う必要性を感じていくであろうシーンが、これから増えていくのだろうなと感じている。

3・自分さえ良ければそれで良いのか?

電波のある環境に戻ってきて、各種SNSなどを開くと、日本では国会前でデモをしているとか、阿部政権をぶっ潰せとか、あなたもこういう活動に参加するべきですとか、いま、政治に興味を持たないひとは人間としての責任を果たしていないとか、様々な人が、様々な言葉で、様々な状態を憎んでいた。


思えば、自分のことばかりを考えて育ってきたような気がする。立派な大学に入りなさいとか、立派な企業で働きなさいとか、そういう画一的な価値観のレールの上から必死になって、落ちないように、落ちないように、落ちないように、そこから落ちないためならば周囲の人間を蹴落としてでも、自分さえ良い大学に入れたのならば、他人はダメでも自分さえ良い企業で働くことができたのならば、それが『勝ち組』とされるような、そういう価値観のもとで自分は育ってきたように感じていた。

しかし、自分のことばかりを考えているだけでは、絶対に味わうことができないよろこびがある。それが「与える喜び」であり「お互いに助け合う」喜びであり、「喜びを分かち合う」ことの喜びになる。人間は「受ける」以上に「与えることが出来た」時に喜びを感じる生き物だと、わたしは思う。そして、実は、皆が何かを誰かに(奪うのではなく)与えたいと思っている。


バリの夜、電波の入らない環境で、ひとり、ほんとうの意味でひとりきりになり、暗闇の中にぽつんと、長い時間、夜を眺めていた。自分の内側から湧き出してくる感情を待っていたら、ひとつのワードが、ふっ、と浮かび上がってきて、私は忘れてしまわないように簡単にメモをとった。

喜びを得ること、喜びを与えること、それ以上に大切なことはない。

暗闇で暗闇を消し去ることはできない。それができるのは光だけであるように、憎しみで憎しみを消し去ることもできない。わたしは、憎しみよりも、喜びに触れていたい。『喜びを得ること、喜びを与えること、それ以上に大切なことはない』ということを、バリニーズの瞳の輝きは物語っていた。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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