いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

【KIX-関西空港】『自分』という人間を楽しむこと。ー 誰かのためではなく、自分のために生きることが、結果として誰かの力になることがある。

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高知県を経由して関西空港に戻り、今夜発の便でインドネシアに向かう。バリ在住の女性から「航空券は負担します。坂爪さんもお疲れだと思うので、バリの風を浴びながらゆっくり羽を伸ばしてください。バリでの時間は自由に好き勝手にしていただけたらと思います」という連絡をいただいた。


チューニングが出来ていない身体は不協和音を発している。

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最近は多くの人達と出会う日々を過ごしていた。誤解を恐れずに言うと「この人はチューニングが狂っているな」と感じる機会が頻繁にあった。おそらく、私は多感なタイプな人間なのだろう。チューニングが狂っている人と同じ空間にいると、不協和音に呑み込まれて、まるで『自分が自分でいることが難しくなる』ような感覚を覚える。

多分、人間も楽器みたいなもので、会話はオーケストラのようなものなのだろう。ひとつでも音程が外れている楽器があれば、オーケストラは台無しになる。美しい交響曲を奏でるには、ひとりひとりが自分のメンテナンスを怠ることなく、自分をチューニングできる時間や場所を持つことが大切になる。

多感であることは褒め言葉ではない。それは『生きづらい』ということだ。自分が自分でいることが難しいと感じる時には、ノイズから距離を置いて、ひとりになる必要がある。私には『ひとりの時間』が必要だ。ひとりの時間がなければ生きていけない程度には、私は弱い人間なのだということを思う。

自分がいいなと思うものに触れたりすると、自分の身体をチューニングできている感覚を覚える。

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自分がいいなと思うものに触れたりすると、自分の身体をチューニングできている感覚を覚える。チューニングができていない身体は、不協和音を発して周囲の人達も混乱させてしまう。自分の身体をチューニングする方法は幾つもあるが、そのひとつが『自然に触れる』ことだと思っている。


私には家がない。移動を続ける生活をしているために、自分には「ここに行けば安らぐことができる」という場所がない。言い換えるならば、私には『帰る場所』がない。足を運んだ先々の場所で泊まり、夜を越して、朝が来れば、また次の場所に移る。そういう日々の繰り返しを送っている。

このような生活にさみしさを覚えることもあるが、冷静に考えて見ると、ひとつの事実に気がつく。それは『家があった時も、別に自分の居場所なんて何処にも感じていなかったじゃないか』ということだ。思えば、自分はずっとさみしかったのだと思う。それは別に、いまにはじまったことではない。

居場所とは「場所」ではなくて「人」である。

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昔から『自分には居場所なんて何処にもない』と思っていた。そうした感情の裏側には『居場所が欲しい』と痛切に求めている自分がいた。いまでは、そうした感情からは比較的自由になれている。それは『自分の居場所が見つかったから』ではなく、居場所とは『場所』ではなくて『人』だと思うようになったからだ。


私は太陽が好きだ。そして、海が好きだ。だから、太陽が登る場所の下にいるときに『ここが自分の居場所なんだ』という気持ちになる。太陽は登る場所を選ばない。何処にいても、国境を越えて太陽は登る。太陽が登る限り、私は何処にいても、何をしていても、自分の居場所を感じることが出来る。

そして気がついたことがある。複雑な言い方になるけれど、居場所とは『自分自身』なのだ。自分がいいなと思うものに触れたりすると、自分の身体をチューニングすることができる。それは、忘れていた自分自身を取り戻す感覚に似ている。自分が好きだと思える人と一緒にいるとき、それは、同時に『この人といるときの自分が好きだ』ということを思い出すことができている。

自分が自分でいる限り、一緒にいる人も自分自身でいることができる。

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足を運んだ先々で「坂爪さんは何がしたいのですか」と頻繁に尋ねられた。夢や目標はあるのですか、ゴールは何ですか、これからどうしていきたいと思っているのですか、などなど、様々なひとから様々なことを尋ねられた。私には、夢も目標もゴールもなく、あるのはこの瞬間だけだと思っている


思えば、昔の自分は「誰かを救えるようなことがしたい」などと考えていたことを思い出した。過去に精神を病んだことがあるために、鬱病患者の気持ちや自殺をしたくなるひとの気持ちはそれなりにわかる。それなりにわかるからこそ、自分の経験も踏まえながら『自殺を減らすようなことができたらいい』と思っていた時期もある。しかし、いまではそうした感情もほとんどなくっている。


いまの自分は『自分がやりたいと思ったことを、やりたいようにやるだけだ』と思っている。すると、不思議な現象が起きていることに気がついた。私の生き様や、私が綴る文章を見た人達から『死にたいと思っていたけれど、生きようと思いました』というような感想の声が届くようになった。

誰かのためではなく、自分のために生きることが、結果として誰かの力になることがある。

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当たり前のことだけれど、私は自殺者を減らすために『いばや』の活動をやっている訳でもなければ、日本を明るくするために『移動を続ける生活』をしている訳でもない。理由は単純で『自分がやりたいと思ったから、やっている』だけであり、そこには夢も目標も明確なゴールも、なにひとつない。


そんな私の生き様や文章に触れた人達から、様々なリアクションをもらう機会が増えてきた。誤解されると困るが、私は決して自慢がしたい訳ではない。相変わらず私は弱い人間で、簡単に自分自身のチューニングを狂わせてしまうし、ひとりになる時間がなければ容易に崩れ去ってしまう状態にある。

ただ、誰のためでもなく、何のためでもなく、自分自身のために生きることが、結果として誰かの力になることがある。自分が自分でいることに徹すること、自分に集中すること、自分の身体をチューニングすることは、結果として『周囲の人間のチューニングを助ける』ことにもなるのだと思うようになった

『自分』という人間を楽しむこと。

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稀に「坂爪さんはいまを生きていますね」と、まるで褒め言葉のように言ってもらえることがある。非常にありがたいことだとは思うけれど、それは私が「立派だから」ではなく、それは私が「立派ではないから」だと思っている。過去や未来を背負いながら生きていけるほど、自分は立派な人間ではない。


自分みたいな人間でも、どうにか生きて行くためには余計な荷物を捨てていくしかない。過去や未来は重荷になる。自分には重荷を背負える余裕がない。背負えるものは『自分』と『現在』の二つだけだ。この二つだけなら、どうにか背負っていくことができる。それならば、自分が背負えるこの二つだけは、しっかりと生かしていきたいと思っている。これが、いまの自分の正直な気持ちになる。

私にあるのは『自分』と『現在』だけであり、それ以外には何もない。それならば、自分に与えられているこの二つだけでも、最大限に生かしていきたいと思っている。余計なノイズに惑わされながらも、自分の身体をチューニングできる時間と場所を経由しながら、自分という人間を楽しみたいと思っている

人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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