いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【BKK-アユタヤ】東京が古くなるのは時間の問題で、地方都市の魅力が再発見される。ー 都市化するほどに人々から表情と余裕が奪われていく。

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アユタヤ経由でバンコクに戻り、タイ在住の日本人の方々と食事をしたり街を巡ったりした。ベリーダンスのショップ(?)を日本と香港とバンコクで経営している女性社長から連絡をいただき、当日は総勢七名でバンコクのフードコートで皆で話した。その時々で思ったことを10か条にしてまとめます。

今回のテーマは『自然と人工』

1・「タイの人たちは自分の感情にふたをしていない」

食事の場には大学三年生の女性も来てくれて、彼女は今までも五回程度タイに足を運んだことがあるのだと話してくれた。タイの魅力に強く惹かれたために、二週間前から(観光や旅行ではなく)企業のインターンとして一年間働くために短期移住してきた。

「私がどうしてこの国に惹かれたのかを考えてみたら、日本と大きく違うのが、タイの人たちは『自分の感情にふたをしていない』からなんだって思ったんです。飲食店の人も、疲れている時は思い切り疲れた顔をしているし、自分を殺している人がほとんどいない基本的に自然体なんです」

2・都市化するほどに人々から表情と余裕が奪われる。

これは香港でもマレーシアでもシンガポールでも感じたが、何処の国にも通勤ラッシュと呼ばれるものがあり、それに伴って(決して日本だけのお家芸ではない)満員電車も発生している。東南アジアの発展は目覚ましく、基本的に各国の都市部は東京と大差がない。大差がないどころか「ほとんど東京と同じ」であり、違うのはそこにいる人達の肌の色と、交わされている言葉の違い程度になる。

都市部の人は何処か忙しそうにしている。人口密度の高いために、必然的に物理的な余裕が減る。それに比例するかのように「精神的な余裕」までが失われていき、精神的な余裕が失われることで人間的な表情が失われていく。私はアユタヤ界隈で象を見かけては「象だ!」と興奮したりしていたが、現地の人に言わせれば、話はちょっと違うらしい。

「アユタヤの象は可哀想だ。まるで飼い殺されているような印象を受けます。チェンマイの象は、なにかこう『もっとのんびりとしている』感じがするのですが、アユタヤの象は、象なのに『まるで馬車馬のように働かされている』ような感じがします」

これは象に限らず人間にも当てはまるらしい。バンコクの人々よりも、チェンマイに暮らす人達の方が「のんびりしていて」「あたたかさがあり」「余裕を感じる」のだと話してくれた。世界は既に均質化していて、都市部は何処も似たような状態になっている。その国の特性について深く知りたいと思った場合、地方都市に住む人々の生活に触れることが何かを掴むきっかけになるのだろう。

3・東京が古くなるのは時間の問題で、地方都市の魅力が再発見される。

日本においても状況は似ている。自然が少ない都市部に暮らし、(起きたいから起きるのではなく)目覚まし時計で叩き起こされる朝を迎え、(食べたいから食べるのではなく)昼飯の時間だからという理由だけでランチをとり、どれだけ外が晴れていようがひたすら屋内でPC作業を繰り返し、夜になれば過剰な電飾で彩られた「まるで昼のような明るさ」の中で飯を食べたり知人や友人と話したりする。

これが今までは「都市部で暮らす自然なスタイル」だった。自然と掛け離れた生活をすることが「自然」とされていて、乱暴に言えば『不自然な状態が自然』になっていた。私はここに違和感を覚える。本来であれば人間も自然の一部であるはずが、今はその点が見事に見て見ぬふりをされているような気がしている。人間が(自然の一部であるというよりも)まるで機械の一部のようになってしまっている、と感じることは多い。私はこれを「不自然」というよりも「非自然」な状態だと思っている

4・自然と都市のデュアル・ライフスタイル

誤解されると困るが、私は無条件に自然を賛美したい(都市をディスりたい)訳ではない。むしろ私は都市部の便利な生活が好きで、東南アジアトイレの数が少ない(あったとしても衛生的にどうなの?みたいなものが多い)状況よりも、日本の「何処にでも清潔なトイレがある」状態の方が嬉しい。

稀に「坂爪さんは江戸時代に戻りたいのですか?」と尋ねられることがあるが、私自身は「昔は良かった」と思うことは皆無であり、単純に「これからの時代に合った楽しい生き方」とは何だろうかと考えながら生きている。世界は常に未来に行きたがっていて、テクノロジーの進化を止めることは出来ないし、これからも世界は日増しに便利になり、今まで以上の速度で変化を遂げていくのだろう。

重要なのは「ひとつのことに拘泥する」ことから可能な限り自由になることであり、趣味も仕事も住居も拠点も(時には家族や恋人という極めてパーソナルな人間関係でさえも)幾つかを掛け合わせることだと思っている。ひとつの仕事に拘泥する必要もなければ、ひとつの居場所に拘泥する必要もない。自然と都市部を往復する生活を続けることで、保つことができる自分自身の人間性があると思う。

5・「幸せになるためには何かが必要」という考え方は古くなり、「幸せになるためには余計な何かを削ぎ落とす必要がある」というのが21世紀の主流になる。

ヨガの講師をやっている方から印象的な話を聞いた。

「坂爪さんのブログを読んでいたら、坂爪さんは日常生活の中で既にヨガをマスターしているという謎の現象が発生しているような気がしました。ヨガのゴールって、決して身体を柔らかくすることでもなければ健康になることでもなく『自分には何かが足りない』という思いから自由になることなんです」

この話を聞いた時は、嬉しくなると同時に「そうだよなあ」と思った。たとえば、私たちは既に「ものが自分を幸せにしてくれる」という幻想を信じられない段階にいる。軽自動車をベンツに乗り換えれば幸せになれるとか、安いマンションから豪邸に移り住めば幸せになれるとか、「幸せ」とはそういう類のものではないということは、多くの人々が感じていることだと思う。

「何かが足りない」という思いから自由になるという境地は、『自分が自分である』ということを受容出来た瞬間に訪れる。別に綺麗事が言いたい訳ではなく、自分と同じ存在は世界の何処を探しても見つけることはできない。誰もが唯一無二の存在であり、自分が自分である限りオリジナルな価値は宿る。

6・「身体的・精神的・社会的」そして「霊的な健康」

世界保険機構(WTO)は、健康であることを、「身体的」「精神的」「社会的」そして「霊的」であるとしました。この最後の「霊的」が足されたのは1999年のことで、WTO満場一致で決まり、その後世界的に「霊的」健康に対する取り組みが行われました。 ー 高城剛「白本・弐」より引用
日本では「霊的」などと言うと、すぐに安易なスピリチュアルに結びつけられて「胡散臭い」という印象を持たれがちになってしまう。これはメディアの影響もあると思うが、うまく言えないけれど「霊的な健康は確実に存在する」と私自身は感じている。人によっては「自分以外の何か大きなものに繋がっている感覚」と表現する人もいるし、これは男性よりも女性の方が感じやすい現象かもしれない。

私は「家のない生活」を通じて、自分は生かされているのだという感覚を今まで以上に強く抱くようになった。家を失うことで多くの人々が私を自宅に泊めてくれたり、講演依頼が届いたり、海外にまで招待してくれる人や、他にも様々な形で私の活動を支えてくれる人達と出会うことができた。

逆に言えば、家のある生活をしていた段階では「自分は生かされている」という感覚を覚えることは稀だった。「自分のことは自分でやっている」と感じる時、自分は生かされているだなんてなかなか思うことは出来ない。しかし、本来であれば(自分が作った訳でもない電車に乗り、自分が作った訳でもないスマホをいじり、自分が作った訳でもない会社に属している限り)あらゆる人が「生かされている」状態にある。自分は生かされている(生きているだけで嬉しい)という感覚を何を通じて覚えることが出来るのか、これが「霊的な健康」を獲得する道に繋がっているように感じている。

7・現実とイメージのギャップを埋める

人間の心と体は密接に繋がっていて、心が不調の時は身体に症状が現れるし、肉体が不調な時は思考する内容もネガティブなものになりやすい。海外生活を送る中で「体力がものを言うのだな」と感じる瞬間は多大にあったし、それはランニングなどの日常的な運動もそうだろうけれど、自分自身が日常的に選択している「考え方(物事の解釈の仕方)」が何よりも重要な気がしている。

「坂爪さんはどうやって心身のバランスをとっているのですか?」と尋ねられ、私はうまく答えることが出来なかった。しばらく考えたのちに「頭で考え過ぎないことだと思います」という答えが浮かんだ。きっと、私たちはあらゆる場面で頭で考えすぎている。頭で考えすぎると(実際はそうでもないのに)頭の中だけでイメージが強烈に膨らみ、現実とのギャップが広がってしまう。

重要なのは「現実とイメージのギャップを埋めること」であり、それが出来るのは行動だけだ。どれだけ頭で考えても「やってみなければわからないこと」があり、やってみなければわからないことをやる前に理解しようとするのは無理がある。それでは、実際に何を行動すればいいのだろうか。

8・自分が恐怖心を覚えることをやる

私の信条のひとつに「現状を打破する道は唯ひとつ、自分が恐れていることをやることだ」というものがある。人間が恐怖心や不安を覚える時、それは(実際の現実ではなく)自分が頭の中で思い描いている『最悪のイメージ(要するにおばけ)』に怯えているだけの場合が大半であると睨んでいる。

実際にやってみることを通じて、人間は「案外たいしたことはない」ということを知る。現代社会はとにかく頭で考えることを強制してくるが、実際にやってみればたいしたことはないことが大半であり、人生はどうにかなる。自分の身体を張って実際に体験することで、心身のバランスが整うのだろう。


9・「自然の摂理」と「人間の摂理」がずれ始めている

地球上には二つの摂理があるように思う。ひとつは「自然の摂理」で、ひとつは「人間の摂理」になる。本来であれば人間も(他の動物と同じように)自然の一部であったはずが、今では機械に近い存在になっているように思うことがある。自然は「循環」で成り立っているのに対して、人間は「交換」で成り立っている。太陽は何かと引き換えに地球を照らす訳ではない。誰かに頼まれたから草木が伸びる訳でも雨が降る訳でもなく、自然界は基本的に「大きな循環」の中でそれぞれが成立している。

私は、過去に「贈与交換」的なものの考え方をしばらく続けていた時期があったが、現代社会の閉塞感や停滞感は「等価交換の原則(というかルール)」がもたらしているのではないかと感じている。等価交換が基本の世の中だと、何かを持っている人は社会に参加することが出来るけれど、何も持っていない(と見なされてしまう)人は置き去りにされてしまう。人間の価値が「(存在そのものではなく)その人が持っているもの」で計られるようになってしまうと、パイの奪い合い(競争)がはじまる。


10・私たちは「走る」のか「走らされている」のか

東南アジアでの生活も一旦終了し、再び日本に戻る。振り返っての感想が「そういえば、バンコクでもクアラルンプールでも、駆け足で通り過ぎていくような人をひとりも見たことがない」というものだった。東京の新宿や渋谷を歩いていると、とにかく多くの人々が忙しそうに(他人を押しのけてでも)歩いたり小走りをしていたりする。「邪魔だ!どけ!」という声にならない声が聞こえてきそうになるほど、何かに追い立てられるように過ぎて行く人々を見る機会が頻繁にある。

私たちは「走りたいから走る」のか、自分ではない何かに「走らされている」のだろうか。自分がそうなりたいと思う道を歩いているのか、それとも自分ではない何かに「そういうものだ」と思い込まされているレールの上を、自分の意思とは関係のない所で歩かさせているのだろうか。

人間は奴隷でもなければ家畜でもなく、命令されたことをやるだけの機械でもない。唯一無二の心を持った存在であり、本来であれば誰もが自由な存在であるはずだ。「(遅かれ早かれ)人は必ず死ぬ」という点において、誰もが同じ道の上を歩いていることになる。その道の上を「走りたいから走る」のか「走らされるように走るのか」で、日々の充足度はゆるやかに確実に違いを見せていくのだろう。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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