バンコクの著名な観光地であるワットポーを巡った後に、定宿近くにあるテラスカフェに来た。一週間程度前に、私のブログを読んでくださっていたバンコク在住の女性の方から連絡をいただき、ご自宅に数日間お世話になっている。手ぶらで出歩ける解放感は最高で、インターネットの凄味を感じた。
どれだけ移動しても「自分から逃れることは出来ない」ことを痛感する。
— 坂爪圭吾 3/2-11@BKK-東京 (@KeigoSakatsume) 2015, 3月 3
日常からどれだけ離れたとしても、自分自身からは離れることは出来ない。結局、日本にいても海外にいても考えることは似たようなことで、最近の私は「金」について考えていた。バンコクで思うことあれこれを10ヶ条(?)にしてまとめます。
1・「金は嫌なことをやる代わりにもらうもの」という前提を変えなければ、私は永遠に金の奴隷になってしまう。
私は自分自身のスケジュールをブログ末尾で公開しているために、「時間があったらお茶でもしませんか?」的な連絡を稀にもらう。去年の10月頃、立て続けに「会いたい」という依頼(?)が重なった時期があり、一週間で15名以上と個別でお茶をしたりしていた。その中には会話が盛り上がる人もいれば、まったく会話が盛り上がらない人もいるし、「この人と会えてよかった」と思う人もいれば「まるで自分自身の何かを奪われているように感じる」こともあり、正直に言えば私は疲弊していた。
ある日、とある女性の方から「会いたい」と連絡をいただき、私たちは渋谷のカフェでお茶をした。2時間程度話した後に、私は(あまり会話も盛り上がらなかったので)「そろそろ帰りましょうか」と言った。すると、その女性が「これ、少ないですけれど受け取ってください」と言いながら、私にポチ袋を渡してくれた。女性と別れた後にポチ袋を開けてみると、そこには五千円札が一枚入っていた。
2・給料が我慢料だとしたら、死ぬまで我慢しなければいけない。
私は、五千円札を受け取った時に「腑に落ちる感覚」を覚えた。今までは、当たり前だけれど「坂爪圭吾とお茶をすること」に料金をつけたことなどなく、私は自腹で交通費を負担してカフェに向かい、飲食代金を払い、自分の限りある時間を投下していた。出会う人の中には「会話が盛り上がる人」もいれば「会話が盛り上がらない人」もいて、この女性とは会話が盛り上がらなかった。乱暴に言えば『時間を無駄にしてしまっている』感覚も覚えていたのだけれど、五千円札をもらった時に「腑に落ちる感覚」を覚えた私は、同時に、非常に危険な信号が明滅しているような予感を覚えた。
3・自分の生命を時給に換算してはいけない。
極端な話、「二時間話して五千円もらう」というのは、時給的にも決して悪い話ではない。これはある種の商売にもなるだろうし、私自身も「私に会いたいと言ってくれる人たち」から一定の料金を請求すれば、自分ひとりくらいなら生きていける程度の金額を稼げるかもしれない。しかし、私はここに幾つかの大きな落とし穴が隠されているような気がした。
4・「一緒にいてもいい人」ではなく「一緒にいると元気になれる人」といなければ、途端に人生は退屈になる。
「自分が一緒にいたいと思えない人からは、金をもらうことで一緒にいる」とか「自分がやりたいと思えないことは、金をもらうことで一緒にやる」みたいな状態を作り出してしまうと、当たり前のことだけれど自分自身の日常が「別に一緒にいたくない人たち」や「別にやりたいとも思えないこと」で満たされてしまう。定期的に金は入ってくるかもしれないが、日々が単調で退屈なものになってしまう。
「一緒にいてもいい人」ではなく「自分が一緒にいたいと思える人」「この人といると心の底から元気になれる人」「この人といる時の自分が一番好きだと思える人」との時間を大切にしなければ、あっという間に不本意な人間関係(不本意な生活環境)に自分自身を置く羽目になってしまう。
5・「金になるか」よりも「面白いかどうか」
極論、私の行動基準は「面白いかどうか」がすべてであり、「金になるかどうか」は二の次(であり三の次であり、もしかすると『金について考えた途端につまらなくなる』類の人間なのかもしれない)になる。しかし「マッチ売りの少女を殺したのは誰か?」の記事内でも言及したように、世の中には「生きるためには何かを売り続けなければいけない」という暗黙の了解めいたものがあり、生きることと金を稼ぐことはダイレクトに関係している。結果、『面白いかどうか』なんていう子供じみたことよりも『金になるかどうか』の方がよっぽど重要になり、少年はおじさんに変貌を遂げる。
6・「仕事」という言葉の概念を拡張する。
極端な話、仕事さえもする必要はないのかもしれない。「仕事」という概念も拡張した方が面白いし、無料でもやる仕事もあれば、金を払ってでもやる仕事もある。金を稼ぐための仕事よりも金を払ってでもやりたい仕事を見つけることが出来た人の方が、実は充実度の高い人生を送れる気がします。
— 坂爪圭吾 3/2-11@BKK-東京 (@KeigoSakatsume) 2015, 3月 3
仕事には三種類ある。それは「金を稼ぐ為の仕事」と「無料でもやる仕事と「金を払ってでもやる仕事」の三種類で、従来の意味の仕事は「金を稼ぐ為の手段」的な意味合いが強かったが、これからは仕事の概念も拡張した方が面白くなるような気がしている。
7・「金を稼ごうとする」からつまらなくなる
何か新しいことをはじめたいと思った時に、それで「金を稼ごうとする」からつまらなくなるのだと私は思う。私はブログを一年程度前からはじめていて、今では月間PVも50万近くまでなり、周囲の人間からは「いい加減広告を貼ったらどうなんだ」などと言われる。しかし、私は「ブログで金を稼ぐということ」にいまいちピンときておらず、一切の広告を貼り付けていない。「マネタイズなんてクソだ!」とほざきながら、一円にもならないこの「いばや通信」を、気の向くままに更新している。
しかし、ブログをはじめたことで幾つもの面白い目にも会えた。こうして海外の地で宿泊させてくれる方とも出会えたし、全国各地で開催される講演会的なものにも呼ばれるようになり、出版の依頼が舞い込んできたり、何処に隠れていたのかわからないけれど日本在住の奇特な方々との邂逅を重ねることが出来ている。そして、今、私は生きている。決して経済的には豊かではないけれど、別に死んでしまった訳でもなければ五体満足で元気にピンピンとしているので、悪くない人生だと思っている。
8・金を稼がなくても良いならば、仕事は最高の娯楽になる。
「給料をもらえなくても今の仕事をやりたいと思いますか?」という問いに、イエスと答えられる人は幸せ者だ。
— 坂爪圭吾 3/2-11@BKK-東京 (@KeigoSakatsume) 2015, 3月 3
私が「ブログで飯を食おう!」と鼻息荒く取り組んでいたら、今のような結果を得ることは出来なかったであろう。もっとマネタイズの勉強をしたり、アクセスが増えるように記事の書き方を工夫したり、せせこましい広告記事を書いてみたり、周囲のライバル的な書き手の存在にジェラシーを覚えてみたり、いちいち「外部環境に影響されまくる(自分軸がぶれまくる)日々」を送っていたと思う。
しかし、一回「金を稼ごうとすること」から距離を起き、とにかく自分の心が反応するままに書きまくる日々を過ごしていたら、幸運なことに面白い展開を運んでくれた。未だにブログからは一円の収益も上がっていないが、別に収益が上がらなくても問題はないような気がしている。問題なのは「死んでしまうこと」であり、無事に生きていることが出来ているいま、「金にならないこと」は問題じゃない。
逆に言えば、新しい何かをはじめた時に「とにかく金を稼ごう!」と考えてしまうと、その人の一挙手一投足に金の臭いが宿りまくる。「ああ、この人は金が欲しいだな」と思われてフィニッシュ、というのは非常にダサいし、(金を稼ごうとするのももちろん大事だけれど)金よりも大事な哲学なり信条が根底に流れていなければ、見る人も速攻で飽きて簡単に離れて行ってしまう結果に終わるだろう。
9・「金の稼ぎ方」よりも「金の使い方」
知識も愛情も貨幣も勇気も、溜め込んでいるだけでは意味がない。実際に使ってこそ本領が発揮されるものであり、それをどれだけ持っているかを自慢してみたところで、実際に有効に活用することが出来なければ「知識をひけらかして得意気になっているダサいおじさん」と同じ状態になってしまう。
私が愛する京都の三十三間堂には「大切な人のために祈りましょう」という立て札的なものがあり、この言葉を目にする度に「自分がいかに自分のことしか考えていなかったか」を知って、私は恥ずかしい思いになる。自分が幸せを感じることと他人が感じる幸せは切っても切れない関係にあり、金も勇気も自分自身も、大切なひとのために使ってこそ本領が発揮されるのだろう。
10・私たちは無知でも無力でも無能でもなく、無為であるだけに過ぎない。
頭で考えることは「正しいか / 正しくないか」ばかりだけど、別に正解を叩き出したくて生きている訳じゃないし、正しさよりも楽しさが人間を突き動かすのだと思う。どれだけ正しかろうとも、楽しくなければ(強制されない限り)自ら動き出したいとは思わない。
— 坂爪圭吾 3/2-11@BKK-東京 (@KeigoSakatsume) 2015, 3月 2
多分、私たちは頭で色々と考えすぎている。しかし、答えは常に自分の内側にあり、「これからどうすればいいのか」を心は既に知っている。他人の意見に翻弄されるのではなく、他人の顔色を伺って自分を殺して生きるのでもなく、自分には何かが足りないという欠乏感に煽られて必死に行動を起こすのでもなく、自分自身に《必要なものは既に備わっている》のだということを信じること。
私たちは無知でも無力でも無能でもなく、無為であるに過ぎない。何かを知らないのではなく、すべてのこと(普遍的な真理や幸せを感じる黄金律)を既に知っていて、あとは「やるか・やらないか」だけの状態に置かれている。金も勇気も自分自身も、大切なひとのために使おう。人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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