生き方に正解はない。どんな生き方も間違いじゃない。
小学校教師をやっている高校の同級生(♀)がいる。昔、そのひとに「生徒たちにはどんな感じの教育をしてるの?」と聞いた。ら、彼女は「空気を読める子になってほしい」と答えた。私は、それを聞いた瞬間、彼女には申し訳ないけれどこどもたちがかわいそうだと思った。もっと言えば「地獄だな」と思った。教師になるひとはすごいと思う。自分には、画一的になにかを教育するだなんて、とてもじゃないけれど恐ろしすぎてできない。
誰かの為とか言ってないで、自分の為に生きること。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年8月20日
誰かの期待に応えるのではなく、自分の期待に応えること。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、その副産物として、勝手に周囲の人々も照らす光を帯びるのだと思う。
まずは自分を救え。 - いばや通信 https://t.co/mBS91MdAzQ
私のことが大好きすぎる甥っ子は、現在小学一年生。家では半端なく騒ぐ元気な男の子だけれど、学校ではものすごいおとなしいらしい。そんな甥っ子を見て、周囲の人々は「学校でも自分を出せるようになるといいね」などと言う。周囲の反応はもっともなのだろうなあと思う。誰だって、自分のこどもには家でも学校でも世界の何処でも、楽しそうに生きていて欲しいと願うだろう。しかし、私は、学校ではおとなしいらしい甥っ子を見て「いいぞ、甥っ子。その調子だ。永遠にそのままで行け」と思った。
学校は「楯突く力」を学ぶ場所。
学校でおとなしい彼を見て、周囲の人々は「自分を出せていない」的な判断をする。しかし、私は、そんな彼を見て「めっちゃ自分出してるじゃん!いいじゃん!」と思った。常に明るく元気でいることだけが、みんなと楽しそうにわいわいすることだけが、授業中、積極的に発言をしたりすることだけが、自分を出すということではない。自分が従いたくないものには従わない、自分が言うことを聞きたくないものには絶対に耳をかさない、それは、立派に「自分を出している」態度だと私は思う。
しかし、学校ではそんな風に認めてはもらえない。基本的に「おとなにとって都合のいいこども」になることを求められ、それができる生徒は高評価、それができない生徒は低評価となる。最悪の場合は、ただ、おとなの都合にあわないだけで「この子は病気かもしれません」とか言われちゃう。劣等生のレッテルを貼られた少年少女は、徐々に個性や自信や生命力を剥奪されて「自分はダメな人間なんだ」という思い込みを強めていく。やがて、先生などの他者に認めてもらえる限り安心だけれど、他者に褒められない限りは永遠に不安という、他人軸フルマックスの(承認欲求にまみれた)優等生になってしまう。
学校は「楯突く力」を学ぶ場所だと思う。従いたくないことには絶対に従うなよと思う。ブルーハーツの歌詞に「おとなに褒められるような馬鹿にはなりたくない」というものがある。権威に服従するのではなく、自分が思う真理に服従をしてくれと思う。誰かの期待に応えようと頑張るあまり、ダメになってしまった人間をこれまで大量に見た。自分にとって大事な人間には、そんな風にはならないで欲しい。誰かに褒められることなんて、まったくなんにもならないよ。そんなことより、自分の感受性を守ってほしい。自分が「おかしい」と思うなら、それは(誰がなんと言っても)おかしいのだ。間違っても、おかしいと思う自分がおかしいのだと、自分を責める方向に舵を取らないで欲しいと願う。
社会不適合者などと言うが、自殺者が3万人いる社会に適合をしたら「おかしくならないほうがおかしい」と思う。必要なことは、適合よりも開墾だ。自分に適した風土を開墾することが、やがて、自分みたいな誰かの力にもなるのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年5月2日
今世は諦めてください。 - いばや通信 https://t.co/FyVFgEcazt
Scenery in one's mind's eye
ただ珈琲を飲むだけの動画 #gopro #test #practice #niigata #aoyama #lifeisgood
野点カンタービレ。。 #最後の2秒だけでも見て帰ってください
自伝風物語もよろしくお願いします。
いつも楽しみにしている坂爪圭吾さんのnote。
— 慧茄 (@ENA_Phantom) 2018年8月21日
実際の体験を語られていますが、リズム感のある文章に小説を読んでいるような印象もあります。
お話会でお姿を拝見しましたが、静かな雰囲気だけど情熱的な人だなと思っています。それが彼が語る文字にも現れていると思う。続きが待ち遠しい。 https://t.co/o9fgdoFoyu
一休宗純は坂爪さんのこのnoteを今日読んだのでなんとなく出たんですけど、坂爪さんのこの一休の引用こそ「静かなポジティブ」だと個人的に思いますhttps://t.co/Whq3z0fpQf
— nitd@札幌移住フリーランス9年目 (@IncNitd) 2018年8月21日
👉インドネシアの村に住んだことがある
— リトマム⭐Little_mom@世界のどこでもアートで生きる🔥 (@Little__mom) 2018年8月21日
👉お金なんて持っていない村の子供達が、なけなしのお小遣いで
一杯10円のコーヒーを奢ってくれた
👉みんなで輪になって、ギターに合せて歌いながらチョコレートみたいに甘いコーヒーを飲んだ
彼らにお金の余裕なんてないのに
彼らには心の余裕があったんだ https://t.co/ziPrBh80Gr
生き方に正解はない。どんな生き方も間違いじゃない。
夏で天気もいいのに、気分が晴れない。そんな日々が続いていた。部屋に閉じこもっていると、鬱々とする。これじゃいけないと思って、自転車を走らせた。運動をしていると深い呼吸をするようになる。そのことが全身に血を巡らせるのだろうか、気分は前よりマシになる。そして「ああ、俺は呼吸が浅かったんだな」ということを思ったりする。部屋を出て、世界に出ると、素晴らしい景色と出会えたりする。夕暮れ時、街をオレンジに照らす太陽が海に沈もうとしていた。いい感じに空が染まっている。慌てて自転車を漕ぐ。海に向かう。徐々に空は茜色に染まる。
夕焼けを見ると「うわあ」と毎回声が出る。綺麗だなと思う。そして「綺麗だな」と思う自分の気持ちに一点の曇りもないことを思う。自分が消えて、自分と対象が同一化するような感覚。鬱々としているときは、自分につかまってしまっている時だと思う。美しいものに触れた時、それは自分を忘れさせてくれる。自意識を吹き飛ばしてくれる。海に自転車を止める。波打ち際を歩く。夕日が沈む。綺麗だなと思う。綺麗だなと思いながら、ふと、泣きそうになっている自分に気づく。この涙は、いったい、どこから来ているのだろうか。自分という肉体はひとつなのに、自分という人格はいくつもある。夕日を見て感動しているのは「こどもの自分」で、そんな自分を見て、おとなの自分は「よかったね」と言っている。この景色を見ることができて本当によかったねと、自分が、自分に言っている感覚になる。
自分の中にこどもがいて、そいつがよろこぶとたまらなく嬉しくなる。まるで、ずっと笑うことのなかったこどもが、笑顔を見せたときのように。自分とは、自分のこどもでもあるのだろう。自分とは、自分の親でもあるのだろう。私に役割があるとすれば、それは、自分のなかにいるこどもに「綺麗な景色を見せてあげること」「広い世界を見せてあげること」「生きることの素晴らしさを味あわせてあげること」なのかもしれないと、そういうことを思った。時折、乱暴な言葉で自分を責めることがある。それは、さながら虐待をしている親のようなものだ。しかし、夕日を眺めながら感動をしている自分を見て、自分のなかにある親の部分が「よかったね。今日、これが見れて、ほんとうによかったね」と、涙目になりながら自分に語りかけていた。自分が笑顔を見せてくれたことに、なにより自分自身が感動をしていた。こういう瞬間を、こういう瞬間こそを、大切にしていきたいのだと思った。
道に迷った時は、損得感情じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。自暴自棄にはならないこと。希望が消えてなくなる前に、残された時間に最善を尽くすこと。品位をもって、勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2017年7月13日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu