愛は、愛する側も愛される側も自由にする。
私の信条に「1日1F」というものがある。FとはFEARのFで、これは「1日1回、自分が恐怖を覚えることをやってみる」という意味合いになる。よく、コンフォートゾーンを超えるみたいな表現を聞く。まったく同義である。しかし、いきなりFEARを連打すると躁病になっちゃうリスクもあるので、最初はN(NEWのN。1日1回新しいことをやる)程度にとどめておくのがよいのかもしれない。1日1回、なんでもいいから新しいことをやる。慣れてきたら、1日1回自分が恐いと思うことをやる。電車で席を譲るとか、すれ違うひとに挨拶をするとか、好きなひとに「好きだ」と告白してみちゃうとか。
道に迷った時は、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年8月23日
自暴自棄にならないこと。勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
生き方に正解はない。どんな生き方も間違いじゃない。 - いばや通信 https://t.co/6FHOf4kAmp
自己啓発書を買うより、自己啓発書を燃やす方が、自己啓発される気がする。人間、生きていれば何度か「一回死んで生まれ変わる」的な強制リセットが訪れる。先日、ある女性とお会いした。彼女は話す。仕事を辞め、9月から長年愛していたパリで暮らすことに決めた。日本でのすべてを捨てることには勇気が必要だったけれど、坂爪さんの『1日1F』に力をもらって、決断をすることができた。だから、とても感謝をしています、と。私は「むはぁ」と唸った。なにかをはじめること以上に、なにかを終わらせる時の方が、莫大な勇気とエネルギーを必要とする。勇気を出す瞬間は恐い。しかし、勇気は人間を裏切らない。出した者に、必ず、なにかしらの恩恵を運ぶ。
奇跡は余白に舞い込む。
思えば余白力だけで生きて来たような人生だった。流れに身を委ねる、みたいな表現を頻繁に耳にする。快晴の空の真下、目を閉じ、両手をあわせながら「神様、私をあなたの思うままに使ってください」的な祈りをすると気分が晴れる。家なし生活をはじめたころから、私は『自分で決める』ということを放棄したように思う。これは自暴自棄になることとは違う。真逆だ。放棄の裏には信頼がある。なにが起きても大丈夫。必要なものは、必要な時に与えられると思える信頼が、自意識を超える『なにか』を与える。
私たちは「夢や目標が大事だ」と教えられる。そう言う人々から見ると、夢も目標もない人間は無気力な人間、怠惰な人間、張り合いのない人間ということになるのかもしれない。しかし、私は「自分で決めない道を選ぶには、それなりの覚悟が必要だ」と感じる。あらゆるものを受けて立つ覚悟。自分にとって都合の良いものだけではなく、都合が悪いものさえも「どんとこい、全部こい。」と引き受ける覚悟。清濁併せ吞む覚悟。清濁を止揚する覚悟。限定的なものではなく、人類全体、生命全体として強烈にあり続ける覚悟。これは、易しいことではないように思う。自分がないようで、自分がある。自分が消えることで、強烈に自分自身が現れてくる。そういう種類のものだと思う。
2017年4月にクラウドファンディングを通じてごちゃまぜの家は生まれた。こうした活動を続けていると「あなたはコミュニティをつくりたいのですね」と言われるが、真逆だ。私は「コミュニティを溶かしたい」と思っている。ひとつのグループがあるとき、グループの外側にいる人間は反発を抱く。内側と外側を作り出してしまう。そういった垣根を取っ払いたい(全部ごちゃまぜでいいのだ)と思い、この活動をはじめた。今日から数日間、坂爪圭吾はごちゃまぜの家に滞在をしています。家の鍵は空いています。興味のある方は、誰でもお気軽に遊びにいらしてください。事前連絡などは不要です。が、宿泊希望者の方は、布団の数に限りがあるので事前にご連絡ください(場合によっては、一緒に草取りや掃除や料理などをやっていただけると最高にうれしいです!)。
GOCHAMAZE no IE
電話・05010268936
わたり文庫『星の王子様さま』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、サン=テグジュペリ著作『星の王子さま』です。最低でも一年に一回は読み直したい歴史的名著。読むたびに新鮮な感動に包まれます。先日お会いした方が「バオバブの木の話が最高で…いい草と悪い草は、誰の中にもある感情だと思います。だから、自分がやろうとしていることは、いい草なのか、悪い草なのか、毎日確認をするようになりました」と話してくれて、なんて素晴らしい解釈なのだろうかと感動をしました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※
それはこういうことだった。王子さまの星にも、ほかの星と同じように、いい草と悪い草があった。そうしていい草にはいい種が、悪い草には悪い種ができる。でも種は目につかない。土のなかでひっそりと眠っている。やがてどれかひとつが、目をさまそうかなという気になると、伸びをして、はじめはおずおずと、なんの害もないみずみずしい小さな茎を、太陽の光にむかって伸ばすわけだ。それがもし二十日大根(ラディッシュ)やバラの茎なら、伸びるままにしておいてもいいだろう。けれどもし悪い植物だったなら、見つけたとたんに抜かなくてはいけない。小さな王子さまの星には、まさにそうしたとんでもない種があった・・・それが、バオバブの種だったのだ。しかも星の土は、種だらけだった。そもそもバオバブは、抜くのが遅くなると、二度と取りのぞけなくなる。そうして星全体をおおう。根が星を貫通する。星はとても小さいから、そんなバオバブが増えすぎると、ついには破裂してしまう。
愛は、愛する側も愛される側も自由にする。
隙間時間を見つけては野点をしている。野点と書いて『のだて』と読む。海を眺めながら、夕日を眺めながら、公園のベンチに座りながら、珈琲を淹れている時間が好きだ。私は、この営みを『野点カンタービレ』と呼んでいる。野点カンタービレは私の必殺技だ。真の意味で生活に窮した時は、熱海の売茶翁として野点で生計をたてたい。移動販売車ならぬ移動販売『者』になる。営業許可が降りないなら、物々交換でどこまで行けるか見てみたい。私は珈琲を淹れるから、あなたはあなたのなにかをください。そんな感じで野点で全国各地を放浪できたら、面白い人生になりそうだなあと夢想をする。
無常の常。万物は流れていく。ひとの気持ちも同じである。いつまでも同じ場所にとどまることはできない。そのことを悲しいことのように感じる瞬間もあれば、救いのように感じる瞬間もある。明けない夜はない。貼れない湿布はない。止まない雨はない。死なない人間はいない。すべての瞬間におわりがある。だからこそ、この瞬間が輝いて見えるのだろう。無常を常とする世の中で、では、我々はなにを大事に生きればいいのだろうか。そういうことを考えるときがある。そして、そういうことを考えた際に、決まって頭に思い浮かぶものが、たとえば『愛』と呼ばれているような言葉になる。
愛とは何か。私はまだ、愛のなんたるかを知らない。しかし、直観的に信じていることがある。それは「愛は、愛する側も愛される側も自由にする」ということだ。私は、何度も何度も道を踏み外す。愛のように見えて、実はまったく愛ではないものを愛だと勘違いしたりする。間違った愛を選ぶとき、私のこころは重くなる。そんな時、愛は人間を自由にするものだという言葉を思い出すことで、はっ!と気付いて軌道修正をする。重いなら愛じゃない。苦しいなら愛じゃない。縛られるなら愛じゃない。珈琲を淹れている瞬間に、静かな時間の流れの中に、私は自由を観る。愛も、自由も、平和も、精神も、神様という言葉さえも、別々の角度から「ひとつの同じもの」を呼んでいるだけの言葉なのかもしれないと思う。
朝の森を散歩することや植物の世話をすること、音楽を奏でることや落ち着いた空間で文章を綴ること、珈琲を飲みながら読書をすることや沈む夕日を眺めること、ひとと話をすることや虫の声を聞きながら夜の空を眺めること、蝋燭の灯り、静かな充足感を与えてくれる者達は、お金のかからない者達だった。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年3月18日
野点カンタービレ #snowpeak #tetradrip #lifeisgood
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu