愛を歌え。
人生で一番感銘を受けた本を答えろと言われたら「ヴィクトール・フランクルの夜と霧です」と答える。20歳の誕生日を迎えるとき、なにか特別なことをやりたいと思ってこの本を選んだ。結果は大正解だった。先日、13年ぶりに読み返したら激烈に感動をした。私たちは、多分、ある種の答え【生きる意味・外的な愛・勇気・希望】を求めて手を伸ばす。しかし、その本が傑作であればあるほどに(答えではなく)問いを提示する。それは『おまえはどう生きるか』という問いだ。
生きている限り理不尽な目に遭うことはある。それでもなお、最後まで残された自由がある。それは態度決定の自由だと思う。環境は選べなくとも、その中で「どのような態度を取るか」は選べる。生きる意味は、あらかじめ備わっているものではなく、瞬間瞬間の態度に宿る。いま、どう動くかに宿るものだ。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年4月20日
ハワイからごちゃまぜの家に戻る。住人の方々から「この家に暮らし始めてから調子がいい。なんだかリトリートハウスに暮らしているみたいです」と言っていただき、嬉しくなる。同時に「ごちゃまぜリトリートなんてどうですか、一般の方々にもごちゃまぜの家に数日間滞在してもらって、心身ともにリラックスできるような時間を過ごしてもらったら、きっと良い体験になるのではないかと思いました」と言葉を貰う。ごちゃまぜリトリート。すごい言葉だ。落ち着くんだかごちゃまぜになるんだかよくわからないこの響きを、素敵だなと感じた。
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ごちゃまぜリトリート@横浜&熱海
GWを目前に控えたいま、早速実験的に試したいと思います。本日から5月10日までの間の好きな期間、定員1名様、二泊三日の「ごちゃまぜリトリート」の参加希望者を募集させていただきます。場所は横浜と熱海の二箇所。どちらも閑静な環境にあるので、自分のなかにある「静けさ」を取り戻すには最適な空間だと思います。特段、なにかプログラムを用意している訳ではありません。二泊三日の期間内、出入りも自由、気の向くまま、こころの赴くままに好きなように使っていただけたらと思っています。
参加費用も特にありません。どちらの家にも、玄関に「みんなの財布」といって誰でも自由に出し入れができるお財布が掲げてありますので、もし、体験後になんだかすごいよかったと思っていただけた場合に限り、お気持ちだけお財布に入れていただけたらと思います。経済的・精神的に難しい場合は、もちろん無料【0円】でも大丈夫です。興味のある方は、さかつめけいごまで直接ご連絡をいただけたらと思います。基本的には完全放置プレイのような形(もてなさないことがおもてなし)になるのですが、必要な場合は、さかつめけいごも同席(?)させていただくことも可能です。「フレキシブルこそ我が命」ということで、ご希望される方はお気軽にご相談いただけたらと思います。
※※※ おかげさまで満席となりました ※※※
生きるために一番大切なもの、それは金でも勇気でも名誉でもなければ特別な才能でもない、安心感だと思います。失敗しても良いという安心感、自分は護られているのだという安心感、ダメな時は元気が出るまでゆっくりしていればいいのだという安心感があれば、多分、人間は何度でもやり直せる。ごちゃまぜの家に来てくれた方のなかには、時折、涙を流すひとがいます。あるひとは「この空間に漂う雰囲気が、まるで『あなたはあなたでいい』と言ってくれているようで、安心感のようなものを感じました。そして、安心感を感じると同時に、これまで自分がいかに緊張をしながら生きていたのかがわかりました」と言ってくれました。この言葉はうれしかった。ごちゃまぜの家が、ささやかでも安心感を生み出す機会になったのであれば、それを幸せなことだと思います。
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わたり文庫『夜と霧』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ヴィクトール・フランクル著作『夜と霧』です。強制収容所という、いつ殺されるかもわからない理不尽を極めた環境のなかであっても、人間には「生きる意味を見出すことができる」ことを指し示した、次世代に読み継がれるべき世界的名著だと思います。この本の中には、感動的な場面が108個くらい出てきます。フランクルは言います。わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。と。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※
時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雲の後から朝焼けが始まっていた。そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中でつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見る ー そしてたとえそこにいなくても ー 彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。その時私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生まれて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。
ヴィクトール・フランクル『夜と霧』【みすず書房】
愛を歌え。
楽器は「楽しむ器」と書く。ハワイから日本に戻る飛行機の中で、わたしは楽器になりたいと思った。それは「音楽のように生きていきたい」という願いになるのだと思う。誰だって一度は経験があるはずだ。音楽によって自分が高次の領域へと『引き上げられる』ような飛翔する感覚。垣根や隔たりを超えて、他者とひとつの調和を生み出す神秘的で恍惚的な瞬間。実際にピアノやギターを演奏するのでもいい。ただ、わたしたちひとりひとりの肉体が楽器のようなものなのだと思う。生きることは歌うことだ。歌うように歩き、歌うように語り、歌うように黙る。大事なことは「なにを歌うか」だ。
なにを歌うか。わたしはなにを歌いたいのか。なにを歌いたいと思っているのか。そのようなことを考えはじめた瞬間、わたしの脳裏を「神の愛」という言葉が咄嗟によぎった。自分という人間から出る個人的で限定的な愛ではない、できることならば「自分を通じて(自分を含めた)神の愛を歌いたいのだ」と思った。そのための道具【媒体】になりたいのだと思った。まだ、この感覚に適切な言葉を与えることはできないでいる。自分の背後にある、自分以上の大きななにか。神の愛は囁く。無駄な体験はないように、無駄な人間もいない。ひとりひとりが楽器であり、それは奏でられることを待っている。と。生きることは歌うことだ。私は歌う。私の中にある神の愛を歌う。そのことによって、誰かもまた歌い始めることを待っている。そして、やがて「わたしとあなた」による協奏が生まれることを期待している。
ごちゃまぜの家をやりながら「この家の役割は整えることだ」と感じる。ある種の神社や仏閣のように、立ち寄った方々が一息をついたあとに自分を整えてこの場所をあとにする。ひとりひとりが楽器であるならば、大事なことは自分の音を奏でることだ。バイオリンがカホンになることはできないし、ピアノがトロンボーンになることもできない。それがそれであるからこそよいのであって、そのものの本領を発揮するために必要なものが『チューニング【整える・正す】』なのだと思う。ひとりひとりが楽器であり、それは奏でられることを待っている。生きることは歌うことだ。私は歌う。私の中にある神の愛を歌う。そのことによって、誰かもまた歌い始めることを待っている。そして、やがて「わたしとあなた」による協奏が生まれることを期待している。
やさしいひととは、一緒にいて安らぎを覚えるひとなのだと思う。刺激を貰えるのは嬉しい。知識を貰えるのは嬉しい。盛り上がりを貰えることも嬉しいし、新しい世界を見せて貰えることも嬉しい。ただ、安らぎを生み出すひとには敵わない。あらゆる要素が活きるのは、安らぎがあってのことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年4月22日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu