いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

好きなように生きて、好きなように死のうよ。

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四年半続いた活動に終止符が打たれ、1月26日にいばやは解散した。坂爪圭吾から肩書きはなくなり、ただの空っぽの人間、ただの生命体になった。1月中旬から期間限定で活動をはじめた鉄砲玉48も任期を終え(下記リンク先よりラスト音声配信を聞くことができます!!)、気がつけば『いろいろなものを終わらせにいく』1月になった。この記事をご覧のあなたにとって、2018年1月はどのような一ヶ月になったのでしょうか。

 

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これからしばらくは、神奈川県横浜市港北区富士塚2丁目24−5にあります「ごちゃまぜの家」に滞在をする。ごちゃまぜの家では、現在、新規入居者を募集しています。もちろん、ごちゃまぜの家自体は入居者ではなくても誰でも利用をできるのだけれど、もしも「ここに住みたい!」と思った方には、ここで暮らすという道もあります。見学も常時受け付けているので、興味のある方はお気軽にご連絡ください。今回の記事では、ごちゃまぜの家が提供できるメリットのようなものをまとめてみたいと思います。

 

ごちゃまぜの家 シェアハウス|ひつじ不動産

 

ごちゃまぜの家とは何か。

ごちゃまぜの家とは、2017年の4月にクラウドファンディングの企画を通じて生まれた「誰でも自由にご利用いただける無償の空間」になります。前々から「家とはなにか??」とか「家族とはなにか??」ということに関心があった私は、これまでにない形の家であったり、これまでにない形の家族であったりを模索する試みの一環として、分け隔てなく人類全体をごちゃまぜにする空間があったら面白いのではなかろうかと思うようになり、クラウドファンディングを通じてみなさまからの支援を求めました。

 

 

非常にありがたいことに、200名を超える方々からご支援をいただき、2017年6月に記念すべき第1号が東横線菊名駅から徒歩9分の場所に「ごちゃまぜの家」は誕生をしました。新潟生まれのわたしからすると、横浜は死ぬほど都会です。都会は便利でモノも溢れている反面、静けさを得ることが難しいとも感じます。都会には静けさが必要だ。自分を取り戻すことができる時間や、真の意味で落ち着ける空間が求められている。ごちゃまぜの家をやるなら静けさを取り戻せる環境がいいなあと思っていたのですが、この家は(裏に雑木林があるからなのか)周囲は住宅街であるにも関わらず昼夜問わず非常に静かな時間が流れています。渋谷で生まれて渋谷で育った方が訪問をしてくださった際、その方は「こんなに静かな空間にいるのは生まれてはじめてかもしれない」と感想を述べてくれました。

 

 

この家は、基本的に「みなさまの善意」によって成り立っている善意の塊みたいな空間になります。なぜ、無料で飲食や宿泊をすることができるのか。それは、端的に「それを支えてくれている方々がいるから」ということになります。食材を持参してくださる方や、家具や日用雑貨などの消耗品を持って来てくださる方、金銭という形で支援をしてくださる方々がいます。自分で言うのも変な話ですが、この空間があった方がよいと思ってくださる方々がいる限り、この空間は生き続けるのだと思います。逆に言えば「この空間は不要だ」と思われる方が多ければ、ごちゃまぜの家は生命力を失い、志半ばでダメになるのだと思います。わたしができることは、純度を保つこと、精度を高めること、乱暴な言葉でまとめるならば「この家があったほうがいろいろと素敵だ」と思える時間なり空間なりを築き上げていくことなのだろうなと思っています。

 

ごちゃまぜの家が与えることのできる恩恵。

ごちゃまぜの家の利用者の方々や、ごちゃまぜの家の住人に差し出すことができる恩恵(?)について考えます。まず、この家は「普通の家よりはひとの出入りがある分、謎の出会いに恵まれやすい」というものがあります。ひとりになりたければ個室にいけばいいし、誰かと交流をしたいと思ったときは居間なり台所なりに行けばいい。どうしたって人間、似たような日々を過ごしていると似たような人々とばかりの狭い範囲内での人間関係に閉ざされがちになります。そんな時、ああ、同じ地球上にはこんな生き方をしている人間もいるのかと思える瞬間のなかには、ちょっとした『自由』が含まれているように思います。

 

もうひとつは、家にある食材(食材だけでなく家にあるものすべて)は自由に使えるということ。理想としては365日炊き出しが行われている状態を目指しているのですが、とにもかくにも米と味噌だけはあります。食事に困ったときなど、贅沢はできませんが米と味噌だけは常にあります。米と味噌があれば人間は死なない。死なないのであれば「元気になるまでゆっくりとして、元気になったらまた遊びにいく」的なサイクルをこの空間からはじめることができます。ある方が「ごちゃまぜの家があるというだけで、(最悪の場合はごちゃまぜの家に行けばいいと思えるから)少しだけ大胆に生きることができる」ということを言ってくれました。この言葉を聞いたときは、なんだか本当にうれしかったものです。

 

そして、最大の恩恵は「心」だと思っています。これは目指しているだけのことであってまだまだ全然できていない瞬間もありますが、この空間は「心を与え合うことができる空間」として機能をすれば最高にうれしいと思っています。マザーテレサは言います。この世で最大の不幸は、貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていないと感じることです、と。この言葉を読んだときは「わっかるぅ〜!」などと強く思ったものです。私は(牡羊座だからなのか)腹の内側に熱い部分を秘めている人間みたいで、誰だって「生きている限り必要な存在である」ということを割とガチで思っています。心が冷めてしまいかけているときに、人間としての幹が痩せ細っているときに、自分は誰からも必要とされていないと感じてしまいそうになっている瞬間に「そんなことないぜ」なんて言える空間になれば、これほどうれしいことはないなあなどと思っています。

 

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わたり文庫『おむすびの祈り』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、森のイスキア主宰・佐藤初女著作『おむすびの祈り』です。私が説明をするまでもありませんが、みなさまもご存知の通り、佐藤初女さんはほんとうに素晴らしい女性だなあと思います。引用をさせていただいた『一線を越える』というお話は、まさにその通りだなと、なにかあるとすぐに「この程度でいいだろう」と線引きをしてしまいかねない自分自身を戒める、最高の機会をいただきました。ひととひととが真の意味で出会うとき、多分、昔の自分に戻ることはできなくなる。自分の物語と相手の物語が交差をして『私達の物語』がはじまるような、出会いの中には人生を大きく動かす力があるのだと思います。その力に触れるためには、一線を越えるということ、この程度でいいかと思うもう一歩先まで足【心】を踏み入れることなのだと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、長野県にわたりました ※※※

 

夫が亡くなり、自由な身となりましたので、これからは、いよいよ本格的に奉仕に生きていきたいと思うようになりました。

 

私は幼い頃から八人きょうだいの長女として、弟妹の面倒を見ていたためか、人のお世話をするのを自然なことと受けとめていました。

 

私の進む道をはっきりと示されたのは、ある主日の御ミサの説教でした。

 

「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲の伴わない奉仕は真の奉仕ではない」

 

と、私の敬愛するヴァレー神父様が凛々しく語られたのです。私は神父様のこの説教に大きく心を揺さぶられました。この言葉は、それまでの私の生き方に対する問いかけでした。それまでも、お腹がすいている人がいれば食べさせ、着るものがない人がいれば服をあげ、ということはしていたのですが、それは自分が無理なくてもできる範囲でのことでした。

 

しかし、それではいけないんだ、ある線を一歩越えなければ本当の意味の奉仕ではない、私は、説教を聞きながら、体の中の血が駆けめぐるようでした。

 

佐藤初女『おむすびの祈り』【集英社文庫

 

好きなように生きて、好きなように死のうよ。

ごちゃまぜの家は住所も公開をはじめたので、興味のある方はいつでも遊びにいらしてください。坂爪圭吾との面会をご希望される方は、坂爪圭吾【LINE ID ibaya】まで直接連絡をください。新規入居者の方も、限定1部屋になりますが募集をしております。ごちゃまぜの家の台所で、一緒に料理をしてくださる方(マッサージを教えてくれる方)も募集をしています。ごちゃまぜの家は、晴れた日の日当たりが最高です。縁側に座って太陽の光を浴びながらお茶を飲んでいるだけでもたやすく幸せになれるので、是非、興味のある方は(百聞は一件に如かず!ということで)実際にご覧いただけましたら幸いです。

 

 

また、坂爪圭吾が提供できるものとしては「お昼寝のお供にギターを奏でる」というものがあります。最近、ギターを練習しています。ギターを練習しているとそれを聞きながら眠るひとが最近すごい増えているので「もしかしたら俺のギターはひとのこころを眠りに誘う力が高めなのかもしれない」なんて思っています。必要とされる限り出張ギターもやりたいと思っています。あとは、佐藤初女さんの影響を受けて「おにぎりはやばい」的なことを感じるようになっているので、料理の腕前も高めていけたらいいなあと思っています。料理の腕前、などと言いましたが実際のところは「こころを込める腕前」を(目の前にあるものを通じて)磨いていきたいのだと思います。丁寧に生きるということは、生活に祈りを込めるということなのだと思う。言葉であれ、ギターであれ、料理であれ、大事なことは「こころを込めているか」どうかなのだと思います。

 

 

そして「一線を越える」勇気をもつということ。境界線を越える勇気をもつということ。引きこもってばかりいるのではなく、自分を投げ出してぶつかっていく勇気をもつということ。相手の領域に踏み込むという言葉は、ネガティブな意味合いで使われることが多い。しかし、その裏側では「わかりあっているふりを続けるのではなく、人格と人格のぶつかりあいによって生まれる摩擦熱(生きている実感)」を心の内側では求めているのではないだろうか。少なくとも、自分はそういう人間だなと思う。これから自分が選ぶ道に恐れや不安を覚えるとき、自分の軸を取り戻すための問いかけがある。それは「愛はあるか」という問いだ。自分がこれからやろうとしていることに、自分なりの愛【自分なりの熱情】を込めることができるのであれば、恐ることはなにもないのだと思う。成功をすれば清々しいし、失敗をしても清々しい。ひどく当たり前のことだけれど、人は必ず死ぬ。生きている時間はいまだけだということ。自分が置かれている現状を「泣く道」を選ぶのか「笑う道」を選ぶのか。どうせならば、生きているのならば笑っていたいと私は思う。清々しくありたいと思うし、潔く、明朗でありたいと思う。やりたくないことをやって生き延びることよりも、やりたいことをやって死にたいのだと思う。

 

 

 

ごちゃまぜの家

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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