いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

我々は、宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。

京都を経由して大阪にはいる。今夜は(多分)大阪に泊まる。おはなを無料で配り続けている。なぜ無料なのか。無料のほうが「なんか素敵だから」と思うからだ。当然のことだけれど、配るほどに身銭はなくなる。しかし、この身銭も本来は自分のお金ではない。別に誰かに託されたもの、別の誰かから巡って来たものが「たまたま自分の手元にあるだけ」に過ぎない。問題は、これを「(いろいろ思うことはあるけれど)いかに素敵に潔く使うか」だと思う。

 

金銭に善悪も美醜もない。とは言うものの、嬉しい気持ちでもらったお金は「綺麗に使いたい」と思うし、あんまり嬉しくない気持ちでもらったお金は「汚く使ってしまう」ことが多い。綺麗なお金は「誰かをよろこばせるため」に使いたいと思うが、自分の時間【命】を犠牲にすることで手にしたお金は、やけ食いをしたり無駄な散財に使われることが多い。お金とはなんだろうか、などと思いながら今日もお金をおはなに変える。昨日は京都の山科在住の方のご自宅に宿泊をさせていただいた。家主の方が素敵すぎて最高の時間になった。京都で出会う人々は本当に良い人が多い。今日は13時頃に梅田駅に到着をする。それ以降は、梅田駅界隈で希望者の方々におはなを配りたいと思っているのでお時間のある方はお気軽にご連絡をください。

 

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「いい仕事をしたなあ」と思いながら死ね。

眠ることと死ぬことは似ている。1日の終わりに「今日はいい仕事をしたなあ」と思って眠れる夜は素敵だ。昨日は、京都駅で気持ち35本のおはなを気持ち38人の方に配った。(途中、あまりにも連絡が届きすぎてパニック障害になり携帯をかち割りかけたものの)素晴らしい出会いにも恵まれ、ああ、生きていてよかった【京都に来てよかった】と心底思った。みなさまは、いい仕事をしているだろうか。いい仕事をした1日とは、多分、誰かと心を通わせることができた1日だと思う。金も大事。時間も大事。見栄や礼節や世間体も大事。だけど、その五億倍は大切なものは「ひとりの人間の心」だと思う。

 

心がなければ、何をしても虚しい。逆に言えば、どれだけささやかなものであろうとも、そこに人間の心を感じることができるものは「最高だなあ」と思う。心のない時間を過ごしていると、端的に人間性が乾く。言葉遣いは殺伐になり、表情には諦めの雰囲気が漂い、人間も世界も見限りがちになる。乱暴にまとめると不細工になる。人間には二種類あると思う。乾いているひとと、潤っているひとの二種類だ。人間性が乾いたらアウトである。できることならば、潤っている状態を保ちたいとは思うけれど、自分自身も「ああ、いまのおれは乾いてしまっている」と思うことは多い。

 

「いい仕事をしたなあ」と思える実感は潤いにあふれている。人間の心は、まるで一輪の花のようだなと思う。水やりを怠れば枯れるが、しっかりと水を与えれば生きている限り必ず蘇る。水は一回やればいいというものではない。今日の水は今日の水であり、明日の水にはならない。今日には今日の水が、明日には明日の水が必要だ。多分、人間にとっての水は「感動」だと思う。感動がなければ人間は枯れる。感動と呼ばれるものには様々な種類があるけれど、ああ、いまおれは目の前にいるひとと心を通わせることができているという種類の感動は最強だと思う。逆に言えば、心のない言葉を使えば使うほどに、使い手の心は乾いていく(心の潤いは、乾いた言葉に吸い取られていく)。

 

有意義より無意義。

自転車を走らせながら「もっとめちゃめちゃにやってしまえよ」と思った。おれはなんで寒空のなか自転車を漕いでおはなを配ったりなんだりしているのだろうか、とか、こんなことをやっていったいなにになると言うのだろうか、とか、そういうことを思うことは多い。が、しかし、こんなことをやっていなければ絶対に出会うことのなかった素晴らしい出来事が起こるたびに「俺の生き方は間違いだらけかもしれないけれど、間違っていない」的な肯定感を覚える。

 

「おれはなにをやっているのだろうか」と思った瞬間ほど、多分、そのひとはいい感じのことをしている。これは自分を肯定するために言いたい。「おれはなにをやっているのだろうか」と思ったらチャンスだ。多分、どんどんやったほうがいいのだと思う。もっともらしい理由があるひとよりも、よくわからないけれどやりたいからやっているひとの方が(私の中では圧倒的に)好感度が高い。意味不明な人間は素敵だ。あなたくらいの才能があればいくらでも働き先があるであろうに、なぜ、そんなことをやっているのか(もったいない!)と周囲から問われまくるくらいになったら『一人前』だと思う。

 

有意義より無意義。大勢の人が「何か有意義なことを」的なことを考える中で、我々「無意義に賭ける」少数民族は無意義街道を爆走する。有意義街道は大渋滞を起こしているので、遠くまで行きたくてもなかなか進むことはできない。が、無意義街道は「誰もそんなところを通りたくねえよ!」的に感じるひとが多いためにこの瞬間もガラガラだ。無意義上等。無意義上等、と書いて「なんだかいい言葉だな」と思った。社会的にはなんのアレもないから周囲からボロクソに言われることも多いこの道だけれど、有意義街道ではなかなか得ることのできないよろこび、誰もいない道路を「おらおらおらー!」と爆走するよろこび【生きている実感】を得ることはできる(おれはなにを言っているのだろうか)。

 

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我々は、宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。

生きているといろいろなことが起こる。離婚や死別や犯罪や虐待、家族関係性や学校【職場】での人間関係など、この世の中で「不幸」とされているものをあげたらきりがない。人生が旅なら、人間のカラダは乗り物で、いまいる場所は幹線道路の真っ只中みたいなものである。そりゃあ、生きていれば誰でも一度は(割と酷目の)交通事故に遭うこともありゃあと思う。その瞬間、多分、我々は試されている。それは「どのような瞬間であれ、お前はお前であることの矜持を保つことはできているか?」という試練だと思う。

 

学歴の有無、収入の上下、交友関係の広狭など、社会的なランクづけはあらゆる場所で行われている。私は思う。そんなものに負けてしまってはいけないのだと思う。生きていればトラブルは起こる。自分のことをクソムシだと罵り倒したくなる瞬間もある。が、いつまでも自分を責めて卑屈に塞ぎ込んだままでいてはいけないのだと思う。ある程度塞ぎ切ったら、あとはもう開くだけだ。過去を変えることはできない。しかし、未来を選ぶことはできる。過去は過去。もう、充分に過去を過去し尽くす【嘆き尽くす】ことを終えたら、あとはもう「自分の好きなように未来をカスタマイズしていく」方向に舵をとる。

 

所詮、生まれて死ぬだけの人生である。なんて言うと若干厭世的に響くかもしれないけれど、違う。我々はなにももたずに生まれて来て、なにももたずに死んでいく。裸で生まれて裸で死ぬということ、そのことのなんという圧倒的な安心感【平等感】たるや!!なんだかよくわからないテンションになってしまった。夜明け前から自転車を走らせたために、いまだに指がかじかんでいる。寒い。寒いけれど気持ちいい。これからまた自転車を飛ばして、花の都大大阪に向かう。今日も素敵な出会いがあればいいなと思う。この記事をご覧のみなさまにも、憂鬱を軽く吹き飛ばすほどの素敵な出会いがありますことをお祈りしております。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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