いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

行く道は違えど、共に進もう。

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自転車移動も五日目にはいる。静岡県湖西市にあるコメダ珈琲に来た。私は軟弱者だと思う。チェーン店の従業員の笑顔が硬直的(接客が機械的)なだけで「死にたい」とか思う。もしも、たとえば自分の母親が死んだ顔でスーパーのレジを打っている様子を見たら、わたしは「この世の中に希望なんてないな」とか思っちゃうのだろう。笑いたくないときでも笑わなくちゃいけないし、思ってもいないことを口にしなくちゃいけないこともある、それが生きるということなのよとか言われたら「それをするくらいなら死にたい」と思う。

 

これから愛知県の一宮を目指す。一宮在住のA様が「よかったら、良い宿があるのでおとりします!」と連絡をくれた。ものすごいありがたい。うれしい。夕方までに着きたい。それ以降は関西にはいる。特段予定も何もないので、和歌山経由で徳島に行こうかなと思う。自転車を漕ぎ続けていると、己を鼓舞するために歌を歌ったりなにかを叫び出している自分を見る。この前は「うおー!」とか「だるあー!」などと叫びながら峠を超えたのちに、あいらぶゆー(ハアハア)、あいらぶゆー(ハアハア)、とかつぶやきながら漕ぎ出したときは「俺はこんなことを言いながら走るような男だったのだな」と感心した。

 

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「生きづらいな」と思う。

生きづらいなと思うことがある。ひとと話している時に、そう感じることは多い。誰かに何かを聞かれたときに「なんでそんなことを聞くのだろう?」と思うことは多く、誰かが何かを話しているときに「なんでそんなことを話すのだろう?」と思うことも多い。表面的なもの【どうでもいいこと】に、多分、わたしは反応することができないのだと思う。どうしてもそれが話したいから話すというものではなく、ただ、なんとなく話されているものに対してうまい反応をすることができない。

 

この前、ある女性と話した。その女性は「最近は調子がいいんですよー、あはは」と話していたけれど、目がうつろだなと思った。目がうつろなひとを見ると「このひとは自分の喜怒哀楽を無視している【自分自身を蔑ろにしている】のではないだろうか」とわたしは感じる。世間的な風潮がそうさせるのだろうか、常に明るくいなくちゃいけないとか、元気でいなくちゃいけないとか、幸せに生きている風に見せなくちゃいけないとか、ポジティブ風に装っていなければいけないみたいなものを感じることがある。そういうひとと過ごすと疲れる。全部バレているのだから「嘘をつくな」と思う。

 

だからわたしは「嘘をつくな」と言う。そういうことを言ってしまうからなのだろうか、嫌われることも多い。嫌われすぎてしまって生きるのがつらくなる。ギリギリもちこたえることができているのは、そんな自分でも好きだと言ってくれるひとの存在である。みんなどうやって生きているのだろうか。思ってもいないことを口にしていると病気になるし、思ってもいないことを口にしないでいると(結構な確率で)嫌われる。まさに八方塞がりである。だからわたしは自転車を漕ぐ。自転車を漕いでいる時間だけは、自由でいることができる。

 

人間と出会う。

それでも稀に「人間を見つけた!」的なよろこびを覚えることがある。わたしは「ひとと話したい」と思っている。が、ひとと話しているときも「ひとと話しているとは思えない」と感じることは多い。日本だけでも一億人を超える人間が暮らしているというのに(毎日すれ違うひとは大量にいるのに)、心を通わせることができたと実感できる瞬間は猛烈に少ない。

 

これはどういうことなのだろうか。せっかくひとと話をするのであれば、わたしは「お互いの本音をやりとりしたい」的なことを思う。社交辞令とか無駄な世間話は不要だ。真剣勝負という言葉がある。わたしは大袈裟な人間だからなのだろうか、常に「斬るか・斬られるか」みたいな瞬間を理想としている。別にひとを傷つけたい願望があるわけではない。ただ「斬られたい」と思うことはある。ひとと話すことの最大のメリット、それは「自分の旧態依然な価値観の殻がパカッと割れて、新しい自分がひょっこり顔を出す」ことにある(と思う)。

 

人間と話をしたいと思う。人間を見つける旅をしているのだといっても過言ではない。人間みたいなひとはたくさんいるけれど、人間と出会うことは少ない。これはどういうことなのだろうか。おれの目が節穴だからなのだろうか。おれの性格が悪いからなのだろうか。幸せそうに生きている人が少ないと感じるのは、わたしの性格がひねくれているからなのだろうか。それとも「実際にその通り!」なのだろうか。まあいいや。他のひとのことは知らない。ひとの言葉に期待をするより、ひとの生き様に期待をするより、いまの自分がやるべきことは「己の生き様に言葉を宿らせること」なのだと思う。

 

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わたり文庫『ザ・ロード

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、コーマック・マッカーシー著作『ザ・ロード』です。自転車移動はそれなりに疲れるのですが、この本を読んでいると「おれよりも五兆倍つらそうな主人公がこの瞬間も頑張って生きている!(頑張るってレベルじゃない!)」的なことを思って励まされます。内容がダークなのですべてのひとにおすすめすることはできないのですが、ちょっとくらいたい方には良い本なのかなと思います【ピュリッツァー賞受賞作】。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

あの男の子のことを憶えてる、パパ?

ああ。憶えてるよ。

今でも元気でいると思う?

ああもちろん。元気でいると思うな。

でも迷子になっちゃったかな。

いや。迷子にはならなかったと思うよ。

迷子になったんじゃないかって心配なんだ。

あの子はきっと無事だよ。

でももし迷子になったら誰が見つけてくれるの?あの子を誰が見つけてくれるの?

善意が見つけてくれるんだ。いつだってそうだった。これからもそうだよ。

 

コーマック・マッカーシーザ・ロード』【早川書房

 

行く道は違えど、共に進もう。

ひとと話していてわかったことがある。わたしは、多分、ひとの話を真剣に聞き過ぎている。相手としてはなんとなく話していることでも、必要以上に真剣に聞いてしまうから、勝手に真剣に考えて、勝手に相手の身になって、勝手に想像力を働かせて、勝手に疲弊をしたりなんかして、勝手に「人間関係に疲れた!」と自爆をすることが多い。あるひとは「わたしはこういうことがやりたいのです」的なことを言う。しかし、多くの場合は「やりたいのではなく、ただ、やりたいと言いたいだけ」なのだとようやくわかった。

 

ほんとうにやりたい人間は、話す前にやる。話し続けている時点で、多分、そのひとは「やりたいのではなく言いたいだけ」なのだと思う。だからこそ、多分、その時点ですでにゴールをしているのだと思う。やりたいひとはやるし、話したいひとは話す。ひとの生き方をああだこうだと言って見たり、他人の人生に余計なアドバイスをする暇があったら「お前はお前の人生を生きろ、バカ!」と自分に思う。他人の言葉に反応をしている場合ではない。反応するな。行動をしろ。言葉で語るな。背中で語れ。説明をするな。理解者を求めるな。みんなでやろうなんて甘えるな。ひとりで生きろ。ひとりで生きることをはじめたとき、仲間も理解も応援も、あとから勝手についてくる(ものだと思う)。

 

自転車を漕いでいると、無様な自分が浮き彫りになる。俺はクソムシだなと思う。俺はクソムシだなと思いながら、俺は俺でしかないのだから「この俺で生きよう」とも思う。自分が自分であったからこそ、出会うことのできた人間がいる。それならば、俺は俺を続けよう。自分は自分を続けることが、巡り巡って「あなたはあなたを続けること」の連結になったら最高だ。静岡の天気は晴れ。愛知県との県境に向かう。この前、ちょっと切ない別れがあった。また会いたいと思えるひととまた会えたとき、恥ずかしくない自分でありたいと思う。その時は、胸を張って「久しぶりだね」と笑いあえればいいなと思う。

 

 

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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