「預かり者」として生きる。
生命の危機を感じて愛知に逃げた。明日は鹿児島に飛ぶ。ふふふふ、これでストーカー連中も追ってこれまい。。(実は複数人いる)。。。いやもうほんとうに各種著名人はいったいどうやってストーカー対策をしているのだろうか。ボディガード的なプロを雇用しているのだろうか。財力のない人間はどうすればいいのだろうか。死ねばいいのだろうか。
昨日、包丁を向けられたときの予行練習ということで、ごちゃまぜの家住人のY様に「ちょっと包丁代わりにボールペン持ってこっちに迫ってきてください」とお願いをした。ら、想像以上の威圧感に「う、う、うわあああああああああああ!!!!」となった。先端を向けられるとやばい。予行練習は重要だと学んだ。包丁はリーチが短いから木刀を常に持ち歩けと言われた。が、それはちょっと現実的じゃないと思うから「シュッとやったらジャッと伸びる、携帯用の棒とかないのかな」って気になり始めている。
笑いたいのだな。と。
色々な方々から「ストーカー大丈夫ですか!?」と連絡をいただいた。自分から困っているとか言っておきながら、ひとりひとりに事情を説明するのが死ぬほど億劫なことに気がついて「ちょっと余裕ないのでごめんなさい!」と、逆に心配をかける返信しかできていない。末っ子根性を爆発させて「ストーカー被害にあっているとか書いたらみんなに心配してもらえるかな・・・どきどき♡」みたいなテンションで書いてしまったのだけれど、軽はずみな言動は控えなければならないのだなと(一時的に)猛省をする。
心配されたらされたで「面倒くさっ!」とか思う自分を見た。俺はなんて自分勝手な人間なんだろうと思った。と、ここで気が付いた。私は、多分、問題を解決したいのではなく「問題を通じて飛翔したい」と思っているのだと思う。乱暴にまとめれば「ネタにしたい」と思っていて、言い換えるならば「どのような状態に置かれても、必ず『笑いに転換できるポイント』は隠されている」みたいなことを思っている。そのポイントをオーディエンスのみなさまと一緒に模索したい(楽しみたい)と思っているみたいだ。
自伝風の物語を書き進める。家なし生活もストーカー被害も似ている。家なんてあったほうがいいに決まっているし、ストーカー被害なんてあわないほうがいいに決まっている。が、事実、家がなくなってしまった(ストーカー被害にあってしまった)のだから、起きたものは仕方がない。あとはもう、どれだけ笑い【生きる力】に転換できるか、そのことによってどれだけ飛翔できるかなのだと思う。物理的には、明日鹿児島に飛ぶ。精神的には・・・・・一体、私はどこまで飛翔をすることができるのだろうか。
押し寄せの法則
鹿児島に行く。が、予定はない。巷では引き寄せの法則が話題になったが、私は「押し寄せの法則」を採用している。押し寄せの法則とは「呼ばれてもいないのに一方的に現地に押し寄せ、押し寄せることによって生じるミラクルを期待する他力本願的な生き方」みたいなものになる。鹿児島ではなにが起こるのだろう。なにも起こらないかもしれない。明日13日の19時に鹿児島空港についた瞬間にひまになる。なにもすることがない。さて、私はどうすればいいのだろうかと社会に釣竿を投じることで「なにかおこれ!」と念じている(多分、安易にこういうことを書くからストーカーに追われるのだと思う。気をつけたいとは思うのだけれど、この生き方をやめることができない)。
「預かり者」として生きる。
前回のツイキャスで「こどもは預かりものだと思って育てている」と話したお母様のエピソードを紹介した。預かりものとは素晴らしい言葉だと思った。同時に、その話を聴きながら「実はすべてが預かりものなんじゃないだろうか」などと思った。こどもだけじゃなく、いま、我々が使わせていただいているごちゃまぜの家も「神様的なサムシングから一時的に預けられたもの」だと思うと、身が引き締まる。シュッとなる。逆に言えば「これは自分のものだ!」と思った瞬間、そこには執着のようなものが生まれる。預かりものだと思う時、そこには「使わせていただいている」という感謝が生まれる。
多分、命も同じだ。この肉体も「仮の宿」みたいなものであり、生きている間の預かりものなのだと思う。自分が持っている金銭も、財産も、自分が持っている経験でさえも、自分のものではなく「預かりもの」なのだと思う。占有の概念からちょっと距離を置くと、ふと、こころが軽くなる感覚を覚える。自分の金も、自分の経験も、自分の命さえも「俺のであって、俺のではない」くらいに思っているのがちょうどよいのかもしれない。金も命も経験も、真価が問われているのは「その使い方」だと思う。なにをもっているかではなく、自分がもっているものを「どのように生かすか」なのだと思う。
この点において、我々は(表面的には差異にあふれているようで)実際は極めてフェアな状態だと思う。どのような生き方にも価値はある。どのような状態に置かれても「その状態を生かす道」は必ずある。私は、多分、家なし生活を通じて「希望を見出す力」を鍛えられたのだと思う。いまもなお、その途上にあるのだと思う。無論、生きていると「なんなんだよもう!いい加減にしてちょーだい!」となにかに向かって叫びたくなることは頻繁にある。が、困ったときの「みんなの丹田」である。自暴自棄になるのではなく、恐怖で自分を閉ざすではなく、調子に乗って自滅をするのではなく(昨日自滅しましたごめんなさい)、冷静に、沈着に、自分に捕まってしまうことより「自分を解き放って行く」ことなのだと思う。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2017年8月6日
坂爪さん、こんばんは。
今日お邪魔させて頂きました○○○です。
色々な方からご連絡頂いてるかと思いますが、お礼をさせて頂きたくて…。
今日は本当にありがとうございました。初めての、ごちゃまぜの家、こんな感じなんだなぁと思いました。
子供が楽しそうに走り回り、うまく言えませんが、人の優しさや気遣いを、今日会ったばかりの人同士が与え会っている場面も多々あり、不思議な、居心地の良い感じがありました。
途中、坂爪さんが疲れてしまった部分があり、坂爪さん自身が嫌な思いをしたと思います。
お疲れ様でした。私は事情など何も分からないので、こんなことしか言えませんが…。
ただ、あのような不思議な空間、エアコンついてないのに湿気こもってない、なんとも言えない空気が流れる場所は、誰でも作れる場所ではないと思うんです。
あの場所を作ってくださり、私のような来る人に、他では出来ない体験をさせてくださる。
それを、心から感謝したいです。本当にありがとうございます。
また、私の顔をまさか覚えててくださるとは思いませんでした。日々色々な場所で色々な人と接しているので、1年近く前に数分だけ会っただけの私を覚えててくださったこと、正直メチャメチャ嬉しかった!!!!あの時のお花、家で咲いて枯れて、、、でも私の記憶や思い出にはきちんと残っています。
それも何もかも全部含めて、今日は本当にありがとうございました!!!!
またブログやツイキャス、はたまたごちゃまぜの家でお目にかかることを楽しみにしています✨
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu