いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

弱さは希望だ。

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死と再生を繰り返す日々を過ごしていた。ら、ハワイ島のキラウェア火山が噴火をして「これは富士山もやばいんじゃないか」などと思った。一応、現在は熱海と横浜(と佐渡島とハワイ島の一部)に自由に使える空間はあるものの、新しい疎開先を開拓する必要性を感じた。という訳で、急遽、明日から関西圏に行くことになりました。目的は「ごちゃまぜの家@関西圏」を実現させることにあるのですが、現状、あてはまだなにもありません。もしもなにか「あれがあれだからあれするといいよ!」的な閃きが舞い降りた方がおりましたら、お気軽にご連絡をいただけましたら幸いです!!

 

連絡先・さかつめけいご

LINE ID ibaya

keigosakatsume@gmail.com

 

ビリギャル男、予告動画が完成しました!

 

www.youtube.com

 

社会不適合者のビリ3人が、いよいよ集結。

 

彼らの目的はただひとつ。

いつでも誰でも立ち寄れる家を、ハワイにつくること。

 

社会の落ちこぼれたちでも、泣いて、笑って、

思い切り生きられる場所をつくりたい。

 

ダメだからこそ、描ける未来があった。

 

世界を変えることはできないけれど、

世界を増やすことならきっとできる。

 

たくさんの応援をもらって、

日本から飛び出した彼らを待っていたものとは。

 

この奇跡は、あなたにも起こる。

 

【参考HP】GOCHAMAZEHAWAII on Strikingly

 

ibaya.hatenablog.com

 

ごちゃまぜの家リトリートの延長。

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現在、熱海と横浜の家を開放して「ごちゃまぜリトリート」なるものを開催しています。詳細は過去記事にあるのですが、今後ともリトリート開放を続けていきたいと思っています。熱海の家や、横浜の家(今後はここに「ハワイの家」とか「大阪の家」とかも加わったら最高!と思っています)に宿泊をしてみたい方がおりましたら、お気軽にご連絡ください。

 

ここ数日間、非常にありがたいことに、全国各地(千葉・埼玉・大分・徳島・大阪などなど)から様々な方々が遊びに来てくれました。昨日、普段は看護師さんをやっている方が、こんな印象的な話をしてくれました。「病院で働いていると高齢者の要介護の方をよく見ます。私は思うのですが、ひとりのひとだけでひとりを支えるのは無理だと思うんです。たとえば、旦那さんが要介護で、それを介護する奥さんも高齢の場合、介護疲れなどで共倒れになってしまうケースとかすごいいっぱいあって、『支えるひとを支えるひと』が必要なんだってすごい思います。こういうのをたくさん見ていると、ああ、生きるのってすごい大変なんだなって思っちゃうこともあって、これから自分はどうすればいいのかななんて考え込んでしまうこともあります」と。

 

話を聞きながら、ああ、ごちゃまぜの家はレインボーアンサーなんじゃないだろうかと感じました。ごちゃまぜの家の目的は108個くらいあるのですが、そのうちのひとつが「家族という概念を溶かすこと」にあります。誰でも自由に立ち寄れる家があって、その場所を通じてある程度の交流【風通し】が生まれたら、いつの間にか「勝手に託児所的な機能を果たしたり」「勝手に介護施設みたいな機能を果たしたり」「勝手に学校的な機能を果たしたり」するのではないだろうかと、だからこそ、キーワードは(分け隔てるのではなく)混ぜる!混ぜる!混ぜる!ごちゃまぜにする!ことではないだろうか、などと思うのであります。

 

ibaya.hatenablog.com

 

味噌になれ。

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誰でも自由に出入りできる活動をやっていると、当たり前のことですが「ああ、このひとはちょっと苦手だな」と感じることも頻繁にあります。先日も、まさにそんな感じの瞬間がありました。が、最近、そんなときは「味噌になれ」と自分自身に念じるようになりました。わたしは(あらゆる菌を自分自身の栄養素として取り込んでしまうという点において)味噌をリスペクトしています。ごちゃまぜの家は、多分、味噌だるみたいなものなのだなと思います。苦手な菌を「苦手!あっちいって!」と排除をするのではなく、ある種のばい菌でさえも栄養にしてしまう大きな器。半端ない器。それこそがごちゃまぜの家が目指す器である、と、そんなことを感じております。

 

わたし自身は好き嫌いが激しいので、このひととは話したいけどこのひととはあまり話したくない、みたいなものが露骨に出ます。が、非常にありがたいことに現在、ごちゃまぜの家には3名の住人がいます。わたしが「ああ、このひとは苦手!」とか「今日は疲れたから誰とも話したくない!」などと思って奥の方に逃げているときも、他の住人の方が、楽しそうにゲストの方々とちゃぶ台を囲みながら話している声が聞こえて来たときなど「素晴らしいなあ…これこそがチームプレイだなあ…」なんて心地になります。誠に、人生はうまいことできているのだなあとしみじみと感じる瞬間であります。

 

これらを総じて「自分自身が味噌になる必要はない。ただ、ごちゃまぜの家が、空間全体による味噌だるになればいいのだ」的なことを思いました。苦手は人は苦手。無理をしてまで好きになる必要はないし、無理をしてまで愛嬌を振りまく必要もない。排除をする必要もないし、迎合をする必要もない。すべてが「おさまるところにおさまる」空間づくりさえできていたら、あとは勝手に(ごちゃまぜのままで)いい感じにまとまっていくのだと思います。などと、毎回、しっかりと血反吐を吐きながら学習をしています。なぜ、自分みたいな人間(どちらかと言えばひとりの時間が好きで、且つ、好き嫌いの激しい人間)がこんなことをやっているのか謎に感じることもありますが、多分、わたしがやりたいと思っているのは、そういう感じの空間【大袈裟な言葉で言えば『平和』】づくりなのだと思いました。

 

わたり文庫『喜びの泉 ターシャ・テューダーと言葉の花束』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ターシャ・テューダー著作『喜びの泉』です。実は、昨日の昼間、いろいろあってテントの中で精神的・肉体的に死にかけていたのですが、この本を読むことで癒され、奇跡のJ字回復を遂げ、この本の贈り主であります東京在住S様に「まじでありがとう…」と五体投地を捧げていました。素晴らしい一冊です。命の恩人です。言葉の力や、絵に宿る力はすごいものがあります。ターシャ・テューダーのような自然に恵まれた暮らしを、ここ、日本でも実現できたら最高だなあと思います(関西圏にそんな場所ってないのかなあ・・・)。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

世の中の憂鬱は影にすぎない。そのうしろ、手の届くところに喜びがある。 ー フラ・ジョバンニ

 

喜びをつかみなさい - シェークスピアワーズワース、エマーソン、ソローなど、作家や詩人の言葉に、絵本作家ターシャ・テューダー(1915年生まれ)の美しい絵を組み合わせた『喜びの泉 ターシャ・テューダーと言葉の花束』は、私たちにそう語りかけます。

 

作家たちが賛美するのは、輝きに満ちた自然、あたたかい人の心、夢がもつ力。ターシャの繊細でぬくもりのある水彩画が、それらの言葉の意味を身近に感じさせてくれます。彼女の孫たちのかわいらしい姿や、子供時代のターシャも登場します。

 

「喜びを感じる義務ほど、軽んじられている義務はない」と、ロバート・ルイス・スティーブンソンも言っています。『喜びの泉 ターシャ・テューダーと言葉の花束』は言葉と絵で、無邪気な子どもの心と思い出のなかの小さな楽しみを描いています。知恵と感動のこの一冊を見ていると、私たちのまわりにもたくさんの喜びがあることに気づかされます。

 

ターシャ・テューダー『喜びの泉』【メディア・ファクトリー】

 

弱さは希望だ。

連休中はひたすら断捨離をしていた。多分100キロくらいはゴミを捨てた。ゴミ袋に不用品を詰めながら「ものを持つということは本当に恐ろしいことですね」というスナフキンの言葉が何度もかすめた。家ごと断捨離をしたい気持ちにもなった。使わない家電を中古屋に持ち込んだりもした。モノが溢れている店内を眺めて「もう、モノはこりごりだよ!」とか思ったりもした。が、断捨離を終えたいま、最高にスッキリをしている。自分へのご褒美にしゃぶしゃぶをご馳走した(というのはウソで、住人のよしえさんがご馳走をしてくれた)。最高に美味しくて、いま、最高におなかが膨れている。

 

人は自分が置かれている立場をすぐ状況のせいにするけれど、私は状況を信じません。この世で成功するのは、立ち上がって自分の望む状況を探しに行く人、見つからなかったら作り出す人よ。

 

ターシャ・テューダー『喜びの泉』より引用

 

普段、納豆ばかりを食べているから、お肉を食べると「うおー、生きるぞ!」となる。実は、関東圏を逃げるように関西行きを考えていたのだけれど、しっかりと捨てるものを捨て、やることをやってから関西に向かえることが非常にうれしい。今回は折りたたみ自転車で行く。理由は単純、おかねがないからだ。みなさまからのもらい物【あまり物】だけでごちゃまぜの家を実現できないだろうかと考える。きっと、いま、世の中にはたくさんのものがあまっている。これ以上、もう、新しいものを買いたいとは思わない。余っているものを活かしたいと思う。もらい物だけでごちゃまぜの家をつくれないものだろうか。できるような気がする。わたしにはなにもない。なにもないからこそ、なにかが差し出されるような気がする。わたしには弱さがある。弱さがあるからこそ、つながりを生み出していけるような気がする。わたしは完璧な人間ではない。完璧な人間ではないからこそ、誰かを必要とすることができる。なにかを必要とすることができる。そして、また、誰かにとっての必要な存在になることもできるような気がする。それを試しに行く。自分にできることは、ただ、自分にできることを「生きる」ことだ。

 

わが身をさいてこそ、ほんとうの贈り物といえる。

 

ターシャ・テューダー『喜びの泉』より引用

 

先日、素晴らしいメールをいただいた。この世の中には「女性の社会進出」などという言葉がある。わたしは、こういう類の言葉が嫌いだ。女性を含めての社会なのに、なぜ、女性が社会の外側にいるように扱われているのか。また、障害者支援の「支援」という言葉も苦手だ。支援もなにもない、ただ、わたしたちは『共に生きる方法を学ぶ』ことが大事なのだと思う。自分自身についても同じだ。巷では「悲しみを乗り越える」とか「弱さを乗り越える」という言葉を頻繁に耳にする。しかし思う。悲しみは、弱さは、乗り越えるべきものなのだろうか。乗り越えられるものなのだろうか。わたしは思う。悲しみは、乗り越えるものではなく「共に生きる」ものだと思う。弱さも同じだ。弱さを乗り越える必要はない。ただ、弱さと共に生きる方法を学べばいい。わたしには弱さがある。たくさんの弱さがある。これを乗り越えなければとか、もっと強くならなければ、などと考えているときの精神状態はつらい。多分、強さとは「弱さを自覚すること」だと思う。弱さと共に生きる覚悟を、強さと呼ぶのだと思う。自分ひとりでなんでもやろうとすることは、強さではない。それはただ、臆病なだけ。共に生きる方法を学ぶ。いま、この言葉に宿る意味を、幾たびも考えさせられる日々を過ごしている。

 

ご丁寧にご返信、そして温かいメッセージをありがとうございました!
ピアノも木でできているので、一瞬にして木や、風と繋がれるのが好きです。
 
そして、言いたいことを、お伝えしたい人に言える、というのは何だか豊かな気持ちなりますね。
私もいつもオープンでいたいと思いました。
 
 
ごちゃまぜの家にお邪魔できたらお話しようと思っていたのですが、
昨年、しばらく海外に住んでいた時
無償で人を泊める、ということをしました。
子供や赤ちゃん持ちの人、コミュニケーションが苦手な男性、
色んな人が一緒に暮らすことで、
その、コミュニケーション苦手な男性は、恐ろしく子守が上手だということが発覚したり
甘え上手な子持ち女性を見ていて、こんな風にみんなで子育てっていいな、と思ったり、
難しく考えてこじれていた大人の関係を、子供がいとも簡単に解決してくれ、
奇跡的な2週間でした。
 
無償で、とか、知らないもの同士が、というのを
常識がないとか、普通はこうするものだとか、ありえないとか、
周りの大人で理解しない人も多かったのですが
今思うと、私がやりたかったのはごちゃまぜの家に近いことだなと、ふと思ったんです。
 
横浜のごちゃまぜの家も、ずっと気になっていましたが
本当に素敵な場所ですよね。
 
 
それから今日、合唱、というこんな映画を見ましたが
ちょっと凄かったので、25分程度のショートムービーですので、もし良ければお時間がある時にでもご覧になってみて下さい^^
 
https://sst-online.jp/theater/491/



ではでは、どうぞお元気で!

 

https://www.instagram.com/p/BiVMYFuHrU6/

あさみ。。 #朝 #海 #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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