崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。
東京都在住の女性から「話がしたいです」とご連絡をいただき、武蔵小杉駅で合流をする。話を聞くと、ここに来る前に市役所に行って離婚届を提出してきたばかりだと言う。最近、離婚というワードを頻繁に耳にする。一見すると幸せそうに生きているようなひとでも、その内奥では人知れない孤独や悩みを抱えているものだということを、様々な方々と出会うことで強く感じる。わたしにできることと言えば、自分をからっぽにするだけ。ただ、黙って話に耳を傾けることくらいだ。
話を聞くことで少しでも気持ちが楽になってもらえたのであれば、それはとても嬉しいことだ。自分は、良くも悪くもひとの話を真剣に聞きすぎる。だから、稀に猛烈な疲労感のようなものを覚えることがある。話を聞くと感謝をしてもらえる。おかげで元気になりました!なんて言ってもらえることも多い。涙を目にする機会も多い。よろこんでもらえることは嬉しい。だが、その反面で「誰かを元気付けることはできても、誰が俺を元気付けてくれるのだろう」などと甘ったれたことを思うこともある。誰かを元気付けるほどに、これはやり方を間違っているサインなのだろう、自分から元気がなくなっているように感じることがある。
紙に吐き出す。神に吐き出す。
疲労感を覚えたときは、思いの丈を紙に吐き出すようにしている。紙に吐き出す行為は、どこか『神に吐き出す』行為みたいだなと思う。ちょっと聞いてよ神様、みたいな感じで思いの丈をひたすらに綴る。生きていると「さみしさ」のようなものを覚えることがある。誰かといたいと願う気持ち。誰かと話がしたいと願う気持ち。温もりに触れたいと願う気持ち。生きていることを確認し合いたいと願うような気持ち。さみしさは心許なさを運ぶ。自分ひとりの足で立っていることが難しくなり、他者を必要とする。
心許なさに包まれている自分を見て、ああ、まるで飼い主の帰りを待つ犬のようだなと思った。それでは、自分にとっての『飼い主』とは誰なのだろうか。多分、それは人間ではないように思う。私は、過去に「横を見るな。縦を見ろ」という言葉を自分自身に言い聞かせていた。ひとにつながりを求めるとつらくなる。ひと【横】とのつながりを求めるのではなく、天【縦】とのつながりを求めろ(思い出せ)と、自分自身に言い聞かせていた。特定の宗教を持つ方々は、多分、天を「神」と言い換えたりもするのだろう。
飼い主の帰りを待つ犬のように、
さみしいとか、苦しいとか、
心許なさを覚えることがある。
私の飼い主は、天と地だ。そして、
私の帰る家は、天と地だ。
神は言う。 "I'm home"
私はここにいる。そして、
私はお前の家だ。と言う。
私はここにいる。私はお前を見ている。
お前は決して見捨てられてないんていない。
私がお前の家だ。お前は守られている。
お前の居場所はここにある。
紙に吐き出した言葉は、神からのレスポンスのように感じた。
空間を。
ブログ読者のみなさまにお願いがあります。いま、私【さかつめけいご】は、自由に使わせていただける空間を必要としています。疲れた時など、たまに立ち寄って心身を整えたら再び元気に歩き出せるような、また、誰も使っていない時間帯はその空間を必要とするひとに使っていただけるような、自由に使える空間を必要としています。どのようにお願いをしたらいいのかちょっとわからないのですが、もしも「使っていない空間がある」という方がいらっしゃいましたら、ご連絡をいただけましたら幸いです。
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
このような人間に空間を使わせても大丈夫なのか、と疑問に感じられることはもっともだと思います。なので、いきなり場所だけを使わせてくれとは言いません。ご連絡をいただいた方には、まず、一回実際にお会いさせていただけたら幸いです。実際に坂爪圭吾という人間を見ていただき「こいつなら大丈夫だ」と思っていただけたのであれば、そこから話を進めていけたらと思います。逆に言えば、ああ、こいつには使わせてやることはできないなと感じた場合は、遠慮なくその旨を伝えていただけたらと思います。
※※※ 空間の募集は終了いたしました ※※※
わたり文庫『おおきな木』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、シェル・シルヴァスタイン著作『おおきな木』です。昔、家のない生活をしていた頃、一般家庭のご自宅に宿泊をさせていただくことが頻繁にありました。そのなかで、こちらの絵本を「自分の大好きな作品なので、是非、次の方にまわしていただけたらうれしいです」と託していただいたことがあります。この絵本の訳者でもある村上春樹さんは言います。そこにはできあいの言葉ではすらりと説明することのできない、奥行きのある感情が込められています。美しい感情があり、喜びがあり、希望の発芽があるのと同時に、救いのない悲しみがあり、苦い毒があり、静かなあきらめがあります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※
あなたが何歳であれ、できたら何度も何度もこのお話を読み返していただきたいと思います。一度ですんなりと理解し、納得する必要はありません。よくわからなくても、つまらなくても、反撥を感じても、腑に落ちなくてもやもやとしたものがあとに残っても、悲しすぎる、つらすぎると感じても、腹が立っても、とにかく何度も読み返してみて下さい。これまで半世紀近くにわたって、みんながそんな風にこの本を読み継いできたのです。きっと何かがあなたの心に残るはずです。あるいはあとに残るのは木の葉のそよぎだけかもしれません。でもそれだってかまわないのです。ー (訳者あとがきより引用)
シェル・シルヴァスタイン(村上春樹・訳)『おおきな木』【あすなろ書房】
崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。
稀に、出会ったひとから「坂爪さんにはがっかりしました」とか「そんなひとだとは思いませんでした」と言われることがある。面会している時に言われることは少なく、多くの場合、あとから溜め込んだ感情が爆発をしたかのような、呪詛めいたロングメールになる。それを読みながら、ああ、俺は(そのひとにとって)完璧であることを期待されていたのだなと思う。そして「俺もひとりの人間だ。良い部分もあれば悪い部分もある。完璧を求める【完璧を求められる】と辛くなる。それでは誰も幸せにならない。完璧であることを強いるより、不完全であることを慈しめる方向に舵を取りたいのだ」ということを思う。
許しとはなんだろう。自分が自分を許している範囲でしか、ひとを許せないように思う。私達は、ともすると自分を正しい者のように思い、ひとを責め、裁く。しかし、ひとつの罪も犯さずに生きてきた人間はいない。許すことのはじまりは、逆説的だけど「自分自身が許されてきたこと」を知ることだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年1月20日
道に迷うとき、私は自分の思いを紙に吐き出す。紙に吐き出すことは『神に吐き出すこと』と似ている。昔からずっとそうだった。これから自分がやろうとしていることが、天意に叶うものであればそれは実現をするだろう。しかし、天意に沿わないものであれば、それは実現をしないだろう(実現をしないほうがよかったことなのだろう)。人間がコントロールをできる範囲と、人間にはコントロールをできない範囲がある。自分にできることといえば、自分が思う誠実さのど真ん中を生きること。たとえ、周囲から笑われたりバカにされることがあったとしても、自分が信じた道を愚直に進むことなのだと思う。
優しいひとほど、その優しさによって「自分自身を傷つけている」と思う。自分が我慢をすることで保たれる平和なら、そんな平和は偽りだと思う。自分を丁寧に扱えないひとが、ひとに優しくできるとは思えない。もっと自分を出して見ろと思う。誤解を恐れずに言えば「いい子ぶってんじゃないよ」と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年1月24日
崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。現在の自分は無宗教で、まだ、特定の宗教を信じる道にはいたっていない。ただ、このように感じる精神面の働きは『信仰』と呼ばれているものと似通っているのかもしれない。信仰は、知識として蓄えるものでもなければ、お守りのように常に胸に秘め続けるものでもない。大事なことは「信仰を生きる」ことだ。崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。この言葉を、ただの言葉としてではなく、自分の生き様を通じて体現することができたのであれば、そのことを本望だと思う。
強さとはなんだろう。一人で生きる強さもあれば、誰かに助けを求める強さ、自分の弱さを認める強さ、さみしいときにはさみしいと言う強さもあるように思う。一人ですべてをなんとかしようとする強さは、多分、強さじゃない。それはただ、臆病なだけ。強さとは、自分を、他人を「信頼する力」だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年1月25日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu