いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

道に迷った時は、損得勘定じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。

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固定費や維持費を極限まで減らせば、端的に「生きるハードルが下がる【自由になる!】」と思ってはじめた家のない生活を通じて、人生、意外とどうにかなるのだと学んだ。逆に「家がないと楽しい!」と思えた事例は枚挙にいとまがない。まず、野営【テント暮らし】の素晴らしさを知った。個室空間は限りなく狭いが、内と外を隔てる壁(?)が少ない分「地球がおれの家」感が増幅する。不思議な話になるけれど、家が小さければ小さい分「世界を広く感じる」ことができる。自分の庭は持てなくても、緑が豊かな場所にテントを張れば「これがおれの庭だ【借景】」となる。動物は飼えなくても、最初から小鳥などの小動物が大量に生息する場所にテントを張れば「これがおれのペットだ【借ペット】」となる。豪華なプール付きの別荘は持てなくても、海にテントを張れば「これがおれのプールだ【借海】」となる。所有をすると、どうしたって管理費やメンテナンス費用が発生をする。固定費は自由を奪う。逆に言えば、お金がなくても生きていける環境を開墾できれば、嫌な仕事を嫌々やらなくても大丈夫!ということになる(と睨んでいる)。

 

 

バンコクから熱海と横浜を経由して、いま、北海道の新千歳空港『PRONT(無料Wi-Fi付き!)』にいる。北海道行きが決まったのは一昨日の話で、北海道伊達市に空き家を持つ方から「この家をごちゃまぜの家にどうですか?」とご連絡をいただいたことがきっかけになる。よろこび勇んで馳せ参じたものの、結論から言えば「今回は無理!」ということになった。空き家問題という単語を耳にする機会は多いが、「家は資産なのか?負債なのか?」がわからなくなる。広い家を管理する手間は相当なもので、脳内でスナフキン先輩の「ものを持つということは恐ろしいことですね」という言葉がこだました。人間は道具【金】の主人であるべきであり、道具【金】が人間の主人になってしまったら『結構やばい』と思う。所有よりもキャッチ&リリース!ということで、明日、菊名の家にある食糧を無料で放出する炊き出しイベントを鉄砲玉48のみなさまが開催してくださることになりました(わたしも夕方頃には顔を出せたらと思っているので、お時間のあるかたはお気軽にどーぞ!!)。

 

【イベント情報】日本人ならコメを喰え!2017 @ごちゃまぜの家

 

売り手よし、買い手よし、世間よしの『三方よし』を(時には売り手の部分を犠牲にしながら)達成する。

鉄砲玉48では『三方よし』の概念を大切にしたい(と思っている)。三方よしとは、昔の近江商人が重要視していた考え方で、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三つの「よし」を目指すことを意味する。鉄砲玉とは、基本的には「あらゆる依頼に無料で応える便利屋的な捨て駒の集合体」を意味していて、現在も依頼がある限り世界の何処でも積極的に応えるようにしている。何でもやるということにはなっているのだけれど、できることなら「当事者【鉄砲玉のメンバー】と依頼主だけでなく、まったく関係のない第三者にとってもメリットのある動き」をしてもらいたいと思っている。なぜならば、その方が「鉄砲玉のメンバーがいた方がみんなにとってハッピーだから、彼らを死なせてはいけない!」的な力が働いて、金も定職も世間的な肩書きもなにもない彼らも、もしもの時は(多分)なにかしらの形で生かされるであろう、が、第三者にとってなんら有益ではない動きをしてしまっていた暁には、死にたえるだけだろうと思っている。

 

単純にまとめると「無料でご奉仕をすることを通じて幅広い経験と知恵を獲得し、己のセフティネットを構築しつつ、みんなにとってのハッピーも増幅するような動きをよろしく!」ということになる。先日、宮古島に足を運んでいた鉄砲玉のひとみさんは、宮古島にて「この家を自由に使っていいよ」という物件を手に(?)入れた。家主の方が死ぬほど器の広い方で(わたしからも本当にありがとうございます!!)、ひとみさんが「この家をごちゃまぜの家に使ってもいいですか?」と尋ねたところ、家主の方も「あなたがいいなら、それでいいよ」とのこと。これから実際にどういう流れになるのかは未定すぎるためになにも言えないけれど、この点において「ひとみさんは最高にいい仕事をしている」ということになる。仮に、宮古島に誰でも自由に無料で使える家が増えたとしたら、そして、家主や地域住民の方々にとっても(迷惑をかけるのではなく)嬉しい動きを我々がすることができたなら、ひとみよし、家主様よし、世間【ブログ読者のみなさまなど!】よしの『三方よし』が達成されることになる。

 

このたとえは大袈裟だけど、単純に「鉄砲玉のメンバーが誰かの無茶振りに応える。依頼主がその様を見て楽しみ、その様を見ている第三者の方もエンタメ的に楽しむことができる」とかでも構わない。多分、鉄砲玉の活動は非常にバラエティ的なのだと思う。根本的に「見ているひとが楽しめたらそれでいい」というもので、ついでになにかしらのメリットも授かることができたら御の字になる。ので、是非、こちらをご覧の鉄砲玉のみなさまには「人生はギャグだと思って、思う存分、カラダを張って笑いを取りにいってください」と願う。ボロボロになった時のためのごちゃまぜの家である。もしもほんとうにやばくなったら、寝る場所と食べるものはごちゃまぜの家にある。しんどい時はごちゃまぜの家で英気を養い、元気になったら再び、愛と笑いの狩猟採集生活に戻ってもらえたら嬉しいと思う(随時新メンバー&鉄砲玉の活動を支える女子マネージャー的な存在も募集をしています!)。

 

【過去記事】愛想笑いはF◯CKですよ。 - いばや通信

 

責任を果たすことは快楽である。

愛するひとのすすめで、いま、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでいる。最近、責任を果たすことは快楽であるということを思う。うまく説明をできる自信がないけれど、責任という言葉には『できることならば避けたいもの』というイメージがある(ような気がする)。しかし、’真の意味で責任を果たすことができている時、その瞬間に『最高の幸福感』を覚えることができているように人間はできているのではないだろうか。簡単にまとめると、それは「誰かの役に立てているという実感【自分がいることで、世界が少しでもよくなっているのだと思える瞬間】」のなかには、ああ、生まれてきてよかったなあ(これで死ねる!)とさえ思える愉悦感がある。と思っていたら、この本の中にこんな文章が出てきた。

 

配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。「責任がある」ということは、他人に要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』【紀伊国屋書店

 

『責任は、完全に自発的な行為である』という指摘は素晴らしい。先日、学校もアルバイトも嫌でやめたいけどやめられないからどうしたらいいかという相談を受けた。メールの相談だったからいまいち現状が掴みきれなかったけれど、わたしは「(頭でごちゃごちゃ考えてもらちがあかないから)いますぐ直近のフルマラソンにエントリーをしましょう!」と答えた。多分、そのまま流されてしまったとは思うけれど、頭で考えるよりも先にカラダを動かすことで突破できる問題は大量にあると思う。数年前、三ヶ月で15キロを落とした非常に麗しい体験が小生にはあるのだけれど、あの時期は人生のすべてが「いかに痩せるか」で構成されていた。当時はピザ配達のバイトをしていたのだけれど、バイト先までの徒歩一時間弱を毎日歩き、配達中もバイクの中で筋トレになり得る不穏な動きを重ね、配達先の家の前でもスクワットを100回してから玄関のピンポンを押していた。体重が減ることは嬉しい。数字は裏切らない。周囲からは「ストイックですね!」と言われることもあったけれど、端的に「ALL FOR JOY!」という感じだった(話が逸れすぎてしまった…)。

 

物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何か一つでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的に言えば、貧しい人である。気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのだ。彼は、自分は自分の物を他人に与えられる人間なのだ、と実感する。生きてゆくのに最低限必要な物しか持っていない人だけは、物を与えるという行為に喜びを感じることができない。だが日常の経験からわかるように、人がどの程度を最低限の必需品とみなすかは、実際にどれくらい持っているかだけでなく、その人の性格に左右される。誰でも知っているように、貧しい人のほうが豊かな人よりも気前よく与える。とはいえ、貧困もある程度を超えると、与えることができなくなる。貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活がつらいからだけでなく、与える喜びが奪われるからである。

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』【紀伊国屋書店

 

引用が長くなってしまった。今回は「責任を果たすことは快楽である!」ことと「鬱病患者はフルマラソンにエントリーした直後に本屋に走れ!そしてマラソンにまつわるノウハウ本を数冊立ち読みしろ!」的なことを書きたかったのだけれど、時間が足りなかった。情報量が多すぎると全体感が雑になる。これは毎度の反省点である。気をつけよう。全然関係ないけれど、いま、自転車に乗りたい欲求が爆発した。車もバイクも電車もバスも飛行機も交通費がかかるしカラダが鈍る。ミニベロならダホンのボードウォークか調子に乗ってブロンプトンを相棒にして、ハンモックテントとと一緒に水源まで自転車を飛ばして湧水を沸かしてカップヌードルを食べたい。しまなみ街道まで自転車を引き連れてサイクリングとかやりたい。海外にも持ち運んだりしてみたい。もしも不要な自転車をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけましたら幸いです【菊名の家でも必要としています!!】!!

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

わたり文庫『愛するということ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、エーリッヒ・フロム著作『愛するということ』です。こちらの本をおすすめしてくださった静岡市内在住K様からいただいた「おすすめの文章」が綴られた手紙がなんだかあまりにも素敵だったので、そちらをご紹介させていただきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「愛」とことばにすると、もう言い尽くされていてなんだか陳腐な気がしてしまって、会話に出てきてもなんだか恥ずかしいような・・・でも、学校の授業で本気で教えてもいいんじゃないかと思うほど。

 

人の幸せを願う。そう願える自分を素直に喜ぶ。自己満の時もあるかもしれないけれど、こんなに嬉しいことはない!と思えました。与える喜びを与える場所、〝愛の技術〟を学べる場所がこれから増えたらいいな・・・と、思いが膨らむ本でした。

 

静岡市内在住『K様の手紙』より

 

たくさん持っているひとが豊かなのではなく、たくさん与えるひとが豊かなのだ。

K様の意思を引き継ぎ、わたしも「与える喜びを与える喜びツアー(仮)」なるものを開催したいと思った。内容は未定だけれど、基本的に明日から死ぬまで時間があるために、菊名の家には車【トヨタのビッツ!】もあることだし「あなたの家にある(お宝的な、それでいて使っていない)不用品を坂爪圭吾が直接車で回収に伺ってご自宅の断捨離を促し、かつ、それを必要とされる方々まで直接車で手元に届ける『断捨離キャッチ&必要とされる方にリリース!』 なるものを断行する」のはどうだろうか、と思っている。もしも「ちょうど断捨離をしたかったのよ!」的な方がおりましたらば、ブログ末尾にある連絡先より坂爪圭吾までいつでもお気軽にご連絡ください!!(7月21日現在、ものすごい暇です!!)

 

 

自分を幸せにしたかったら、自分のことばかりを考えていてもダメなのだと思う。多分、真の意味で善いことは「世のためにはなるけど自分のためにはならない」なんてことはないのだと思う。逆もまた然りで、世のため、ひとのため、自分のため、これらはまったくの別物ではなく(ほぼほぼ)同義であり、真の意味で善い行いは「世のためにもなるし、ひとのためにもなるし、もちろん自分のためにもなる」ものだと思う。自己犠牲が行き過ぎているなあと感じる時は、多分、何かが少しずれているのだろう。自分を幸せにするということは、他人を蹴落としてでも自分の幸せを実現するとかそんな器の小さな話ではなく、自分の幸せと他人の幸せの掛け算【合わせ技】みたいなものなのだと思う。

 

 

極論、ひとのことは気にしなくていいのだと思う。西洋の本を読んでいると『(キリスト教的な意味での)神様』的なワードが頻繁に出てくるけれど、多分、日本人に一番馴染みのある言葉は『愛』とか『自然』とか『天』とか、そんな言葉になるのだと思う。自分の生き方に迷う時、ひとと比べてどうかということよりも『これからやろうとしていることに、自分なりの愛を込めることはできているか』とか『天に対して恥ずかしくない生き方ができているか』と考えた方が、多分、軸はぶれない。時にひとから馬鹿にされることがあったとしても、誹謗や中傷や周囲の無理解に大なり小なり傷つくことがあったとしても、自分なりに「天に恥じない生き方ができている」のだと思えれば、それは最高の生き方【美】になるとわたしは思う。あとはもう、自分ができる最善を尽くすのみである。朝が来る。外に出る。お湯を沸かす。珈琲を淹れる。空を眺める。風が吹いている。雲が流れている。どのような時も、この空があれば「自分は大丈夫だ」と思うことができる。余計なものに惑わされる必要はない、何かをしなければいけないと肩に入れる必要もない、生きているだけでいい、それ以外はおまけなのだということを思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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