いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

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前回の記事で「自転車に乗りたい!」という拾う神様的な発言をしたら「(乗らなくなった)自転車をあげたい!」という捨てる神様的なレスポンスをいただき、東京駅付近で受け取った自転車に飛び乗ってごちゃまぜの家【これからはSCRAMBLE HOUSE TOKYOと呼ばれることもあります】まで3時間かけて戻った。最近、Apple社のコードレスイヤホン『AirPods』なるものを購買した。福岡のアップルストアでは入荷6週間待ちなどと言われたけれど、ヨドバシカメラの通販で注文をしたら翌日(!)に届いた。これがまた素晴らしすぎてココロがオドル。自転車に乗っても全力で駆け出しても落ちない安定のホールド感は言うまでもなく、ナビを発動させると直接イヤホンから道案内をしてくれるから(いまでは当たり前のことなのかもしれないけれど)都度都度画面を覗く必要がない。イヤホンに2万円近くもかけるなんて愚の骨頂だと思っていた自分こそが愚の骨頂だった。なう、横浜のみなとみらいからこの記事を更新している。AirPodsを相棒に自転車に乗れることが嬉しすぎて、どこでもいいから行ってみようということでクイーンズスクエアまで来た(菊名の家からは自転車で20分程度だった)。

 

 

突然ですが、明日26日水曜日の夜、SCRAMBLE HOUSE TOKYOでトークイベントを開催します。初回のゲスト(?)は『いばや創始者』でお馴染みの坂爪圭吾×MAYUCHAPAWONICAの男女ペアで、ここ最近の活動から「フレッシュな問いを抽出!」という感じの内容になります。スクランブルという言葉には『ひっかきまわす』という意味があるらしいのですが、おお、なんだかいい言葉だなと思ったのでスクランブルを多用する流れになりました。最近まで「一言も話てはいけないというルールで静岡から江ノ島まで100キロを超える距離を1週間かけて歩いたらどういう気持ちになるのか?」をカラダを張って実験してきたばかりのMAYUCHAPAWONICAさん。しゃべらないモードを終えたばかりのMAYUCHAPAWONICAさんは、なう、しゃべりまくりたいモードに突入をされていらっしゃるとのことなので、我々のおしゃべりにお付き合いいただける方はお気軽にご連絡ください【先着10名になります!】。

 

【イベント詳細】【満席御礼!】Scramble Speaking【坂爪圭吾×MAYUCHAPAWONICA】

 

ネオ人類は『暇とのバトル』に備えている。

最新式のテクノロジーに触れると「いよいよ来たな、未来!」的な気持ちになる。数ヶ月前、ハワイのオアフ島に足を運んだ際にお世話になった家では、3Dプリンタ【なんでも作れちゃうコピー機】が置かれていた。当時、家主の女性は3Dプリンタで大量のウクレレを作りまくっていて、我々が「半端ない量ですね!これは売るのですか?」と尋ねたところ、満面の笑みで「JUST PLAYING!【遊ぶためのものよ!】」とのお返事。ジャストプレイング!遊ぶためだけのもの!なんて素晴らしい言葉!と感動すると同時に、ああ、これからは製造業はかなりやばいんだろうなと思った。家も車も服もテントも家具もなんでも3Dプリンタで製造できる時代が来たら、いよいよ人間がやるべき仕事は減る(機械が代わりにやってくれるようになる)。その時、人間に残された最後の仕事はなんだろうか。わたしのアンサーは『遊ぶ』ということで、多分、これから人類は『壮絶な暇とのバトル』に突入する予感がする。暇な時間は自由を運ぶが、惰性も運ぶ。暇だから熱中できる『何か』を見つけるひともいれば、暇だからテレビを見過ぎたり食べ過ぎたり過去や未来にとらわれてダメになる【自由に殺されてしまう】ひとも(おそらく)大量に出てくるような気がする。 

 

【過去記事】仕事なんてしている場合じゃない、遊べ! - いばや通信

 

ネオ人類は『暇とのバトル』に備えている。そんな風に思うことがある。その点において、いわゆる社会不適合者(働かないニートや引きこもりや不登校のこどもたち)は最先端を行っているのではないだろうか、などと思う(ことがある)。誤解されると困るが、わたしはニートや引きこもりを賛美したい訳ではない。多分、ニートの中にも『いい感じのニート』もいれば『ダメなニート』もいるだろうし、霞ヶ関で働く政治家の中にも『いい感じの政治家』もいれば『ダメな政治家』もいる(のだと思う)。カテゴライズに意味はない。が、端的に、わたしのこころが「あ、このひとはいいな!」と思うひとは総じて『遊びを知っている』ような印象を受ける。言い換えるならば『自分を楽しませる方法を知っている』とでも言えばいいのだろうか、いま、この『自分を楽しませる方法』を知ることは、余暇を楽しむこと以上に『人生をまるごと楽しむため【自由に殺されないため】』にとっても大事なテーマだと思う(ことがある)。

 

【過去記事】道に迷った時は、損得勘定じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。 - いばや通信

 

この点において、MAYUCHAPAWONICA【いばやの神様】のセンスはずば抜けている。いばや設立当初から「とにかくやばいことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人達が現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる」とか「(24時間テレビを見ながら)愛は地球を救う…まずは自分を救え!」とか「宇宙の摂理として、新しいことをやろうとしているひとは死なない」などの様々な啓示を示し、我々男性陣をお導きいただいた。当時は『いばや』を合同会社としてやっていたけれど、会社を設立した最大の理由は「会社でやったほうが面白い目に遭えそうだから」というものになるから不純だ。が、2017年現在では会社を設立するということも新鮮なことではなくなんなら「お前もか!」的な陳腐感を覚えるので、これからは「社長であることよりも、無職であることのほうが面白い!【自分を流動的なものにしておこう!】」ということになって、何年か前に、我々は会社役員から『完膚なき無職』へと華麗なる転身を果たした。そんな(?)二人のトークイベント、お時間のある方は是非お気軽に遊びにいらしてください(毎度告知が直前でごめんなさい!!)。

 

【イベント詳細】【満席御礼!】Scramble Speaking【坂爪圭吾×MAYUCHAPAWONICA】

 

わたり文庫『あそびの哲学』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、別宮貞徳著作「あそびの哲学」です。実はまだ全然読んでいないのですが、表紙裏の『明日を最も必然としない者が最も晴れやかな顔で明日に向かう』というワードにやられ、これだけでも買う価値があるなと思ったので購買をしました。読み終わり次第、ご希望される方に無料でお贈りさせていただきます。テオクリトスしかり、千利休しかり、鴨長明や売茶翁や吉田兼好しかり、いつの時代にも「意味不明な生き方を貫いた結果、後世に引き継がれる文化を築き上げた」ひとはいるのだなってうれしくなります。異端であることを恐れないこと。なにをするにせよ、それが未来にとって必要なものであればあるほど【新しければ新しいほど】に、現在の常識からは「異端だ!」とつまはじきにされてしまいがちなものなのでありましょう。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

 「あそび」とは何か、「あそび」の意義、「あそび」と人生の問題を、エピキュリアンの面目躍如として説く著者は、前編で「あそびのない遊び(レジャー)」「集団に埋没した個人」「戦後日本人の忘れもの」と、現代余暇現象を批判。翻って後編『独楽的人間』では、ストイシズムとエピキュリアニズムを「乱世の哲学」と規定し、東西の風流人テオクリストと千利休の生きざまの中に「明日を最も必然としない者が最も晴れやかな顔で明日に向かう」逆説の美を説く。

 

別宮貞徳『「あそび」の哲学』【講談社学術文庫

 

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ひとの発言に注意深く耳を傾けていると、その発言が「自分の欠落感を埋めるために表現されているもの」なのか「自分のよろこびの余剰として表現されているもの」なのかがなんとなくわかる。わたしが好きなものは完全に後者で、前者のひとといると眠くなる。MAYUCHAPAWONICAさん【いばやの面々】を好きな理由も完全に後者で、いばや界隈の皆様には、うまく言葉にできないけれど「誰かに対する憎しみや溜め込まれた悲しみや過剰な承認欲求がほとんどない」ように思う。誰かに認められることよりも、自分が自分を認められること【自分が自分を更新すること】に重点は常に置かれていて、だからなのだろうか、自分自身に対する健全な自己肯定感を抱けているような印象がある。そのため、一緒にいると単純に面白いし発想も広がるし精神的な自由を覚える。MAYUCHAPAWONICAさんは「誰かに言えることはなにもないな。自分を生きることがなによりも雄弁だな」と言う。まさにその通りなのだなと思う。

 


わたしは「健やかであること」がものすごい大事なことだと思う。人間、生きていればそりゃあ誰だって闇のような部分を持つことはあるだろう。が、あまりにも闇を深掘りし過ぎると(小生のようなナイーブな人間は)闇に呑まれてそのまま帰ってこれなくなってしまう。もちろん、悲しみが悲しみを中和するように、闇が闇を中和することもあるのかもしれない。しかし、わたしは今後とも『圧倒的な光【圧倒的肯定力】』を叩き出していきたいと思う。新聞やテレビを見ると、これでもかというほどに不幸がシェアをされている。各種SNSでも使われ方は様々で、愚痴や悪口や批判をシェアするひともいる。が、わたしは「最高をシェアしたい」と思う。自分の中にある(かもしれない)闇の部分を克明に描くことで生まれるシンパシーよりも、闇を照らす光、闇を切り裂いた光、闇の中でも消えることのない光、あほくさい言葉で言えば「人生とは、なんでもありのプレイランドなのだ」ということを何度でも思い出すことのできるような、そういう光【幸福感】を表現することができたらうれしいと思う。

 

 

多分、わたしは「でしょ!」と言いたいのだ。自分以外の誰かにとってはゴミ【無価値】だと思われるようなことであっても、自分のこころが「いいな」と思えるものを探し続ける【自分のセンスを更新し続ける】。そして、何かを見つけるたびに「こんなものがあったよ!」的な報告をする。それを見た誰かが「これはいいね!」と言ってくれたのでありますならば、待ってましたとばかりに「でしょ!いいでしょ!」と言えるあの瞬間。わたしは、あの瞬間を愛している。自分の感覚を卑下することはない。誰かのよろこびの基準に自分を合わせることもない。なによりもまず、自分のこころが真っ直ぐに楽しめるものを見つけること【最高を見つけること】。そして、その楽しさを分かち合えるひとを見つけること【最高をシェアすること】。生きていることの醍醐味は、なによりもまず、自分を楽しませること【JUST PLAYING】の中に詰まっているのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BW3M3-xjBX_/

あたひ。。。(熱海の朝日)

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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