いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

わたしの教育方針「10歳成人説」

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熱海の朝日が綺麗でした。風邪をひいたことで風邪をひいているひとの気持ちにいますごい寄り添えるところまで来ております。野口整体の世界では、風邪をひいたら「おめでとう!」と言われるのだそうで、風邪をひかないボディは健康体になりますが、風邪を『ひけない』ボディは病気と同じようなものらしいです。その為、風邪をひいた時はクスリなどで症状を『抑える【風邪を止める】』ことよりも、発熱なり下痢なり鼻水なりを通じて『出し尽くす【風邪を通過させる】』ことがボディに良いらしいです。合言葉は「風邪を楽しむ心の余裕を!」ということで、いま、朦朧とした意識の中でこのブログ記事を更新しています。

 

病気の根源は「体の冷え」と「血液の汚れ」らしいのですが、最高傑作の対処法は『断食(食べ過ぎこそ万病のもと)』なのだそうです。体調を崩してしまった時は、つい、何を食べると良いのかという方向に思考が向かいがちになりますが、逆に『何も食べないほうがカラダに良い』というアンサーはとっても貧乏人フレンドリーだなあと助かっております。手に入れることよりも「手を離すこと」の方が健康【自由】になる、ということは宇宙の真理のひとつなのではないだろうか、そういえば自分も家や金や仕事がなくなってからの方が逆に自由度が向上しているなあ、などとは思っておりますがやっぱり風邪はしんどいです。

 

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大根をすりおろしま図。

  

わたしの教育方針「10歳成人説」 

突然ではありますが、わたしの教育方針を書き綴ります。わたしはまだ結婚をしていないのでこどももいないのですが、仮に、わたしのような社会的弱者(金も定職もない人間)が愉快な子育てをするには、果たしてどのような思想のもとに行えばいいのでしょうか。過去に、わたしは勝手に脳内シミュレーションを繰り返した果てに「これなら自分でもいけそうだ!」と思ったオリジナルの子育て論を発見いたしましたので、誰かの参考にもなればうれしい(まるで参考にならないような気もする)と思いながら書き綴ります。

 

結論から申しますと、わたしの教育方針は「10歳はもう立派な大人だから、10歳で成人ということにする。あとはもう『あなたの好きなように生きてくだ祭(さい)』と野に放つ」というものになります。坂爪圭吾のこどもとして生まれたことが運の尽きとでも申しましょうか、普通だったら学習塾や習い事に通うとか大学に進学するなどの『世間的なレール』があるとは思うのですが、今世は潔く諦めていただく。学校は行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなくてもいい。経済的な支えになれるかどうかは謎の父親になりますが、代わりに、人間環境的な支え(?)なら与えることができる。学校が嫌なら新潟県佐渡島に流刑をして、勉強を覚える代わりに魚の三枚おろしやわかめやこんぶや畑や田んぼなどの収穫作業を覚えていただく。あるいは、知人がやっている飲食店に送り込み、最高の料理や珈琲の淹れ方を覚えると同時に「様々な大人に触れる」体験を通じて広い世界を知っていただく、など。

 

こうして文字にすると「とんでもない父親だな!」的なことにもなりかねないのですが、小生、最高の教育方法は「楽しそうに行きている父親・母親の後ろ姿を見せること」だと思っておりますので、それさえカバーできていればいろいろダメでも最終的には「あの父親・母親に育てられてよかったな」的なポジションに着地をしてくれるのがこどもなのではいだろうか、などとと睨んでおります。正直に言いますと、テストで100点を取ったこどもを心の底から「お前、すごいな!」と褒めることができない(このまま優等生のレールを歩き続けてしまうことにある種の危機感を覚えたりもする)小生ではありますが、単純に、自分で釣った魚を三枚におろして刺身にしてくれたり、自然農法で育てた野菜を大量に持ち帰ってきてくれたり、大工の見習い体験を経てボロい自宅を修繕してくれたりなんだりしてくれた暁には、心の底から「お前、すごいな!」と賞賛できるような気がします。

 

親子関係の不幸の9割は「過干渉」

様々な方々と出逢う日々に恵まれる中で、小生、親子関係の不幸の9割は「過干渉(余計なお世話)」なんじゃないだろうかと思うようになりました。極論、守るから弱くなるのがこどもだと思います。ここで、あえて「攻めの姿勢」を採用してみるのはいかがなものだろうかと思いまして、これは決してこどを見捨てるとか見放すとか見限るということではない、こどもが生まれ持っている「生命力のようなもの」を信頼する(野生に放つ)ことを通じて強く逞しく成長をしていただく。怪我をすることもあるかもしれない、時には死にかけることもあるかもしれない、しかし、そういう諸々を全部ひっくるめての人生なのだということで、ある程度の年齢になりましたら「あとはもうあなたの好きにしてくだ祭(さい)」ということで、制限をかけない状態でほったらかしにする。

 

それに適した年齢が10歳なのではないだろうか、などと睨んでおります。自分の話になりますが、私は、14歳の頃には「俺もいよいよ親を超えたな」などと静かな確信に包まれていました。あとになって全然そんなことはなかったのだと気が付くのですが、大概、10歳を超えたあたりで親がうざくなる(親を下に見始める)のがこどもだと思います。これはチャンス!ということで、親を見下しはじめる頃を見計らって親元を離れていただく。別に一緒に暮らし続けてもいいのですが、精神的には自立をしていただく。お前はもう立派にひとりで生きていけるのだから、あとはお前の好きにしな祭(さい)ということで、今後の人生を全委ねをする。

 

【過去記事】今世は諦めてください。 - いばや通信

 

10歳成人説の要として、10歳になると同時に「ひとつの儀式を通過していただく」ことが非常に効果的だと睨んでいます。日本の離島でも、昔から「10歳になったらキャンプ道具一式を担いで無一文で家を出て、島民のみなさまにお世話になりながら二泊三日くらいで島を歩いて一周する」みたいな習慣があったらしく、これらの儀式を通過すると、こどもたちの顔はそれはそれは見間違えるように精悍になるのだと聞きました。私も、およそ二年間の「家のない生活」を通じてかなり広い世界の見方や自身の在り方を学べたような気がしておりますので、何かしらの儀式を用意することは、こどもがおとなになる過程として非常にふさわしいのではないだろうかと睨んでおります。 

 

子育てより「子育つ」

長々と能書きを垂れてまいりましたが、極論、こどもは育てるものではなく「勝手に育つ」ものだと思います。親が意図して教えようとしたことを学ぶこともあれば、親が意図していないことを勝手に学び取るのがこどもでもあるような気がしておりまして、事実、自分自身がそうでした。親は「学校に行け!大学に行け!あれをやれ!これをやれ!」と叫びますが、私は「嫌だ!やれと言われると嫌だ!でも、やるなと言われるとやりたくなることはあります」と強めの抵抗をしておりました。親曰く、私の反抗期は18年間続いたらしいのですが、振り返って見ると「あの反抗期があってこそのいまなのだなあ」と強く思います。

 

私と親と、事あるごとにいちいちぶつかっていたからこそ、親も親で「こいつは何を言っても無駄だ。自分のやりたいと思うことしかやらないらしい。それならば、あとはもう元気で生きてくれたらそれでいい」というところに着地をしました。そうなると、私も私で、何も反抗するものがなくなってしまったために「お、おう。それならば、私も元気に生きてまいります」ということで、かれこれ親とは非常に仲良くなりました。これらの体験を通じまして、もしかすると、実は親もこどもも相手に対して思っている気持ちは同じなのではないだろうかなどと思うようになりました。

 

それは「不完全でも構わないから、楽しそうに生きていてほしい」という思いです。完璧であろうとすることよりも、自分なりの不完全さを抱えながら、それでも楽しそうに生きている姿を見せること。それが最大の親孝行であり、最大の子育て【真の教育】になるのではないだろうかなどと思います。ひとと同じではないかもしれない、見るひとから見たら「こんな親子関係はいびつだ!由々しき事態だ!大問題だ!」と批判をされてしまうかもしれない。でも、なんというか、まあ、仕方がないじゃないか。おそらく、この世の中のなんだってそうだと思うのですが、自分ひとりで背負い込んでしまうからしんどくなるのだと思います。なんのための他人なのか、なんのための社会なのか、それは「自分に足りない部分を補ってくれるからこそ」であり、何もかもを自分ひとりの力でどうにかしようとするのではなく、社会全体でバランスを取り合っていく、そのための『10歳成人説【子育てを早めに放棄することで逆にこどもの成長を促す説】』を勝手に脳内で描いておるのですが、さて、ご覧のみなさまにはどのように響いたでしょうか。

 

 

続きはリアルで!(早めに風邪を治します!) 

 

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人生は続く。

 

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