いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない。

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新潟から東京まで片道1800円の高速バスに乗り、朝の5時過ぎに新宿に着いた。今夜は国立市で開催されるイベントに登壇するため、いま、徒歩で移動をしている。新宿から国立まではおよそ25キロ、グーグルマップで調べると所要時間はおよそ5時間程度らしい。歩き続けたフィナーレを、銭湯で迎えたら最高だろうなと思っている。

現在は、初台のデニーズにいる。この界隈は昔住んでいたこともあり、懐かしさがこみ上げている。振り返って見ると、18歳の頃にひとり暮らしをはじめてから「南大沢→京王稲田堤→芝公園→代々木→東新宿→目白→早稲田→神楽坂→目黒→本郷三丁目上板橋高田馬場→代々木八幡→ホームをレスする→熱海」と、過去に14回ほど引越しをしていることに気がついた。移動を繰り返すのは、多分、どうしようもない性分なのだと思う。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。


上記の言葉は、自分自身を支える標語のようなものになっている。現在は31歳になり、昔より、少しだけ自分のことがわかってきた。金を稼ぐのが苦手だということ、ひとりの時間がなければ頭がおかしくなるということ、文章を書くということでどうにか精神の安定を保っているということ、根本的に愚かだということ等。時折、私は「金で支払うことができないものを、体で支払っている」という感覚を覚えることがある。

2・自分が「これだ!」と思った生き方を貫くこと。


何者でもない私は、何者でもないが故に「他人に同情を求めてしまう」ことがある。自分の生き方にまだ名前が与えられていない時、世間一般的な職業にあてはまるものが見つからない時、どうしたってある種の孤独を感じることがある。そういう時に、私は上記の「ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること」という言葉を思い出す。自分の生き方にまだ名前はなくても、自分が「これだ!」と思った生き方を貫くこと。いまの自分にあるのは、それ位しかないのだということを思う。

3・「あなたに会うため」に生きている。


今月のテーマは「歩きながら、考えよう」でもあるために、自己ベストを更新する距離を歩いてみたいと思っている。道中、誰かから「なぜ歩くのですか?」的なことを問われたら「あなたに会うためです」とドヤ顔を決めて、一緒に話しながら歩くなんてことができたら素敵だなあなどと思っている。今夜のイベントに登壇するのも、多分、同じ理由からだ。なぜイベントに出るのか、それは、言いたいことがあるからというよりも「(それをしなければ出会うことのなかった)あなたに会うため」なのだと思っている。

4・人生とはボーナスタイムである。


クリシュナムルティは「恐怖はそれがいかなるかたちのものであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」と言う。恐怖ベースの生き方では、自分の持ち味を最大限に発揮することは難しい。私自身も、容易に不安や恐怖に包まれて「生きるのが怖い!生きるのが怖い!」となりがちな人間なので、率先して自分を壊しにかかる必要がある。一度は死にかけた人生である。いま生きているのは『ボーナスタイム』みたいなものだと思えば、多分、意外とどうにかなるような気がする。


5・よし、失敗してやろう。傷ついてやろう。


現在も反抗期が続いている31歳の私は、根本的に「みんなと逆のことをやればOK!」と思っている節がある。認められることをやるのではなく「認められなくてもやる」ことの中に、才能があるからやるのではなく「才能はなくてもやる」ことの中に、成功するためではなく「失敗するためにやる」ことの中に、そういう人間の後ろ姿に、どうしようもない魅力を覚えることがある。彼らの姿には、人間には『愚行権』があるのだということを思い出させてくれる力がある。賢者と同じ程度に、私は、愚者が好きだ。

6・無邪気なわがままは最高の美徳。


上記のツイートが結構なスピードで拡散された現象を通じて「ああ、現代日本は我慢をしながら生きているひとが大量にいるんだなあ、自分だけではないのだなあ!」と、勝手に嬉しさを覚えていた。我儘という言葉を使ったけれど、ここには注意点がひとつだけあるような気がする。それは「こどものように無邪気であること」だと思う。邪気のある我儘は、うまく言葉にできないけれど、最低だと思う。

7・自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけない。


おかしいと思うものに対しては「おかしい!」と叫ぶ力をなくしてしまうと、自分の頭がおかしくなってしまう。社会不適合者という言葉もあるけれど、年間三万人の自殺者がいて、100万人を超える鬱病患者がいるとされている現代社会に適応してしまったら、おかしくならない方がおかしいと思う。必要なことは「適応」よりも「開墾」で、多分、ひとりひとりが抱える違和感の中に未来を拓くヒントはあるのだと思う。

8・自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない。


私が生まれてはじめて買ったCDは及川光博さんの「嘘とロマン」で、昨日、YOUTUBE及川光博さんのLIVE動画を見ていたらキャプションの部分に『さあおいで!イエス!レッツ自己解放♪』と書いてあり、私は「なんていい言葉なんだ!」と打ち震えた。私が、家のない生活を通じて獲得した真理のひとつは「自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない」というものであり、緊張や恐怖や不安は、自分を閉じがちなものにしてしまう。この動画を見ていると「踊りって素晴らしいなあ!」というよろこびが充満する。私も、熱海のプアリーダーとして踊りを日常に取り入れていきたいと思った。


9・中途半端な未練を断ち切ること。


落ち着けば、大概の問題はどうにかなる。

『君あり、故に我あり』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サティシュクマール著作『君あり、故に我あり』です。こちらの本は今年度の私的バイブルでもあり、是非、ひとりでも多くの皆様に手に取っていただけたら嬉しい(そして書かれている内容について語り合いたいと思える)一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、高知県にわたりました ※※※

もし我々の社会が、尊厳を保ち後ろ向きの考えを持たない、ある程度心の平和を達成している人々で溢れていれば、当然、人々はどんな『敵』も恐れないだろう。しかし、我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について我々に語りかける。それが彼らの利益にかなうのだ。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる。軍備に世界の資源の多くを費やす指導者を我々が持っているのは、不思議なことではないのだよ。精神的平和と政治的平和、内面の平和と世界の平和の関係を理解するのは容易ではないかもしれないが、これらの二つの側面は不可分であり、完全につながっている。ー サティシュクマール『君あり、故に我あり』【講談社学術文庫


10・弱いからこそ、足りない部分があるからこそ、誰かとつながることができる。



自分には何もないと感じる時期はつらいが、何もないからこそ染み渡ってくるものもある。疲労感を覚えた時に、好きな歌を口ずさむだけでも、好きな道を歩くだけでも、好きな人のことを思うだけでも、元気が湧き出してくることがある。そして、その時に「自分には何もないということはないのだ」ということを思う。歌も、自然も、好きなひとの存在も、心の中にある大切なものたちは誰にも奪うことはできないのだ。


貧しさとは何だろうか。金がないことが貧しさなのだろうか。誰もが持っているものを、自分だけは持っていない状態が貧しさなのだろうか。多分、貧しさとは「どれだけ多くのものを持っていたとしても、まだ足りない、まだ足りないと思ってしまう心理的な状態」のことだと思う。逆に言えば、豊かさとは「足りないものは何もない」と思えている心の状態であり、昔の人は、この状態を「足を知る」と呼んだのだと思う。


自分に足りないものを数え上げればキリがない。しかし、自分にあるものを数え上げれば、どれだけ自分が恵まれた環境にいるのかを実感することができる。何もかもなくしたつもりでいても、自分には歩き出すための両足があり、目や耳や鼻や口があって、好きな音楽があり、好きな自然があり、好きだと思えるひとたちがいる。完璧な人間はいないし、完璧な人間になる必要もない。弱いからこそ、足りない部分があるからこそ、誰かとつながることができるのだと思う。


人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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