いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きる。

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阪急梅田駅前にあるサンマルクカフェにいる。岡山と大阪のライブ出演を終えた。音源は聞くに耐えないけど、ライブだといいですね!もっと歌った方がいいですよ!という声をたくさんいただいた。嬉しかった。明日以降特段予定はない。ライブに出たい。場数を踏みたい。誰か「それならイベントを企画しますよ!」とおっしゃってくださる方がいたら、ご連絡をいただけるとうれしいです。規模は問いません。明後日以降は関東圏にいる予定で、来週末は長野県や山梨県界隈にいます。

 

 

おおまかなスケジュール

4月15日 俺なりの朝活【大阪】
4月16日 鬼の引越し作業@ごちゃまぜの家【横浜】

4月17日~18日 FREE!【関東】

4月19日 放置していた原チャの回収【長野県大町市
4月19日以降、原チャで関東に向かう(イベント求む!)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

お客さん。

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最近、出会うひとに聞く質問がある。歌を歌うことと、絵を描くこと。あなたはどちらが好きですか???わたしの場合、完全に、歌だ。絵は、今世においては、見ているだけでいい。だから、美術館などにいっても、受け身で楽しむことができる。お客さんになれるのだ。しかし、音楽の場合、途端に話が変わる。どれだけ素晴らしい演奏を見たとしても、心の何処かで「ちっ」とか「けっ」とか、悔しさを感じている。反発心を覚えるのだ。ステージの上にいる演者を見ながら、なぜ、俺はステージの下にいるのだろうか、と、感じてしまう。お客さんになれないのだ。

 

歌を歌うこと。これは、目に見えないこと。絵を描くこと。これは、目に見えること。私の場合、どうやら、目に見えないことに、興味があるらしい。家を作りたい。そう思うことがある。自分で最初から最後まで建てた家に暮らせたら、愛着もひとしおだろう。だから、家を、作りたい。家を作りたいとは思うのだけれど、実際にやろうとすると、途端に「やっぱりいいや」となる。自分でやるよりも、誰かに作ってもらった方が楽だ。料理も同じだ。料理も好きなのだが、誰かが作ってくれるのならば「自分はそれを受け取っているだけでいい」と思う。しかし、これが、目に見えないものになると、話が変わる。誰かがつくった音楽だけでは、満足、できないのだ。だから、わたしは、悶々とする。ステージの上で演奏するひとびとを見ると「ちょっと変われ。歌うのは、俺だ」みたいなことを感じてしまう。

 

お客さんになれないことをやりなさい。そんな言葉を聞いたことがある。わたしの場合、絵や、写真は、お客さんになれる。これは好き。これは興味ない。そんな感じで、ただ、受け身で楽しむことができる。しかし、音楽は、違う。いちいち悔しくなるし、いちいち嫉妬をするし、いちいち反発心を覚えてしまう。わたしは、ここに、そのひとの本質があると思う。お客さんになれないことをやりなさい。自分が『嫉妬』を覚えるものをやりなさい。自分が『悔しさ』を覚えることをやりなさい。多分、その先に、隠された欲望の埋蔵金が、眠っている。わたしは、自分にも、他人にも、興味がある。だから、余談的な感じで「絵を描くことと、歌を歌うこと、どっちが好き?」みたいなことを尋ねる。そこから広がる会話がある。そのひとの『悔しさ』に触れると、うれしくなる。ああ、生きているなあ、と、思う。

 

note.mu

 

snows

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「過去の音楽を振り返る」ことをやりたい。初回は『snows』。大阪で演奏した。最初、この曲は思い入れのある曲だから、もっと練習して上手になってからお披露目しようと思い、やめかけた。こういうところが、自分には、ある。一般受けしそうな曲を選び、自信がないものは控える。しかし、そこを突破したいから音楽をやっているのだろうと一念発起し、この曲をやった。snowとは、本来、複数形になり得ない名詞だ。それを複数形にした。人間も同じだと思う。ひとりひとりは別個の存在で、完全な意味でわかり合うことは難しいことだと思う。それでもなお、誰もが「ひとつになりたい」という思いを、奥底に抱いているのではないだろうか。

 

note.mu

 

生きる。

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移動中は水滸伝北方謙三)を読んでいる。なぜ、自分はこんなにも水滸伝が好きなのだろうかと考えたら「みんな、死んでしまうからだ」と思った。登場人物たちは、生き方の格好よさもさることながら、死に方の格好よさも半端ない。わたしは、花が好きだ。ロウソクが好きだ。海に沈む夕日が好きだ。夕日を見ていると「終わっちまう」と感じる切なさに襲われる。すべての美しいものは悲しみを内包している。そういうことを思う。自分が嫉妬を覚える対象も、嫉妬を覚えている自分自身も、やがて、最後には土に還る。そこに例外はない。数日前までイタリアにいた。ヴェネツィアからミラノに向かう車両の中で、ふと、こんなことを思った。

 

楽器を取り上げられても、私は、歌うことをやめないだろう

牢獄にぶち込まれても、私は、歌うことをやめないだろう

口を塞がれても、私は、歌うことをやめないだろう

指先を粉々に砕かれても

両耳を引きちぎられても

眼球をえぐり取られても

喉もとを切り裂かれても

私は、歌うことをやめないだろう

人間から、歌を、奪うことはできない

歌うことを、止めることはできない

生きることを、止めることはできない

 

わたしの一部は「晴耕雨読」の生活に憧れている。自然の暮らしは、命に囲まれている。土の命。風の命。鳥の命。草の命。昼の命。夜の命。周囲に散らばる命を実感しながら、日々を生きることができる。都会の暮らしは、便利だが、命に囲まれている実感は薄い。やがて、最後は、土に還る。行き着く先はみんな同じだ。このことを思うと、わたしは、安心感を覚える。誰もが、みんな、最後には土に還る。そこに、命に対する『仲間感』を覚えるのだ。土に還ることを思うとき、自分という存在は「1」であり、同時に「0」でもあり、あらゆるものにもなりえるという意味で「♾」であることを感じる。『1=0=♾』という、不思議な等式が成り立つ。自分は自分であり、自分はなにものでもなく、自分はあらゆるものである。死ぬことを思うことは、自分にとって、非常に健全な行為だと感じる。別に、死にたい訳ではない。では、なぜ、わたしは毎日死ぬことを考えるのだろうか。それは「自然を感じたい」からだと思う。都会に残る最後の自然。それが『人間』だ。自然を感じたくて、命を感じたくて、わたしは、死ぬことを考えるのかもしれない。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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