生きる。
阪急梅田駅前にあるサンマルクカフェにいる。岡山と大阪のライブ出演を終えた。音源は聞くに耐えないけど、ライブだといいですね!もっと歌った方がいいですよ!という声をたくさんいただいた。嬉しかった。明日以降特段予定はない。ライブに出たい。場数を踏みたい。誰か「それならイベントを企画しますよ!」とおっしゃってくださる方がいたら、ご連絡をいただけるとうれしいです。規模は問いません。明後日以降は関東圏にいる予定で、来週末は長野県や山梨県界隈にいます。
生きるために一番大切なもの、それは『安心感』だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年4月9日
失敗しても良いという安心感、自分は護られているのだという安心感、ダメな時は元気が出るまでゆっくりしていればいいのだと思える安心感があれば、多分、人間は何度でもやり直せる。
鎖国から開国。 - いばや通信 https://t.co/JLFJRXSya9
おおまかなスケジュール
4月15日 俺なりの朝活【大阪】
4月16日 鬼の引越し作業@ごちゃまぜの家【横浜】4月17日~18日 FREE!【関東】
4月19日 放置していた原チャの回収【長野県大町市】
4月19日以降、原チャで関東に向かう(イベント求む!)
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
お客さん。
最近、出会うひとに聞く質問がある。歌を歌うことと、絵を描くこと。あなたはどちらが好きですか???わたしの場合、完全に、歌だ。絵は、今世においては、見ているだけでいい。だから、美術館などにいっても、受け身で楽しむことができる。お客さんになれるのだ。しかし、音楽の場合、途端に話が変わる。どれだけ素晴らしい演奏を見たとしても、心の何処かで「ちっ」とか「けっ」とか、悔しさを感じている。反発心を覚えるのだ。ステージの上にいる演者を見ながら、なぜ、俺はステージの下にいるのだろうか、と、感じてしまう。お客さんになれないのだ。
歌を歌うこと。これは、目に見えないこと。絵を描くこと。これは、目に見えること。私の場合、どうやら、目に見えないことに、興味があるらしい。家を作りたい。そう思うことがある。自分で最初から最後まで建てた家に暮らせたら、愛着もひとしおだろう。だから、家を、作りたい。家を作りたいとは思うのだけれど、実際にやろうとすると、途端に「やっぱりいいや」となる。自分でやるよりも、誰かに作ってもらった方が楽だ。料理も同じだ。料理も好きなのだが、誰かが作ってくれるのならば「自分はそれを受け取っているだけでいい」と思う。しかし、これが、目に見えないものになると、話が変わる。誰かがつくった音楽だけでは、満足、できないのだ。だから、わたしは、悶々とする。ステージの上で演奏するひとびとを見ると「ちょっと変われ。歌うのは、俺だ」みたいなことを感じてしまう。
お客さんになれないことをやりなさい。そんな言葉を聞いたことがある。わたしの場合、絵や、写真は、お客さんになれる。これは好き。これは興味ない。そんな感じで、ただ、受け身で楽しむことができる。しかし、音楽は、違う。いちいち悔しくなるし、いちいち嫉妬をするし、いちいち反発心を覚えてしまう。わたしは、ここに、そのひとの本質があると思う。お客さんになれないことをやりなさい。自分が『嫉妬』を覚えるものをやりなさい。自分が『悔しさ』を覚えることをやりなさい。多分、その先に、隠された欲望の埋蔵金が、眠っている。わたしは、自分にも、他人にも、興味がある。だから、余談的な感じで「絵を描くことと、歌を歌うこと、どっちが好き?」みたいなことを尋ねる。そこから広がる会話がある。そのひとの『悔しさ』に触れると、うれしくなる。ああ、生きているなあ、と、思う。
snows
「過去の音楽を振り返る」ことをやりたい。初回は『snows』。大阪で演奏した。最初、この曲は思い入れのある曲だから、もっと練習して上手になってからお披露目しようと思い、やめかけた。こういうところが、自分には、ある。一般受けしそうな曲を選び、自信がないものは控える。しかし、そこを突破したいから音楽をやっているのだろうと一念発起し、この曲をやった。snowとは、本来、複数形になり得ない名詞だ。それを複数形にした。人間も同じだと思う。ひとりひとりは別個の存在で、完全な意味でわかり合うことは難しいことだと思う。それでもなお、誰もが「ひとつになりたい」という思いを、奥底に抱いているのではないだろうか。
生きる。
移動中は水滸伝(北方謙三)を読んでいる。なぜ、自分はこんなにも水滸伝が好きなのだろうかと考えたら「みんな、死んでしまうからだ」と思った。登場人物たちは、生き方の格好よさもさることながら、死に方の格好よさも半端ない。わたしは、花が好きだ。ロウソクが好きだ。海に沈む夕日が好きだ。夕日を見ていると「終わっちまう」と感じる切なさに襲われる。すべての美しいものは悲しみを内包している。そういうことを思う。自分が嫉妬を覚える対象も、嫉妬を覚えている自分自身も、やがて、最後には土に還る。そこに例外はない。数日前までイタリアにいた。ヴェネツィアからミラノに向かう車両の中で、ふと、こんなことを思った。
楽器を取り上げられても、私は、歌うことをやめないだろう
牢獄にぶち込まれても、私は、歌うことをやめないだろう
口を塞がれても、私は、歌うことをやめないだろう
指先を粉々に砕かれても
両耳を引きちぎられても
眼球をえぐり取られても
喉もとを切り裂かれても
私は、歌うことをやめないだろう
人間から、歌を、奪うことはできない
歌うことを、止めることはできない
生きることを、止めることはできない
わたしの一部は「晴耕雨読」の生活に憧れている。自然の暮らしは、命に囲まれている。土の命。風の命。鳥の命。草の命。昼の命。夜の命。周囲に散らばる命を実感しながら、日々を生きることができる。都会の暮らしは、便利だが、命に囲まれている実感は薄い。やがて、最後は、土に還る。行き着く先はみんな同じだ。このことを思うと、わたしは、安心感を覚える。誰もが、みんな、最後には土に還る。そこに、命に対する『仲間感』を覚えるのだ。土に還ることを思うとき、自分という存在は「1」であり、同時に「0」でもあり、あらゆるものにもなりえるという意味で「♾」であることを感じる。『1=0=♾』という、不思議な等式が成り立つ。自分は自分であり、自分はなにものでもなく、自分はあらゆるものである。死ぬことを思うことは、自分にとって、非常に健全な行為だと感じる。別に、死にたい訳ではない。では、なぜ、わたしは毎日死ぬことを考えるのだろうか。それは「自然を感じたい」からだと思う。都会に残る最後の自然。それが『人間』だ。自然を感じたくて、命を感じたくて、わたしは、死ぬことを考えるのかもしれない。
何もしていない自分には価値がないと感じる時、生きているだけではいいと思えなくなる。生きているだけではダメということになり、生きていることそのものが負い目になる。しかし、私達が自然を美しいと思う時、それは「そのままの姿でそこに在る」からだ。自然を愛するように、自分を愛したいと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年6月14日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu