怒られないように考えるのではなく、怒られてから考えよう。 - 突破力を磨く3つの掟 -
スナックのママでさえ、これだけ振り切っているのだ。私も見習わなければいけない。
私の故郷は新潟で、「新潟を盛り上げたい!」という思いで活動をしている人達が無数にいる。先日もそうした方から「会って話をしたい」という連絡をいただき、僅かばかりの時間だが話をしてきた。そして、やはり拭いきれない違和感を感じたのでここに記します。
率直に言って、いくら「新潟を元気に!」って大きな声で叫んでも、新潟以外の人から見たらまじでどうでもいい話だと思う。楽しいカオスが同時多発的に新潟から生まれれば、新潟は絶対に面白くなるし、新潟以外の人からも面白がってもらえる。これは超大事だと思います。
多分どこの地方もそうだと思うんだけど、「物産展を東京でやりましょう!」とか「ゆるキャラをつくりましょう!」とか「東京にあるものを地元に持ち込みましょう!」みたいな考え方って、まじで前時代的でものすごい古くてベタでつまらない発想だなあって感じています。
市役所で働いている人の話も聞いたのですが、基本的に漂っている「万策尽きた感」は果てしなく、組織全体が疲れ切っていて、そこから新しいムーブメントが生まれてくるであろう気風は微塵も感じることができない。この「万策尽きた感」こそに元凶があると私は思っていて、「万策尽きた」というのは「とりあえず参考になるであろう事例はすべて試した」ということであり、要するに「すべてのコピーは終わった。それで結局ダメでした」ということなのだろう。
ここに元凶がある。要するに、他人のコピーばかりやっていてもどうしようもないのだ。
言うまでもなく、今はあらゆる産業が飽和状態にあって、例えば美容室がひとつ潰れたからといって、ぶっちゃけほとんどの人にとってはどうでもいい話だ。他の美容院に行けば済む話であり、残酷だけれど「美容院がひとつ潰れようが、自分たちにとっては別にどうでもいい話」なのだ。これは他の会社やサービスにも言えることで、「別に潰れても困らない」サービスや会社や個人が無数に存在している。何が言いたいのかというと、「そこでしか味わうことのできない価値(楽しさや興奮や利便性や快楽)」を生み出せない限り、別に潰れても誰も困らないのだ。希望を感じられない環境の中で生きる苦しみは地獄だ。
その地方やその会社やその個人にしかない色を出さないと、生き残ることはできない。
横並びでみんなと同じようなことをやっていて、そこにしかない価値が生み出せるわけがない。新しい価値とは「まだ誰もやったことのないもの」であり、基本的に前例がない。前例がないからこそ新しい価値が生まれるのであって、何がうまくいくかどうかなんてやってみなければわからない。それなのに失敗を恐れて「成功した事例」のコピーをすることしかできていない。
これは、生き方として非常にダサいと思う。
当たり前だが、千葉県を盛り上げたくてディズニーランドにいく人はいない。ディズニーランドが千葉県にしかないから千葉県に行くわけであって、結果として千葉県の周辺が潤う。同じように、そこでしか味わうことができない価値があれば人は勝手に集まるし、周辺地域も会社も個人も勝手に潤う。いくら「どこそこを元気に!」と大きな声で叫んだところで、そこに何も面白いものがなければ人が集まるわけがない。そこにしかない価値を生まなければ、誰も見向きはしない。ディズニーランドばりの突破力があれば人は勝手に集まるし、突破力がなければあらゆる人から無視されて終わる。
これはすべての産業に言えることだと思う。こうした現状を突破する3つの力が必要だ。
①新しい価値を生むためには、前例のないことをやらないといけない。そういうことをやると必ずヒステリックな人たちが怒る。そういう人たちに怒られないように考えるのではなく、怒られてから考える。基本的にいつの時代もヒステリックな人たちはいるが、とりあえず無視する。
②「そんなのは無茶だ!」と言われることにこそ価値がある。逆に言えば、大人に誉められるようなことをしていても多くの場合何も変わらない。優等生的な態度をやめること。優等生なんて、今の時代にとって都合のいいだけの存在でしかない。時代が大きく変わる時、自分の中の優等生的な部分は激しく邪魔になる。優等生である自分を殺し、自分の本質を出す。
③損得勘定で考えないこと。有利か不利かで考えないこと。合理性は時に人間性の喪失や心の硬直化を招く。そんな状態でクリエイティブなアイデアが出せる訳がない。そもそもでそんな人間は嫌いだ。やりたいかやりたくないかで考えること。自分がやりたいと心から強く思う何かを行動に移すことさえできれば、そこには必ずある種の磁場は発生し、あらゆる不定期な奇跡やヘルプを招き寄せて行く。
要約すると、突破力を磨く3つの掟はこのようになる。
①怒られないように考えるのではなく、怒られてから考えよう。
②優等生的な態度を改めること。良い子のマニュアルは破り捨てること。
③損得勘定で考えない。やりたいかやりたくないかで考える。
ただし、保険に入らなければ安心できないような男には、このような生き方をすることはできない。そんなものがあるのかないのかは謎だが、豊かな年金生活を送る中で孫を抱いていたいと思うなら、こんな生き方はするべきではない。自分が思う生き方を誰かに強制するつもりはないし、ただ、私はこう思うということを叫んでいるだけに過ぎない。
堅苦しい文章になってしまった。結局、どうあがいたって最後には人は必ず死ぬのだ。死ぬ間際になって、「俺はいったい何をやってきたのだろう」だなんて思って死ぬのはごめんだ。どうせやるなら、何か新しい価値を残してみせたいと思っている。自分の周りからやばいものが生まれ、それを面白がってくれるやばい人達が集まり、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる。自分と感性を同じくした人たちとどれだけ出会い、どれだけ遊ぶことができるのかが人生の豊かさを決めると思っている。
本当はなんでもありの人生の中で、自分の生き方を限定づけるような真似だけはしたくない。せっかく持って生まれた人間の想像力や生命力を、どこまでも使い果たして死にたいと思っている。時にはヒステリックな人たちに怒られることもあるけれど、そんなものは無視だ。そして困った時には「忍法!開き直りの術」を使えばOKだ。
誰かに何かを怒られたとしても、別に謝れば済む話であり、最終的には「ドロンするでやんす」でOKだ。結論。怒られないように考えるのではなく、怒られてから考えよう!!
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya
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