いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

すべてを知れば、すべてを許せる。

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菊名駅前のドトールにいる。5月4日に三重県志摩市で、5月5日に愛知県名古屋市でイベントに出る。わたしに人望がないために、来場予定者数はかんばしいの真逆にある。告知や宣伝があまり得意ではなく「誰も来なければ来ないで味わいがある」など、すぐに考えてしまう。が、それでは主催者の方々に申し訳ないと思う良識もある。三重界隈の方、愛知界隈の方、是非、連休の合間を縫って遊びに来てください。伊勢志摩では、教科書的なものを一緒に燃やして、背徳感を味わいましょう。

 

 

おおまかなスケジュール

4月28日 15時 定期期演奏会@わたり食堂【0円食堂】
4月30日 いばや野球部@芝公園野球場(参加者募集中!)
5月1日~5月3日 軽自動車にテントを積んで、西方浄GO!
5月4日 15時 EVENT@三重県志摩市「around.HANA」(参加者募集中!) 
5月5日 19時 EVENT@愛知県名古屋市「夜空と月のピアス」(参加者募集中!)

坂爪圭吾 SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

誠実さ。

誰の言葉か忘れたが「人を雇う時に見るべきは、誠実さ、知性、エネルギーという3点だ。最初のひとつがなければ、残りのふたつがあなたを殺しにかかる」というものがある。ごちゃまぜの家をやっていると、様々な人々と出会う。最近の感想は『人間は、言葉だけで語ると思うなよ』ということで、そのひとの一挙手一投足、ものを扱う姿勢、背筋、足音、扉を閉める音、話し声のトーン、など、諸々の事象から「このひとはこういうひとなんだな」ということが、バレる。表現は、するものではない。気がついたら、してしまっているものだ。意図を超えているものだ。

 

言葉より、行動の方が雄弁なことがある。ごちゃまぜの家に、金を借りに来た男性がいる。彼は、返す、返す、と言ったまま、すでに約束を三回反故にした。彼は言う。今度こそは返します。と。口先を、信じることは難しい。信じられるのは行動だ。前に、なにかで読んだ「金を借りて殺されたやつはいない。しかし、金を貸して殺されたやつは大量にいる」と言う言葉を、思い出した。金は、貸すものではない。貸してくれと頼まれたら、貸すのではなく『あげてしまう』のが、良いのだろう。ブルーハーツの歌詞にある。誠実さのかけらもなく、笑っているやつがいるよ。この家は、考えさせられることが多い。たとえば「優しさとは何か?」など。

 

来客が来る。一人で来るのが怖いからと、友達を連れてきた。目が合った。眼差しから「ああ、俺と話したいんだろうな」的な雰囲気が伝わってくる。わたしは思う。欲しいものがあるのなら、自分から獲りに行け。誰かになにかをしてもらおうと思うな。越えてこいよ。と。複数名で来た人間と、話が弾んだ経験はない。なぜ、単独で行動しないのだろうか。人間がひとりでいる限り、個人としていられる。たとえ、どれだけ仲の良い友達だとしても、複数名が存在する限り『社会』は発生する。社会から離れたくてこの家に来たのに、なぜ、社会を引き連れてくる?という違和感を、わたしは抱く。こちらから話しかけることが、優しさなのか。優しさとは、何を意味するのか。そういうことを思いながら、日々を過ごしている。

 

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わたり文庫『あふれでたのはやさしさだった』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、寮美千子著作『あふれでたのはやさしさでした』です。こちらの本は、佐賀県在住の女性から「素晴らしい本を読んだので、わたり文庫に寄贈します」と、郵送していただいた一冊になります。みなさんは、少年刑務所にいる若者達に、どのような印象をもたれるだろうか。自分とは縁のない、モンスターが収容される場所、みたいな感覚だろうか。わたしは、どうしても、犯罪者というものに対して、シンパシーを抱く。彼らと、自分の間に、差異はないように感じる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※

 

くも

空が青いから白をえらんだのです

ひと目見て「なんと詩的な言葉だろうか」と思った。主語は省略され、タイトルがそれを示している。「空が青いから、わたしは白という色を選んで、空に浮かんでいるのです」という雲の一人称だ。

「Dくん、声に出して、読んでみてください」

すると彼は、下を向いたまま、ひどい早口でツラツラっと読んでしまった。不明瞭で、なにを言っているのかさっぱりわからない。

(中略)

「ぼくのおかあさんは、今年で七回忌です」

胸がひやりとした。どもりながらつっかえながらのDくんの話の要旨はこうだ。

「おかあさんは、体が弱かった。けれども、おとうさんはいつも、おかあさんを殴っていました。ぼくはまだ小さかったから、おかあさんを守ってあげることができませんでした。おかあさんは亡くなる前に、病院でぼくにこう言ってくれました。『つらくなったら、空を見てね。わたしはきっと、そこにいるから』。ぼくは、おかあさんのことを思って、おかあさんの気持ちになって、この詩を書きました」

寮美千子『あふれでたのはやさしさでした』【西日本出版】

 

すべてを知れば、すべてを許せる。

誰かが誰かを殴るとする。大概の場合、悪いのは『殴る側』だ。しかし、殴っている側に事情を聞いたら、彼は、こう答えた。「俺は、俺の親を、こいつに殺されたんだ。だから、俺は、こいつを殴っているんだ」と。すると、悪いのは『殴られている側』になる。しかし、殴られている側に事情を聞いたら、彼は、こう答えた。「俺は、俺の親を、こいつの親に殺されたんだ。だから、俺は、こいつの親を殺したんだ」と。この場合、悪いのは、一体誰になるのだろうか。我々は、どこを見て『いい』だの『悪い』だの、『ああ』だの『こう』だの、決められるのだろうか。

 

職場に、やる気のない人間がいたとする。多くの場合は「お前はダメだ」「お前は邪魔だ」「お前がいると迷惑だ」という態度を、彼に対して取る。しかし、彼は、数日前に自分の母親を亡くしたばかりだった。それを知った周囲の人々は、彼に対して優しさを見せた。思いやりを示した。誰にでも大変なときはある。だから、いまは無理をしないで、力になれることがあったら言ってね、と。彼にやる気がないという事実は、引き続き同じままだ。しかし、彼の周囲の反応は、情報ひとつで真逆になった。やがて、母親の死は彼の作り話だったことが、発覚する。優しさ、思いやりを示した人々は、真逆の反応をとる。彼は、信じられない人間だ。と。我々が、誰かに対して優しさを見せるとき、我々はどこまで知っているのだろうか。我々が、誰かに対して冷たくあたるとき、我々はどこまで知っているのだろうか。

 

すべてを知れば、すべてを許せる。そういう予感がある。ひとにはそれぞれ事情がある。なにかを許せないとき、それは、まだ知っていない何かがあるのかもしれない。彼が、こうなのは、こういう背景があったからだ。あるいは、許せないという気持ちを通して、誰かを思い続けているのかも知れない。自分のこども時代を思い出す。こどもは、親が、どのような親であっても「愛そうとする」生き物だ。守ろうとする生き物だ。愛されたいと思う生き物だ。そして、愛されたいように愛されなかった記憶が、悲しみとなって蓄積をする。悲しみを解き放つものは、何か。わたしは思う。それこそが優しさであり、人間の憂いであると、最近は考えている。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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