いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分の中にある「美しい部分」を信じること。

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日本のロンドンでおなじみ新潟県新潟市内に到着をした。わたしは「おしゃれであること」が非常に重要だと思っているタイプの人間で、新潟県もファッショナブルな和式都市になることに注力をすれば、充分にヨーロッパ諸国と張り合っていけるような気がする(いまはまだまだダサい)。新潟交通のバスに乗って万代シティに向かう途中、通勤途中の車に乗る人々の表情を観察していた。当たり前のことだけれど、みんな、四人乗りの車をたったひとりだけで運転している(そして渋滞も発生をしている)ので、毎日これだけの空きスペースが移動をしているのであれば、みんなで乗り合えば交流の幅も広がるし車の維持費やガソリン代を節約できるから色々と良いのではないだろうかなどと思った。が、多分、根本的な問題は『他人に対する信頼感』があるのだと思う。もしかしたら危険な目に遭うかもしれないという不安感や不信感がある限り、ひとは、所有から共有に移行をする【よろこびを分かち合う】ことはなかなか難しいのだと思う。

 

わたしの誕生日は4月7日で、この日は非常にありがたいことに東京都の世田谷区で生誕祭を開催していただけることになった。もしも何かしらの流れで自由に使える車をプレゼントしていただける日が来たら、誰でも自由に使ってください(使い方はみなさまに委ねます)と完全に解放をしてみたいと思う。あるいは、暇な時期は無料タクシーと銘打って「ちょっとあそこまで運んで欲しい」と願う人々を配達する役割を担ってみたいとも思う。カーシェアリングという概念が提唱されて久しいけれど、この世の中にあるあらゆるものは「所有をするよりも共有をした方が、結果的にいろいろと楽になる」んじゃないだろうかと思うことは多い。自分自身、いまのところは熱海の家と自分の財布を開放している。自宅を開放していると、わたしがいない間も他の利用者の方々が掃除をしたり花の世話をしたり食糧の調達などをしてくれるために、いろいろと助かっている部分は多い(財布の中のお金が減ることもない)。

 

【イベント詳細】【Rosé company / 勝手に生誕祭 〜生きとし生けるものの一粒万倍日〜】

 

最大の防犯はフルオープン【自己開示】

いばや関係者には新潟県出身者が多く、わたしは新潟県新潟市西区にある小針という場所で育った。冬の間は雪と雲に閉ざされる陰鬱な日々が続くからなのだろう、新潟県民は頭のネジが外れているひとが多い。表面的には優しく大人しそうに見えるひとでも、腹の裡ではとんでもないことを考えている変態が多い(この辺はロシアやフィンランドなどの北欧諸国の気質と似ている)。この前、大阪在住の女性E様から「わたしの元彼は新潟出身のひとだったのですが、繊細過ぎて面倒臭かったです」という証言が届いた。わたしはなんだか嬉しくなってしまって、どんなところが面倒臭かったのですかと尋ねた。すると、E様は「たとえばメールとかで白塗りの☆を使う時は何もないのだけれど、黒塗りの★を使うと、それだけで『ねえ、怒ってるの?』とかすぐになるから大変でした」とのこと。わたしは、男性の気持ちがとても良くわかるような気がした。そして、ああ、やっぱり俺達は面倒臭い存在なんだなあという認識を深めた(ものすごい楽しかった)。

 

そんなことはどうでもいいのだけれど、自宅を開放していると「危ない目にあうことはないのですか?」と頻繁に問われる。結論から言うと(いまのところは何も)無い。逆に、常時解放をしていた方が「いつ誰がくるかわからない状態だからこそ泥棒側も安心してものを盗むことはできないだろう」とさえ思う。たまに風呂上がりで素っ裸の時に来客が来て「きゃー!」みたいになることはあるけれど、あとは野となれ山となれ、最初に裸を見られるとその後のコミュニケーションが逆に円滑になったりもする。もっと言えば、自宅に鍵をかけるということは「ここに大事なものがありますよ!」という露骨なサインにもなり、だからこそ狙われてしまうのではないだろうかと思う。多分、泥棒は溜め込むひとを狙っている。人間的な心理に「隠されているものは暴きたくなる」的なものは確実にあるような気がしていて、最初から常にフルオープンにしていたら逆に狙われることはない【勝手に防犯効果も高まる】ような気がしている。

 

これは自己開示についても同じだと思う。自分はこういう人間ですということを最初からストレートに伝えることができている限り、その後に何があっても「まあ、あのひとはそういうひとだからね」ということで許される。しかし、自分を良く見せようとしたり、望まれているキャラクターを演じ続けるような日々を過ごしていると、必ず何処かで破綻が来る。何が言いたいのかというと「何かを隠すから苦しくなったり恥ずかしくなったりする訳で、最初からフルオープンで行けば楽になる【執着を手放す】」ということで、多分、苦しみの9割はただの執着なのだと思う。捨ててしまえば楽になること、手放してしまえば楽になること、自分のものにすることを諦めてしまえば楽になることは、多分、この世の中に無数にあるのだと思う(そして「手に入れた瞬間ではなく手放した瞬間に自由を得る」場合も多い)。

 

わたり食堂の事件。

先日、熱海の家でわたり食堂【0円食堂】なるものを開催した。大分県や福岡県や愛知県や群馬県富山県など、全国各地から30名を超える方々が遊びに来てくれて嬉しかった(北海道や長野県や大阪府からはクール便で大量の食糧が届いた)。基本的には平和でカオスティックな雰囲気に包まれていたのだけれど、ちょっとだけ事件が起きた。この日、珈琲を担当してくれた13歳のえりか姫(中学校に通うことを一時停止して、喫茶店で修行をしたり珈琲を淹れることを生業にしている女の子)が、わたり食堂に来てくれたおじさまから軽い説教を受けていた。わたしは「えりか姫ファイトだ!これが世間の洗礼ってやつだけど負けるな!」などと思いながら、遠くから眺めていた。その時の模様はえりか姫のブログ記事に詳しい。なんて素晴らしい対応をするのだろうかと、わたしは感動をしてしまった(えりか姫、君は天才だ!)。

 

【参考記事】その人のやり方 - * Erika blog *

 

その後、わたしも軽くからまれる(言葉が汚くてごめんなさい。他者に対して批判的・否定的になっている時、それは端的に『愛情不足』なのだと思う。充分な愛情を受けていると実感できる日々を過ごしている時は、他者に対しても優しくなれる。きっと、このおじさまも最近は辛い日々を過ごしていたのだと思う)ことになった。いろいろなことを言われたのだけど、おじさまの話を聞きながら「そういえば数年前にも、福島県で開催されたイベントで聴衆のみなさまからボコボコにされたことがあったなあ」などと思っていた。この世の中には、どうしてもコミュニケーションをとること自体を諦めてしまいそうになる瞬間がある。このひととはコミュニケーションができないなと思った時、わたしは「笑いを取る」ことに走る。

 

【過去記事】【FKS-福島県】火事場のユーモアと「試合はボロ負けしたけれど、今日のMVPは完全に俺だ」感。 - いばや通信

 

この前のわたり食堂にはわたしの愛するみっつという男性も来てくれた。そのため、わたしは「このおじさまに自分を理解をしてもらうことは早々と諦めて、このおじさんとの会話を通じてみっつを笑わせることだけに専念をしよう」と思った。結果は割愛するけれど、この日も無事にホームランをかっ飛ばすことに成功をした。とてもいい時間だと思った。みっつという男性は4月7日に開催されるわたしの生誕祭にもゲストとして参加をしてくれるので、是非、みなさまも一緒にわたしの誕生日をお祝いしてください。みっつをまだご存知のない方のために、わたしとみっつの出会いの記事を下記に転載します。正直、わたしの誕生日だなんていうことはどうでもいいから、みっつに会う【みっつという人間の存在に触れる】ためだけに来て欲しいとさえ思います。

 

【過去記事】人生を変える出会いについて。ー 本物の美しさや、本物の純粋さに触れると、自分の中から失われていた何かが再び蘇るような歓びを覚える。 - いばや通信

 

良寛物語- 手毬と鉢の子』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、新美南吉著作『良寛物語- 手毬と鉢の子』です。こちらの本は、わたり食堂にご参加いただいた男性が「わたしから見ると、坂爪さんの生き方は良寛さんのそれと物凄い通じるものがあるのです」という身に余るお言葉と共に、わたり文庫に託していただいた一冊になります。わたしも良寛さんのことが大好き(良寛さんも新潟生まれ!)なので、これはとても嬉しいお言葉になりました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、秋田県にわたりました ※※※

 

君たちは、この本を読んでいくうちに、不思議な気がするだろう。こんな坊さんのどこが偉いのだろうかと思うだろう。こんな乞食のような坊さんが偉いのなら、そのへんの乞食やルンペンは、みんな偉いじゃないかという者があるかもしれない。

 

そうだ、ひょっとすると君たちの方が、すばやくほんとうの良寛さんの偉さを、見ぬいてしまうかもしれない。大人たちが気がつかないでいることを、君たちの方が先にわかってしまうかもしれない。なにしろ、君たち子どもの眼は、ちっとも濁っていない、よく澄んでいるから。 

 

私はこの本のおしまいのところで、君たちに良寛さんの偉いところが、わかったかどうか、きくつもりである。その時君たちの誰も彼もが、ちょうど教室で算術や読み方の問題を、きかれたときのように、一斉に手をあげられることを望んでいる。

 

新美南吉良寛物語- 手毬と鉢の子』【中日新聞社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

自分の中にある「美しい部分」を信じること。

曇天が多い新潟市内の空は晴れ渡り、いま、空には真っ赤な太陽が輝いている。新潟の空は青く澄み渡る、わたしは青色が好きだ。わたしの母親は山形県の小国町という雪国育ちで、この時期になると常に「冬が長ければ長いほど、春が来たときはうれしいものだねえ」ということを言っていた。いやぁ、もう、ほんとうにその通りだねおかあさんという気持ちになる。太陽が顔を出すだけで嬉しくなる。好きな音楽を流しながら街を歩くこと、すれ違うひとと軽い挨拶を交わすこと、喫茶店で珈琲を頼むこと、こうしてブログに文章を綴るということ、ただそれだけのことが自分の気持ちを嬉しくさせる。優しい気持ちは次の優しい気持ちを運んでくれて、ああ、なんだか「誰かに優しくしたいなあ」とか「誰かと楽しくおしゃべりをしたいなあ」なんていう気持ちになる。

 

 

現在のわたしには定職もなければ所持金も少なく、社会的な肩書きも所属先も何もないために出会う方々からは「そのような生き方では、不安になることはないのですか」と頻繁に問われる。結論からいうと(いまのところは何も)無い。不安についてあまりにも頻繁に問われるものだから、わたしは「ああ、きっとみんな不安なんだろうなあ」的なことを思う。不安だからお金を稼ぐ、不安だから仕事を続ける、不安だからいやなことでもいやいや続けざるを得ない、など、そういう雰囲気を感じることは頻繁にある。でも、ほんとうにそうだろうか。生きるためには「いやなことをいやいや続けなければいけない」ものなのだろうか。わたしにはわからない。わかることと言えば「いまのところはわたしには不安はない。特別満ち足りているという訳ではないけれど、日常的に『幸せだなあ』と感じる瞬間は日に日に何回もあって、もちろんしんどいなあと感じる時もあるけれど、無事に生きることができている【生かされている】この人生を気に入っている」ということ位だ。

 

 

正しさを追い求めると重くなる。楽しさを追い求めると軽くなる。多分、ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもないのだ。あまりにも「正しさ」にとらわれすぎてはいけないのだと思う。何をするのが正しいのか、何をするのがいけないのか、それだけのことに縛られてしまう(正しさを求める)のではなく、わたしは「自分の中にある『美しい部分』を信じて欲しい」なんて思ったりする。もちろん、不安や恐怖を消し去るための行動が必要な時もあるのだろう。しかし、自分の人生がそれだけになってしまうと、簡単にこころは乾いて生きる張り合いを見失ってしまう。損か得か、有利か不利か、それだけで生きる道を選んでしまうと「自分の好き嫌いがわかなくなってしまう」。意味とか意義とか価値とかもっともらしい理由とか、そういうものを取り払った後に感じるもの、自分のこころが「これは美しいな」と思ったものに命を捧げることができた時、多分、こころは充実を見る。時には投げやりになってしまいそうなこともあるかもしれないけれど、それでも、自分の中にある「美しい部分」を信じること【純粋な部分を守り抜くこと】。その部分を、その部分こそ、わたしは大切にしていきたいのだと思う。

 

 

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人生は続く。 

 

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