いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

居場所とは、場所ではなくて人間だ。

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私の故郷は新潟県で、高校の同窓会などでは「坂爪たちはおかしなことをやっているけれど、あのひとたちの頭は大丈夫なのだろうか」と心配をされているらしい。私は、もう、同窓会に呼ばれるような存在ではなくなってしまったために、久方振りの世間の声的なものに触れて「おお、心配をされている!」と、なんだか感動をしてしまった。 私は、新潟高校という名前の(新潟では一番頭が良いとされている)進学校を卒業した。普通、この高校を出たひとは、今頃はそれなりの企業につとめて家庭を築いて車を買ってこどもを育ててローンを組んで一軒家を建てたりしている。私の最終学歴は高卒で、現在も世間的には完膚なきまでの無職、安定した収入もなければ未来の展望も皆無(多分ローンを組むこともできない)で、ただ、熱海に家はある。この家はプレゼントをしていただいたのものになるために、ローンを支払うために自分の心を撲殺してまで嫌な仕事をする必要はない。

 

昔から「自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたい」的な思考に包まれていたので、20代の後半から家のない生活を始めた頃には「もう、今世は諦めよう。ひとと同じであることは捨ててしまおう」と腹を括っていたのだと思う。結果的に、ひとと同じような生き方をすることは現在もまるでできていないけれど、奇跡的にこの瞬間も健やかに生き続けることができていて、なんなら「31歳にして熱海に自分の家を構える」という、世間的・相対的・映画的にラグジュアリー(?)な現状に置かれている。私は、この現象を『奇跡のJ字回復』と名付けていて、私のようなどうしようもない人間でも自分の筋を貫いて生きていれば必ずそれを見てくれている心の優しいひとたちが世界には確実にいて、きっと、人生はどうにかなるようにできているのだということを思う。

 

神様、誕生日プレゼントに家をください。

私の誕生日は4月7日で、一ヶ月後には32歳になる。先日、誕生日プレゼントに欲しいものを尋ねらた時に「家!【東京や大阪や北海道などで自由に使える部屋的なもの】」と即答をした。私は、いま、熱海の家を開放している。鍵はかけていないので誰でも自由にはいれる状態になっており、希望者は宿泊もできる。玄関には自由に出し入れをできる財布【みんなの財布】を掲げていて、家にあるものは基本的に何を使ってもOK、近所に海と山と温泉があるので療養にもそれなりに適していて、伊豆山神社に続く長い参道は足腰を鍛えるためにも最高になる。ただ、熱海の家は都心からちょっと距離があるために、このような家【自由に出入りができる空間】が東京のど真ん中にもあったらいいなあと思った。

 

先日、横浜在住の一歳の赤ちゃんを子育て中のA様と話をした。A様は「ひとりでこどもを育てていると、たまに『うあー!!!』って何もかもを投げ出したくなる瞬間があるのですが、そういう時に熱海に誰でも自由に使える場所、ちょっと逃げ込める場所、そこに行けば誰かがいる(他にも子育て中のおとなたちがいる)という場所があるのだと思うだけでも、ホッと気持ちが楽になることがあります。いまはまだこどもも小さいのでなかなか遊びに行くことができないのですが、いつか、熱海の家にもお邪魔をさせてください」と話してくれた。私は、ああ、これはもう熱海までははるばる来てもらうことを待っている場合ではない、熱海のこの家があなたの家のすぐ近くまで瞬間移動をする必要があるのだと思った。

 

また、昨日お会いした男性R様は「私はいま都内で一人暮らしをしているのですが、家に帰っても誰もいないというのはやはりさみしいものがあります。私は独身なので『結婚したら変わるのかな』などと思ったりもするのですが、仕事などの利害関係ではないところで誰かと話せる時間があるということは、大袈裟な言葉になるけれど気持ちの支えにもなります」的なことを話してくれた。私は、わかる、わかるよと思った。人間の三大欲求は食欲と睡眠欲と性欲と言われているけれど、多分、性欲とは『コミュニケーション欲【誰かに何かを伝えたいと願う感情】』のことなのだと思う。単純にセックスだけを意味するのではない、ただ、誰かとつながりを持ちたいという欲求。私は、ああ、このような時代だからこそ誰でも自由に使える家というものが(熱海などの地方都市ではなく)東京や大阪や北海道などのど真ん中にこそ必要なのではないだろうかということを思った。

 

行き場所をなくした迷い子よ、自分自身に還れ。

私に潤沢な資金があれば「恵比寿にある一軒家を購買しておいたから、これを自由に使ってちょんまげ!」みたいな形で世界にまる投げをできたのだけれど、悲しいことに所持金は5桁だ(明日には4桁になる)。みんなでお金を出し合って家を借りればできないこともないのだろうけれど、なにかこう、そういうのとは違う形で「ちょうどこの場所が使われていなくて困っていたから、有効活用をしてもらえたらうれしい!」みたいな展開を迎えることができたら嬉しいと思う。私を含め、お金はないけれど時間はあるという人間は、多分、無数にいる。そういうひとたちが「カラダで払います!」的な一致団結を見せることができたのならば、も、も、も、もしかすると非常に素晴らしい展開を迎えることができるのではないだろうかと睨んでいる(熱海の家は別荘【セカンドハウス】的な役割として利用をしてもらえたら嬉しい)。

 

都市には都市の魅力があり、田舎には田舎の魅力がある。どちらか一方だけに偏ってしまうと、やはり、もう片方の魅力が恋しくなる。これからの時代は「都市と田舎の多拠点生活だ!」などと叫ぶひとたちもいるけれど、言いたいことはわかるような気がする。私はまだ31歳で、熱海の空気感は素晴らしい(熱海そのものは実は大したことはないのだけれど、私が住んでいる伊豆山という地域は最高!)とは思うものの、誤解を恐れずにいうと「ずっと自然の中にいるとさすがに飽きる。やっぱり刺激が欲しくなる」のが正直な感想だ。私は多動症なので、いろいろな場所に家があると、結果的に移動も促進をされて精神の新陳代謝が活発になる。自然の中で隠居をするのは、60歳を超えてからでもいいのかもしれないと思う。

 

逆に、都心部などで長い時間を過ごしていると「静けさに還れる場所が必要だ!」という気持ちになり、熱海の時間が恋しくなる。私は、様々な刺激や興奮を求めて街中をさまよい、こころの隙間を埋めようとする。しかし、私は、昨日渋谷のベローチェでひとりブレンド珈琲を飲みながら「いつまで俺は刺激を求めてさまよい続けるつもりなのだろうか。退屈やさみしさを覚えてはまた別の刺激を求めるような生き方は、多分、しんどいぞ。本当の充足感は自分自身の中にある。行き場所をなくしてさまよい続ける迷い子【俺】よ、自分自身に還れ」的なことを思っていた。都会のど真ん中だからこそ、過剰な情報や余計な装飾や騒々しい喧騒から少しだけ離れることができる場所、何もなくてもいい、簡素な空間があればいい、ただ、静けさに還れる場所があれば充分に『都会のオアシス』になり得るのだと思う。

 

『太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岡本太郎著作『太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談』です。岡本太郎さんの言葉は、生きているといいますか、躍動をしているといいますか、無条件に開きたがっているといいますか、明朗で、清々しく、根底に力強い愛情にも似たサムシンを感じることができるからほんとうに大好きです。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、岡山県にわたりました ※※※

 

きみはほんとうは激しく生きたいんだよ。

 

〝ほんもの〟なんてものはない。絶対的な生き方を求め、それに自分を賭けるってことがあるだけだ。

 

血を流してニッコリ笑っている、それが命がけのぼくの遊びさ。

 

どんな女性でも、奥底ではとても優しい。ぼくを許して、包んでくれる。

 

感動的に何かの色、形を眺めるとき、音が胸の底にもりあがってくる。また激しく鳴り響く音に共感するとき、心の中にすばらしい線がはしり、なまなましい形が浮かんでいる。それは同時に、からだ全体を踊りあがらせ、あるいは回転させ、ふきあげさせるような歓びだ。視覚だけとか聴覚だけの感動なんて、ほんとうじゃない。自分のいのち全体、からだ全体で、あらゆる響きと色彩をもってひらききる。いつも、瞬間瞬間に。だからぼくは、ただの音だけ、形だけの気どった音楽会や展覧会には無関心なんだ。ー 岡本太郎『太郎に訊け!2』【青林工藝社】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

居場所とは、場所ではなくて人間だ。

引き続きおはなを配り続ける日々を過ごしている。(少なくとも)今日は東京都内をうろうろしている予定なので、東京でも世界の何処でも「この場所がいまは使われていないから、よかったら見学においでよ!」的な場所があれば、どなたでもお気軽にご連絡ください(普通に「おはなが欲しいです!」というご連絡も常時受け付けております)。3月26日には熱海の家でわたり食堂【0円食堂】を開催する予定なので、熱海の家が果たしてどのような雰囲気のもとに回転をしているのかなど、もしも興味を持ってくださった方がおりましたらどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

居場所が欲しいとか、居場所をつくりたいとか、そういう言葉を耳にする機会は多い。居場所とは、多分、場所ではなくて人間だ。私にとって、居場所とは「何かを愛する自分の心」だと思っている。自分のことを愛してくれるひと、自分のことを受け入れてくれる場所を求めているという感覚よりも、それは「自分から進んで愛していける何かを見つけること」だと思っている。愛される前に愛することができるようになった時、受け入れられることよりも自分から受け入れることができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になるのだと思っている。

 

新しい何かを求めてさまようほどに、すでに、誰もがあらかじめ自分の内に備わっていたものを見落としてしまう。「行き場所をなくした迷い子よ、自分自身に還れ」というお告げ(?)を受けた私は、多分、これから先に何度も何度もこの言葉を思い出すような気がしている。昔、日本人には3つの心があるのだと聞いた。ひとつは「建前」と呼ばれるようなもの(世間的に使われる言葉)、ひとつは「本音」と呼ばれるようなもの(ごく親しい間柄でのみかわされる言葉)、ひとつは「建前とも本音とも違う、本当の言葉」と呼ばれるもの(誰にも話されることのない、しかし、確実に心の奥底にあるどっしりとした力強い感覚)。生きている限り不安や迷いを覚えることもある。しかし、本当の本当の本当に奥底のところにある、魂と呼ばれる部分は「何があっても大丈夫だよ」という信頼の響きが鳴り響いている。その声に、その音楽に耳を傾けることができた時、きっと、そこが自分の居場所になるのだと思う。

 

 

人生は続く。

 

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