生き方の是非を問うことよりも。
答えよりも「応え」
大切なことは、答えではなく「応え」だと思う。日々に答えを求めるのではなく、日々の問いに真摯に応えようとすることの中に、その姿に、そのひと自身の光は宿るのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月28日
坂爪圭吾さんのお話会より・・・ - 日々の変化に成長あり!!! https://t.co/hrqt1vaWRo
いまを生きることしかできない弱さ。
結婚の動機も、就職の動機も、人間関係を続ける動機も、ほとんどの動機は愛情か打算のどちらかになるのだろう。打算が悪いとは言わないけれど、自分は打算的な行動をする度に「自分が死ぬ」感覚を覚える。愛情か、打算か、これらの違いは「結果に対するコントロールがあるか否か」だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月27日
過去も未来も背負えない、夢も目標も背負えない、家族も恋人も気の合う仲間も背負えない、そんな自分がこれだけは背負うことのできるものが「この瞬間だけ」なのだと思う。いまを生きることができるのは強さではなく、いまを生きることしかできない弱さに、私は支えられているのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月28日
『良寛の生きかた』
形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋は紅葉ば(『良寛全歌集』一〇五九)
訳)わたしが亡くなった後の思い出の品として、残せるものは何もない。しかし、春は梅や桜の花が咲き、夏はホトトギスの鳴き声がある。秋はもみじの葉がひらひらと散る。わたしの死後も自然はなお美しい。これがただ、わたしがこの世に残す形見になってくれるだろう。
生き方の是非を問うことよりも。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。弱い自分は、苦手だなと感じるひとと同じ空間にいるだけで、露骨に胃腸が痛くなる。自分で自分を護ることが難しくなる。ひとりの時間を好むことは、孤独に耐える強さではなく、そうでもしなければ生きていけない自分の弱さだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月8日
やりたいことを見つけないといけないとか、あの人を忘れないといけないとか、自分を受け入れなければいけないとか、みんなと仲良くしなければいけないとか、常に元気でいなければいけないとか、充実した時間を過ごさないといけないとか、しなきゃいけないことなんて本当は何ひとつないんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月10日
自分で「どうにかしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものなのだと思う。人生を信頼して身を委ねていけば、きっと、日々は幾つもの輝きに溢れた瞬間を見せてくれる。 pic.twitter.com/cuxsfLnnHp
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月27日
初めまして。
Facebookでフォローさせていただいてます。
○○と申します。
いつもブログを拝見していて、感じたことをお伝えしたくなるのですが、ふと、思い立ってメールさせていただいてます。
坂爪さんのブログを読むと、いつも、「生きてる」って思います。
坂爪さんも、私も。
坂爪さんの言葉は、坂爪さんのものだけれど、私のものの時もあります。
そういう時、私は
「こういう風に感じ、考えるのは私だけじゃなかった」
と嬉しく思うし
「その感じ、考えをこう表現できるのはすごい」
とも思います。
そして、そう感じながら坂爪さんのブログを読んでいる人は、きっと他にもいて、それを思うと、なんだかにやりと不思議な気持ちになったりもします。
今日の東京は少し冷たい雨が降っています。
坂爪さんがいらっしゃるところは、どんなお天気なのでしょうか。
これからもブログ、楽しみにしています。
坂爪さんの生き様、楽しみにしています。
私も、今日も明日も生きていきます。
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