読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

讃められるために生きている訳じゃない。

f:id:ibaya:20160627102952j:plain

バンコクを経由して福岡県にはいり、今宿、福間、宗像、久留米を訪れた後に、天神に来た。今夜は、警固神社で開催されるイベントに登壇する。稀に、イベントなどに登壇すると「どうしたら、坂爪さんのようになれますか」という質問を受ける。誤解を恐れずに言うと、私は、このようなことを聞かれると非常に困る。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・「自分みたいになれ」とは思わない。


私は、自分以外の誰かに「自分みたいになれ」とは思わない。自分と同じであることを強要したいとも思わないし、家を捨てる必要もなければ、文章を綴る必要もないし、自分の存在をオープンにする必要もなければ、意味もない移動を繰り返す必要もない。ただ、坂爪圭吾が坂爪圭吾であるように、あなたにはあなたでいて欲しいと思う。

2・私は「触媒」でありたい。


大切なことは、私の話ではなく、私の話を通じて引き出される「あなた自身の話」だと思っている。私が言葉を綴るとき、私が人前に出て話をするとき、決して「自分みたいになれ」とは思わない。私が私であるように、あなたはあなたでいて欲しいと思っている。私は触媒でありたい。私の話を通じて引き出される「あなた自身の話」を聞きたいと思っている。

3・自分の宝を互いに掘り合う。


私にとって、私の話は「内側の話」になる。しかし、あなたにとって私の話は「外側の話」のひとつに過ぎない。私が触媒でありたいと思う最大の理由は、答えは、自分の内側にあるということを信じるからだ。あなたの答えはあなた自身の内側にあるものであり、私の中に、あなたの答えはない。私はひとつの触媒で、触媒を通じて出てくる自分自身こそが宝の地図であり、掘るべき対象だと思っている。

4・自分の中にある「尊い部分」の声を聞くこと。


誰か偉い(偉いとされている)ひとの話をありがたがって聞くような時代は、もう、終わりにしたいと思う。他人とは、多分、模範するべき対象ではない。自分を確かめるためにある「鏡」のようなものだと思う。大切なことは、他人を通じて引き出されてくる、自分の中にある『尊い部分』の声を聞くこと、自分の中にある『美しい部分』の声を聞くことだ。

5・鏡は、濁りの少ない方がいい。


鏡は、濁りの少ない方がいい。

f:id:ibaya:20160627103010j:plain

6・私は、まだ自分の生き方に名前を与えていない。


二年間ほど家のない生活をして、その模様をブログに書いた。読者は徐々に増え、日本全国や海外からも声がかかるようになり、私は、その日々の中で感じたことを言葉に残した。ひとは私を、詩人だという。哲学者だという。芸術家だという。旅人だという。浮浪者だという。ロックだという。ゴミのような人間だという。様々な名前で私を呼ぶが、私は、まだ自分の生き方に名前を与えていない。

7・自分以上も、以下もない。


初対面の人間から、普段は何をしているひとなのかと尋ねられても、自分を表現する言葉が何もない。私は私であり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。「ただ、生きている」というそれだけのことになるが、そんなことを言っても相手を困らせるだけだから、私は、何も言えないままに黙ることが多い。何も伝える言葉を持たない時は、ただ、沈黙を守るしかない。

8・「無」に賭ける。


多くのひとびとが何者かになろうとするなかで、何者でもないことに賭ける。「無」に賭ける。ここ数年間の自分の生き方は、これに集約される気がしている。有為より無為に、意味より無意味に、利益より無利益に、所有より無所有に、価値より無価値に、自己より無自己の中に、自身の拠り所を見出してきたような気がしている。

9・自分みたいになるな。


やがて、家のない生活はピリオドを迎えることになったが、遍歴は続く。夢はない。目標もない。答えもなく、問いもない。常に途上にいる。過去もない、未来もない、あるのはこの瞬間だけ。私は、自分みたいになれとは思わない。真逆で、自分みたいにはなるなとは思っている。

『村に火をつけ、白痴になれ』

f:id:ibaya:20160628131304j:plain

日本に戻ったので、わたり文庫【循環型の図書館】を再開します。今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『村に火をつけ、白痴になれ(伊藤野枝伝)』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

私のすべては唯屈従です。人は私をおとなしいとほめてくれます。やさしいとほめてくれます。私がどんなに苦しんでいるかも知らないでね。私はそれを聞くといやな気持ちです。ですけど不思議にも私はますますおとなしくならざるを得ません。やさしくならずにはいられません。
私には1日だって、今日こそ自分の日だと思って、幸福を感じた日は一日もありません。私は私のかぶっている殻をいやだいやだと思いながらそれにかじりついて、それにいじめられながら死ぬのです。私にはいつまでもその殻がつきまといます。それに身動きがとれないのです。
あなたは何にも拘束されない強者として活きてください。それだけがお願いです。屈従ということは、本当に自覚ある者のやることじゃありません。私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願いします。忘れないでください。他人に讃められるということは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそいでさえいれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生きがいのあることでないということを忘れないでください。何人でも執着を持ってはいけません。ただ自身に対してだけは全ての執着を集めてからみつけてお置きなさい。私のいうことはそれだけです。私は、もう何にも考えません。 ー 村に火をつけ、白痴になれ【岩波書店


10・讃められるために生きている訳じゃない。


日本に戻り、一番最初に購買したものは、100円ショップの小さなしょうがすりおろし器だった。私はしょうがを愛している。移動中も自由にしょうがのすりおろしを楽しむことができたら健康にも良いし最高だ!と思い、数日前からネットで適当なしょうがすりおろし器を探しては「これが欲しい!」とか「こんなものもあるのか!」と、興奮と熱狂の渦に溺れていた。

福岡では、飛行機の遅延と怒涛のスケジューリングにより睡眠不足に陥り、軽いグロッキー状態に置かれていた。しかし、しょうがのことを考えている時間(あとは花を眺めている時間)だけは、どれだけ疲れていても多幸感を覚えることができた。そして、天神ロフトの調理器具コーナーに足を運んだ瞬間は、まるで天国のお花畑にいるかのような気持ちになった。

結果的に、100円ショップにあるものが何よりもベストだったために、それを購買した。しょうがすりおろし器を探している時間、しょうがすりおろし器で何を作ろうかと考えている時間、しょうがすりおろし器を実際に購買した瞬間は、揺るぎない喜びに溢れていた。私が欲しいと願うものは、過去も未来も吹き飛ばす、圧倒的な【この瞬間】のことなのだと思う。

f:id:ibaya:20160627165404j:image

人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
広告を非表示にする