死なないために、生きている訳じゃない。
湘南江ノ島で開催された「わたり喫茶」があまりにも素晴らしく、ハートに風がびゅんびゅびゅびゅびゅぅんと吹き抜けた。ああ、この瞬間は最高だなと思える瞬間の中には「風が吹いた」よろこびがある。長い間、換気をすることのなかった部屋の窓を開けた時のような、こころのリンパに溜まった老廃物が流れ出すような、新鮮な感覚を覚える。生きていると死にたくなることも結構頻繁にあるなかで、同時に、生きているということは本当に素晴らしいものなのだなあと心の底から思うことができる。
風が吹き抜けた10の瞬間をまとめます。
1・ちあきさんが素晴らしかった。
誤解を恐れずに言うと、私には「(自分を含めて)人間はクソだな」と思う瞬間がある。生まれたときには綺麗だったはずのヒューマンが、年を重ねるごとにどうしても避けられない汚れを抱えてしまい、やがて、大半の人間は薄汚れてしまう(そして、自覚も同時になくしてしまう)ものなのだろうかと思ってしまう時がある。そこに自分の意識がフォーカスされてしまっている時は、何かこう、人生全般ってクソだなという気持ちにもなってしまうことがある。
私は、自分のことを「表面的にはオープンだけど、実際は非常にクローズドな人間である」ような気がしている。自分でイベントを開催しておきながら、誰よりも早く集団の輪の中を飛び出して、自分の殻の中に閉じこもり、閉じこもっておきながら誰かに声をかけられることを待っていたりもする。そんな自分の面倒臭過ぎる心の扉をノックして「外に出ておいでよ」と寄り添ってくれるものは、たとえば、湘南江ノ島でラムピリカという素晴らしい喫茶店を営むちあきさんのような人間だ。
ちあきさんをはじめて、私は、心の綺麗なひとの存在に物凄いエネルギーで支えられている。自分を含めて人間全般を諦めてしまいそうになるときに、綺麗なままでいてくれるひとがいるということが、そのままで生きていてくれたひとがいるということが、どれだけ、自分の支えになっているのだろうか。具体的に何かをしてくれるという訳ではなく、ただ、そのひとが生きているというそのことが、たまらなくうれしくなる。
2・さとみさんの「ピットイン力」
昨日は、足もみ師のさとみさんもいてくれた。絶対的・相対的に共に弱者である私は、ひとと話しているときに気軽に傷ついてしまうことができるのだけれど、そういう時は「さとみさん、ちょっと聞いてくださいよ」と擦り寄りながら愚痴を吐く。器の大きいさとみさんは、私の話を、うなずきながらしっかりと聞いてくれる。昨日も、ことあるごとに勝手に自爆をしながら周囲を浮遊している私を、さとみさんは優しく受け入れてくれた。
私がF−1の車ならば、さとみさんはピットイン的な存在になる。基本的にギュインギュインとトラックをエンジン全開で爆走する私は、(割と早い段階で)故障かな?と思った瞬間に、さとみさん的な存在にピットインをして軽い修繕を行う。そして、新たな気持ちで再びトラックをギュインギュインと爆走する。ピットイン的な存在がいなければ、私は、路上で爆死をしていたのだろうなあと思う。さとみさんをはじめ、自分には「ピットイン的な存在がいるのだ!」と再認識できたことがうれしかった。
3・葛飾北斎の観察力。
私が「さとみさんは何を思っていたのですか?」と尋ねると、さとみさんは「打ち寄せる波を眺めていたのですが、見れば見るほどに、葛飾北斎の絵とまったく同じように見えてきて、北斎は、ほんとうに対象をじっくりとじっくりと観察をしていたんだなあと思っていました」と話してくれた。どうしてなのだろうか、私には、さとみさんのこの言葉が深く胸に刻まれた。
対象をじっくりと観察すること。いつもよりも、耳を澄ませること。いつもよりも、じっくりと見つめること。ひとも、自然も、見つめれば見つめるほどに『その、存在のすごさ』にハートが圧倒されるはずだったのに、宮本武蔵風も「(目で)見るのではなく(心で)観るのが大切でござる」とおっしゃっていたはずなのに、最近の自分には、そういう時間が足りていなかったことを反省した。
4・ルキノさんと出会えた。
7月9日(土)に大阪のロフトプラスワンで一緒にイベントをやることになっているルキノさんが、はるばる、東京から江ノ島まで遊びに来てくれた。この日が初対面になったのだけれど、私は、とにかくルキノさんと実際に話せたことがうれしかった。この感覚をうまく説明することはできないのだけれど、ルキノさんと同じイベントに出ることが決まった時に「最高の遊びの予定がはいった!」という気持ちになった。
私は、魂が綺麗なひとが好きだ。魂などという言葉を使うと非常に胡散臭いものに響くかもしれないけれど、しかし、現在の自分には「魂」としか言えない部分を感じることが頻繁にある。私は、会ってもいないくせに「ルキノさんは、きっと魂の綺麗なひとなのだろう」と勝手に思っていた。そして、これから自分の予感が確信に変わるまでの時間を、いま、ほんとうに楽しみにしているのだと思う。
5・冬樹さんの「死なないために、生きている訳じゃない」
イベントの途中、男女4人でテーブルを囲みながら話をする時間があった。ひとりの女性が「(非常に乱暴にまとめると)いまの仕事に悩みがあって、ほんとうは好きなことをやりたいんだけど、生活もあるからお金に対する思いを消すこともできない」と話していた。それを聞いていた冬樹さんという男性が、自分の思いなどを交えながら幾つかのたとえ話をしてくれた。
話の詳細は省略するが、その途中で「死なないために、生きている訳じゃないんだ」ということを、冬樹さんは満面の笑みで話していた。その姿が、その表情が、その表情の奥にある冬樹さん自身の過去の実体験や『悲しみを通過した優しさ』から伝わる何かに、私のこころはひどく感じ入ってしまった。死なないために、生きているんじゃない。そうだよな、と、思う。俺たちは、何も、死なないために生きている訳じゃないんだ。
6・みさとちゃん(仮名)の笑顔。
イベントにみさとちゃん(仮名)という名前の二十代の女の子が遊びに来てくれた。優しくて可愛くて真面目そうなみさとちゃんは「自分には価値があるのだと思えるときもあれば、自分には何も価値がないのだと思うときもあって、自分の中にいる『みさとA』の声と『みさとB』の声にすごい悩まされることがあるのですが、坂爪さんは、そういうときはどうしているのですか」と聞いてくれた。
私は「では、『みさとC』を登場させるのはどうでしょうか?」的なことを答えた。みさとCにはゴリゴリのオラオラ的な所があり、価値があるとか価値がないとかで悩むA&Bに対して「無価値で何が悪い」と、無価値であることを肯定するある種の開き直りを見せる。彼女の口癖は『無駄こそJOY』であり、みさとCは、無意味に意味を覚え、無目的に目的を見出し、無価値に価値を観る。そういうキャラクターを自分の中に培うというのはどうでしょうか??的な話をした。
私の話はどうしようもなく支離滅裂なものになってしまったけれど、みさとちゃんが、私の話を聞きながら笑顔になってくれたことがうれしかった。そして、帰り際に「なんだかいろいろなことがどうでもよくなりました」と声をかけてくれたときに、ああ、いま、確実に俺たちの間に風が吹いているなあといううれしさを覚えた。いろいろなことが、後ろ向きな意味ではなくどうでもいいことのように思えたときに感じるこの気持ちこそが、きっと、自由だ。
7・空海と「俺は、一喜一憂していたいのだ」
最近の私は禅的なサムシングにはまりすぎていて、幸せになりたいと思うから不幸になるのだ、執着があるから、欲望があるから苦しみも生まれる訳であって、自分をなくせば、欲望を消せば楽になれるのだという思考に(非常に短期間ではあったものの)はまりつつあった。しかし、空海の思想にまつわる本を読みながら、ああ、俺はやっぱり(人間の欲望や煩悩や執着をする思いなども含めて)生きているということをまるごと肯定していたいのだ、という思いに立ち返った。
空海は「無我より大我、無欲より大欲」というようなことを言っている。この言葉を私なりに解釈すると「自我を消すなんて無理だよ、同時に、欲望を消すなんて無理だよ、自我や欲望があってこその人間なんだ、大切なことは欲望を消そうとすることよりも、どうせなら『自分のため』だなんていうけち臭いものに囚われるよりも、人類全体が幸福になってしまうようなビッグな欲望を抱けよ」ということになる。
直近の私は「一喜一憂する自分はダサい!もっと落ち着きたい!」などと思っていたけれど、いまでは「ああ、俺はなんだかんだと言いながら、一喜一憂していることを楽しみたいと思っているのだ。感情の揺れがなくなることよりも、感情の荒波に揉まれながら(時には溺れながら)、ああでもないとか、こうでもないとか、死ぬ!とか、生きる!とか、ギャーギャー言っていたいのだ」と思った。
8・「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」
わたり喫茶に参加をしてくれた女性が、終了間際、ほんとうに、ほんとうに楽しそうな表情を浮かべながら「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」と話してくれた。その言葉が、その表情が、ほんとうに嬉しかった。彼女がうれしそうにしてくれたこともうれしかったけれど、自分のよろこびや、自分が感じているうれしさは、決してひとりよがりのものでもなかったのだという事実が、ほんとうに嬉しかった。
誰かのために生きている訳ではないけれど、やはり、自分が楽しいと思うことも他の誰も楽しいと思ってくれることの中には、言葉にすることのできないうれしさがある。たとえば、それが「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」という言葉に象徴されるような形で自分の目の前に差し出されたときに、ああ、人生は捨てたもんじゃないなあ(というか、最高だなあ)という気持ちになる。
9・布施明の『MY WAY』
江ノ島から熱海に戻る車の中で、私が愛してやまない布施明の『MY WAY』を爆音で流しながら熱唱をした。ああ、なんて素晴らしい歌詞なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい声量なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい表情をしながらこのひとは歌を歌うのだろうかと、何がなんだかいろいろなものが「最高だなあ!」という気持ちになり、そして、私の中に新しい夢が生まれた。
自分も布施明のように『MY WAY』をカンツォーネ風に高らかに歌い上げることができたのならば、もう、最高に気持ちいいだろうなあと思った。やりたいことは何もない、夢も目標も具体的なビジョンも何もなかった私にも、それが実現したことを考えるだけでも胸がワクワクするような『夢』ができた。それは、布施明のMY WAYを高らかに歌い上げる日が来ること。隙間時間を見つけては、カンツォーネ的なサムシングの自主練習を日々に取り入れよう。
10・夕陽が綺麗だったこと。
イベント終了間際に、夕日の光が差し込んできた。
まるで、1日のご褒美みたいじゃないかと思った。
夕日に「生きるんだよ」と言われている気がした。
乱暴な表現になるけれど「この夕日の素晴らしさは、ものをたくさん持っているひとには味わうことはできないのだろうなあ」という気持ちになった。夕日の美しさは、自然の素晴らしさは、多分、なにもないやつほど深く味わうことができる。なにもないからこそ、全体に染み渡ってくる何かを受け取ることができるのだし、なにもないからこそ、目の前にあるものを全力でよろこぶことができる。
そして、私は、余計なものは捨てていきたいという気持ちになった。まだまだ、いまの自分には、余計なものが身体全体にびっしりとこびりついている。これは、きっと、捨てていける。これはなくても、生きていける。生きていることを、よろこんで行ける。そして、身体の奥の方から、何かに感謝をしたくなる気持ちが湧き出してきた。自分や自分の人生全般を見限りそうになることもあるけれど、心の底では「すべてを肯定していきたいのだ」と思っている、自分を取り戻すことができた1日になった。
仕事はつらいものだとか、ひととひととは分かり合えないものだとか、人生はこんなものだとか、後ろ向きな意味での「こんなものだ」に負けちゃいけないのだと思う。人間は、多分、自分が決めただけ幸せになれる。奇跡は何度でも舞い込むし、そこには「こんなものだ」という天井はないんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月28日
人生は続く。
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