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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

さみしいなあ、さみしいなあとぼやきながら、また、ひとりになるんだろう。

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東京都美術館で開催中の若冲展に足を運んだものの、あまりの人混みに「これは無理だ」と思い、100分待ちの大行列を横目に眺めて退散をした。300年前に生まれた人間が、現代を生きる人間たちの大行列を織り成しているという事実を前に、強い感動を覚えた。5月24日(火)まで開催中の『若冲展』の前売りチケットが、いま、手元に一枚ある。ご希望される方に無料で郵送をいたしますので、必要な方は下記連絡先より坂爪圭吾までご連絡ください。

坂爪圭吾 keigosakatsume
MAIL keigosakatsume@gmail.com

※※※ こちらのチケットは、東京都にわたりました ※※※

昨夜は空港に泊まり、いま、成田空港の第二ターミナルからこの記事を更新している。今日の昼頃には愛媛県松山空港に到着して、12日(木)に尾道迎賓館で開催されるトークイベントに出た後は、何も予定が決まっていない。中国界隈や関西界隈で時間のある方がいたら、いつでも気軽にご連絡ください。現在の所持金が四桁程度ではあるものの、可能な限り、疾風の如く足を運べるように努めます。

諦観の先に得たもの。

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諦観などという大袈裟な言葉を使うのも恥ずかしいことだけれど、昔、家を持たない生活をしていた頃は「今世においては、自分のような社会不適合者には、普通の家庭とか、普通の暮らしとか、そういったものを手にすることは不可能なのだろう」と思っていた。悲嘆に暮れる訳でもなく、卑屈になっている訳でもなく、ただ、薄ぼんやりとそのように感じていた。そして、いま、不思議なことに(そして、非常にありがたいことに)熱海に自分の家が与えられた。諦めていたはずのものが、いま、まさに自分の掌の中にある。

自分に家が与えられたことを自慢したい訳ではなく、諦めていたはずのことが(諦めてからより一層の加速度を増して)実現しているという事実に、人生の不思議さを覚える。幸せになりたいと思っていた頃は、幸せから随分と遠い所にいた。幸せなんてどうでもいいと思うようになってから、前より心は穏やかになり、周囲に惑わされることも躍起になることも減って、気がつけば「幸せになりたいと思っていた頃よりも、よほど幸せになっている」ように感じている。

そして、いま、与えられたはずの家を飛び出して、再び「擬似的な家のない生活」を始めている。いったい、自分は家を持ちたいのか、家を捨てたいのか、安定したいのか、安定したくないのか、幸せになりたいのか、不幸せをくらいたいのか、自分でも、自分のことがわからなくなる。わかることと言えば、生きているということの実感を覚えたいと思っていること、自分の中に拭い切れないさみしさがあるということ、そして、古い自分の小さな殻を突き破り、新しい世界に飛び出してみたいと胸を焦がしている、未熟で強い【こどものような、獣のような】渇きがあるということだ。


『禅とはなにか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、鎌田茂雄著作『禅とはなにか(講談社学術文庫)』です。少しだけ減らすことを考えれば、減らした分だけ、世俗から抜け出すことができる。幸せになりたければ(「幸せ」という言葉が適切なのかはわからないけれど)、多分、捨てることだ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、バルセロナにわたりました ※※※

人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。たとえば、もし友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ煩わしいいざこざから逃れられるし、発言するのを少しだけ減らせば、その分だけ過失がなくなる。また、思案するのを少しだけ減らせば、その分だけ精神は消耗しないし、利口ぶるのを少しだけ減らせばその分だけ本性を全うすることができるのである。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を、自分から手かせ足かせで束縛しているようなものである。


孤独や無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘ること。

宮沢賢治に『告別』という詩がある。この詩の中に、私の好きな箇所がふたつある。ひとつは「おまえのいまのちからがにぶり / きれいな音が正しい調子とその明るさを失って / ふたたび回復できないならば / おれはおまえをもう見ない / なぜならおれは / すこしぐらいの仕事ができて / そいつに腰をかけているような / そんな多数をいちばんいやにおもうのだ」であり、ひとつが「みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに / おまえはひとりであの石原の草を狩る / そのさびしさでおまえは音をつくるのだ  / 多くの侮辱や窮状のそれらを噛んで歌うのだ / もしも楽器がなかったら / いいかおまえはおれの弟子なのだ / ちからのかぎり / そらいっぱいの / 光でできたパイプオルガンを弾くがいい」になる。


私は、多分、自分が自分に見捨てられてしまうことを恐れているのだ。「おまえのいまのちからがにぶり / きれいな音が正しい調子とその明るさを失って / ふたたび回復できないならば / おれはおまえをもう見ない / なぜならおれは / すこしぐらいの仕事ができて / そいつに腰をかけているような / そんな多数をいちばんいやにおもうのだ」ということを、自分以外の誰かではない、その言葉が、自分自身の内側から自分に向けて出てしまうことを恐れている。


自分は自分のままで咲き誇り、自分は自分のままで散り誇る。「みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに / おまえはひとりであの石原の草を狩る / そのさびしさでおまえは音をつくるのだ  / 多くの侮辱や窮状のそれらを噛んで歌うのだ / もしも楽器がなかったら / いいかおまえはおれの弟子なのだ / ちからのかぎり / そらいっぱいの / 光でできたパイプオルガンを弾くがいい」のだと、嬉しさや楽しさだけではない、悲しみの中にも、苦しみの中にもよろこびはあるということを、孤独や自分の無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘るのだということを、花に水を与えるように、いまはまだ言葉がなければ枯れてしまいそうになる自分の心に、言い聞かせている。



「告別」

おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかがやく
天の仕事もするだろう
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村の一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
それらのどの人もまたどの人も
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材というものは
ひとにとどまるものでない
(ひとさえひとにとどまらぬ)

云わなかったが
おれは四月はもう学校にいないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音が正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけているような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ
もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光の像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい

宮沢賢治春と修羅 第二集』より


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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MAIL keigosakatsume@gmail.com