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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

【KUL-新潟】偶然を偶然と思わないこと。

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クアラルンプールを経由して新潟県に入り、内野駅前にあるイロハニ堂さんという素敵なカフェで小規模なイベントに出演(?)した。日本海に沈む夕陽が綺麗だった。最近は静かな日々を過ごすことができていて、自分や、自分を取り巻く環境について、落ち着いて考えることができる。


自分を擦り減らすような相対的な比較や競争から距離を置くこと。絶対的な自分に集中すること。これらからはじまる最近の自分の感想は、新潟で行われたイベントで強化された。このイベントでは、数日前に訪れたスペイン&モスクワ滞在についての報告も兼ねていた。

一回死ぬことで開く扉がある。

この日のイベントで話された内容を乱暴に要約すると「一回死ぬことで開く扉がある」というものになる。その日、スペインにて様々なアクシデントに見舞われた我々の所持金が限りなく0円に近づいて死にかけた話をした。このままで日本に帰ることすらままならないという状況に陥った私たちは、さて、どうしたものか、このままスペインで無様に野垂れ死ぬのだろうか、嫌だな、などと思っていた。そのような状態に置かれていた時に、奇跡は起きた。

結論から言うと、私たちを助けてくれる様々な出会いに恵まれて、私たちは難を逃れた。難を逃れたばかりか、金がある時には想像もしていなかった素晴らしい出来事に遭遇することができた。何かがある時よりも、何かがなくなってからの方が面白い目に遭遇することができたのだ。ゼロになることで膨れ上がる何かがある。この現象には何かのヒントがあると感じていた。


「最初に心が諦めるんです。でも、身体は全然元気なんです!」という高橋尚子選手の笑顔。

私と一緒にスペインとモスクワを訪れたK氏は、過去に一度だけ新潟でフルマラソンを完走したことがある。その日、彼は35キロ地点で力尽きた。自分の体力を完全に使い果たしてしまった。前に進みたくても、身体がまるでいうことを聞かない。足を前に動かすだけでも精一杯で、とてもじゃないけれど42キロを走りきることは不可能だと思われる状態に置かれていた。

「もうダメだ」と思っていたK氏の後方から、ふと、新潟マラソンのゲストランナーである高橋尚子選手が満面の笑顔で走ってきた。高橋選手はK氏を見て「ほら!お兄さんも一緒に走るよ!」と声をかけてくれた。K氏は舞い上がった。どうしようもないレベルでうれしくなってしまって、いままでの疲労が嘘のように、再び高橋選手と走りはじめた。高橋選手はそんなK氏を見て「全然走れるじゃないですか!」と、満面の笑顔で声をかけてくれた。

「最初は心から諦めるんです。でも、身体は全然元気なんですよ!」と、高橋尚子選手は言った。K氏は、自分の身体に起きている不思議な変化を目の当たりにしながら、本当にその通りだなあと思っていた。そして、驚いたことにそのまま42キロを高橋選手と同じスピードで走りきることに成功した。


奇跡はひとを通じて運ばれてくる。

他にも様々なエピソードを話したけれど、人間は、生きていれば、何度も「もうダメだ」と思われるシーンに遭遇していると思う。所持金が0になったり、体力が0になったり、試験に落ちてみたり、鬱病になったり統合失調症になったり椎間板ヘルニアになってみたり、借金にまみれてみたり、もうダメだと思われる地獄の時代が、誰のもとにもひとつやふたつはあったはずだ。

それにも関わらず、私たちはいまも平気で生きている。所持金が0になって「もうダメだ」などと思っていたら、思わぬ奇跡が舞い込んで素晴らしい目に遭遇できる状態に置かれたりした。体力が0になって「もうダメだ」などと思っていたら、高橋尚子選手の登場により嬉しさが舞い上がって、自分でも驚くほどのスピードでフルマラソンを完走できた男もいる。この現象は何だろうか。一度ゼロになることで、ゼロにならなければ決して味わうことができなかった素晴らしい出来事に遭遇することができる、この不思議は何だろうか。

ひとつだけ言えることは「奇跡はひとを通じて運ばれてくる」ということだ。私たちが所持金0でスペインを乗り越えられたのは、私たちをマヨルカ島に呼んでくれた人の存在による。K氏がフルマラソンを完走することができたのは、高橋尚子選手という人間の存在がとてつもなく大きい。いままでの人生を振り返って見ても、自分の人生が大きく動き始めたのは、誰かしらとの出会いがきっかけとなっている。奇跡は「ひと」を通じて運ばれてくる。

偶然を偶然と思わないこと。

数年前から「家を持たない生活」という酔狂なことをはじめて、それ以来、様々な奇跡に恵まれている。当たり前のことかもしれないが、こうした奇跡の大半は「ひと」を通じて運ばれている。誰かとの出会いが、自分の人生を大きく変えることがある。そのためには、常に自分の意識を(クローズドなものではなく)オープンにしておくことが大切なのではないだろうか、そういうことを思っている。それは決して「常にワクワクしている」とか「楽しいことだけをやる」という自己啓発的で浮ついているものではなく、冷静でいること(自分のチューニングを保ち続けること)であるように感じている。

そのためのささやかなヒントとして「偶然を偶然と思わないこと」があると思う。多分、私が家のない生活をはじめたことも、いま、こうして様々な場所を転々としながら暮らしていることの中にも、何かしらの意味やメッセージが含まれているのだろう。それを汲み取ることができた時、毎回、何かしらの奇跡が生じている。そんな気がしている。逆に言えば、不安や恐怖や猜疑心から、自分をクローズドなものにしてしまっている(瞬間を粗雑に扱ってしまっている)時に、不思議な展開を見せることはない。

ほんとうは、自分が見逃してしまっているだけで、目の前では常に様々な奇跡が展開しているのかもしれない。どうにかして気づくことができたほんの僅かな奇跡を頼りにいまを生きることができているが、実際は、途方もない数々の奇跡が目の前に展開されていて、手を伸ばせばいつでも届くところに、星々の瞬きのように目の前を浮遊しているのかもしれない。自分はなぜここにいて、自分はどうしてこれをしているのか。偶然を偶然と思わないことの中に、新しい突破口が含まれているような気がしている。

自分を擦り減らすような相対的な比較や競争から距離を置くこと。


偶然に気がつくためには、自分を冷静な状態に保っている必要がある。自分のチューニングを乱してくるものは、外的要因である場合が多い。自分を擦り減らすような相対的な比較や競争から距離を置くこと。絶対的な自分に集中すること。偶然を偶然と思わないこと。ふとした瞬間の閃きを大切に扱うこと。目の前にいる人間や自然のしっかりと見ること。表面的な言葉や態度の奥にある、見えない何かに届くまでしっかりと寄り添うこと。

夕陽を見ていると「今日も生きた(明日もしっかりと生きよう」という感覚になる。一日にピリオドを打つための、個人的な儀式をしているみたいだ。一日をしっかりと終えることが、明日もしっかりと生きようと思えるエネルギーになる。日が沈む。空が染まる。今日が終わる。誰もまだ経験したことのない、明日が来る。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com
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