いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

もっとふざけろ。ふざけて生きろ。

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東京。快晴。関東に戻りました。一応、私には横浜と熱海に家があるのだけれど、どちらの家も「誰でも自由に使える家」として開放している。いま、横浜と熱海には県外&国外からのゲストが滞在しているため、今夜、私が眠る場所はない。どこかに「誰でも自由に使える家とかないかなあ」などと思い、あれ、おれはなにをやっているのだろうかなと思った。

 

28日から台湾に行く。台湾で暮らす友達と会う。好きな友達と会うと元気になる。人間、やはり、好きな人と同じ時間を過ごすに限る。それまでの辛抱。台湾では隙間時間が多い。宿泊先も決まっていない。もしも「台湾くるなら会おうぜベイベー!」的な方がいたら、お気軽にご連絡ください。28日までは東京都内を中心に漂泊しています。もしも「漂泊するなら会おうぜベイベー!」的な方がいたら、茶でも、酒でも酌み交わしましょう。

 

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ケダモノと一緒に泣き、ケダモノと一緒に笑う。

ここ数日、ケダモノについて考えていた。多分、誰の中にもケダモノはいる(と仮定をして話を進める)。先日、山口県下関市の街中を歩きながら、さみしさに押し潰されていたことは前回の記事に書いた。運動をすることで吹き飛ばそうと思い、夜道をひたすら歩いてみたものの「さみしさ」が消えることはなかった。この時に思った。ああ、私は、さみしさを消したいのではなく、叫びたいのだなと思った。自分の中にいるケダモノの部分が「さみしいんだよ!」と呻き声をあげている、そんな感覚を覚えていた。

 

自分の中に棲む「ケダモノ」の存在を感じる。こいつ(=ケダモノ)は、たとえばどれだけ社交辞令を言われてもまったくよろこぶことはない。どれだけ金を集めても、どれだけ周囲からの評判を集めても、ケダモノの部分は「ケッ!」と悪態をつく。基本的に、人間社会で価値があるとされているものすべてに対して、概して「くだらない」という態度を取る。が、しかし、動物の掟(?)に添った現象には「うおおおおおおおおおおおお!!!!!」と、極めて露骨な反応を示す。泣くは人間の動詞で、慟哭するはケダモノの動詞。叫ぶは人間の動詞で、咆哮するはケダモノの動詞だ。私は、泣くことよりも「慟哭」することを求め、叫ぶことよりも「咆哮」することを求めていたのだと思う。

 

何が言いたいのかというと「ケダモノと一緒に泣き、ケダモノと一緒に笑うことができた瞬間こそ本物」ではないだろうか、と、そういうことを思った。ここで突然問う。あなたは、あなたの中にあるケダモノと一緒に泣いているだろうか。あなたは、あなたの中にあるケダモノと一緒に笑えているだろうか。自分の中にある人間の部分は笑っているけれど、ケダモノの部分は異様に冷め切っている(虚しさを覚えている)なんてことはないだろうか。あなたが、いま、もしも人生に退屈を感じているとしたら、それは、よろこびもかなしみも一切は表面的なものに過ぎないからであり、「ケダモノと一緒に泣き、ケダモノと一緒に笑っていないから」ではないだろうか。さみしいときに「さみしいんだよ!」と呻くケダモノの声を、死にたくなるときに「生きていたいんだよ!」と呻くケダモノの声を、あなたは、どれだけ聞いてあげることができているだろうか。

 

自伝風物語も更新中!書きながら感動した! 

 

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もっとふざけろ。ふざけて生きろ。

昨日、結婚するならこんなひとがいいなあと思う女性と話した。その女性は『いい感じの棘』を持っている女性で、人と話している時も「どうすればこいつを怒らせることができるか??」などと考えてしまうタイプの、明るくポップ(ここ大事!陰湿になったらアウト!)なおふざけを好む女性だった。基本的に軽やかで、ケラケラと笑う声の可憐さが素晴らしかった。小鳥のように笑う女性は最高だと思う。

 

彼女は話す。いま、自分は公務員的な仕事をしている。毎月何十万とかの給料をもらうけど、でも、そのことで「自分は公務員だ」とは思わない。自分はずっと自分のまま。明日にも肩書きは変わるかもしれないけれど、自分は、いつまでも自分のまま。だから、職業とかは「利用できるカード」みたいなものだと思っている。たまたま、いま、公務員である自分を楽しんでいる感覚。生きていることも、もしかすると、全部ドッキリみたいなものかもしれない。全部がまぼろしかもしれないし、言葉は悪いかもしれないけれど、みんなで「おままごと」をしているみたいなものなのかなって思うこともあります。と。

 

今朝、スマートフォンのメモ機能に「もっとふざけろ。ふざけて生きろ。笑いを獲りに行け。で、夜、賛美歌を聞いて泣け。」って書いた。ああ、これはもう、笑いを獲ってなんぼなんだなあと思った。思い切り生きて、思い切りふざけて、思い切り遊んで、それでもなお、思い切り傷ついてしまった夜はひとり部屋にこもって賛美歌を聞いて泣けばいい(巨木を抱き締めるのもOK!)。どれだけ強がってみたところで、毎度立ち返る地点は「弱さ」だと思う。強さに立つとき、私は不安定だ。弱さに立つとき、私は安定を取り戻す。みんな最後には死ぬ。最終的には静けさに還る。その瞬間まで、動的であるところのこの「生」を、思い切り生きてやりたいなあと思う。

 

 

 

 

 

 

坂爪さま、今日もお昼からどうもありがとうございました。台所でのカレー、ギター弾き語りやブログでは語られることのない坂爪さんのダークサイドをちょっと覗けたり、ピンク色の青春談義をさせてもらったり、たくさんお話できてとてもとても楽しかったです😌

 

ごちゃまぜの家について、今日の体験を通して考えたことがあって(ぜひ右から左へ華麗に聞き流していただきたいのですが)、ごちゃまぜの家の存在を知る人を説明しやすいように仮に荒く大別すると、もしかしたら「結構家の存在を必要としている人たち」と「正直あってもなくてもいいけど、自分に得があるんだったら(タダ飯が食える、タダで宿泊できる、自己満的な好奇心を満たせる等)行きたいって思ってる人たち」の2種類に分けられるのかもしれないと思いました。前者にとって家は(感覚的に)恐れ多い存在(だからこそ家を大切に使おうという意識もある)である一方、後者にとっては良くも悪くもある意味でエンタアテイメント化(ディズニーランドで言うアトラクション的な)しているのかもしれないと感じました。

 

坂爪さんがごちゃまぜの家で具現化したいことの全てのうち、わたしはきっとティースプーン一杯分くらいしか理解できていないかもしれませんが、願わくば、わたしはごちゃまぜの家が、その存在を結構必要としている人たちが、必要な時に、自然と誘われるような場所であってほしいと思っています(ここでの必要とは別に弱っていたり傷ついていたり困っていたりする人に限らず、ちょっと昼寝したいとか、ちょっとお茶したいとか、誰かと話したいとか、そういう必要も含む)。

 

だから、この未開の分野「Gochamaze」を可能な限り続けられたらいいのになと密かに願っています。前例もなく、先を行く人もいない中、ともするとヒッピー村かと誤解され兼ねず、或いは宗教的にアヤシイ集団の本部なのではないかと疑われてしまうかもしれない可能性もあるほどに、斬新なこのごちゃまぜというコンセプトを真っ直ぐ続けていくのは、なんだかわたしたち人間はその存在を問われている、身のふりかたを試されているんだな!!!とわけもわからず身の引き締まる思いがしました!笑

 

でも同時に、家のことを語ったり訪問者についてグチったりする坂爪さんを見て、これからごちゃまぜの家がどのような歴史をたどって行くのか、すごくワクワクもしました!現実的な問題はさておき、坂爪さんの思うがままなわけですから、どんな風にロックンロールしてくれるのか、いろいろ悩んだり葛藤もあるかもわかりませんが、思いっきりふざけてほしいなってちょっと思ってしまいました!

 

https://www.instagram.com/p/BkKOnSvl9bT/

すごいよかった。。 #別府 #竹瓦温泉 #半裸の変態じじいが牛耳っている #100円 #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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