いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。

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暇だからブログを書いちゃう。昨日、東京で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。ごちゃまぜの家を企画しているからなのだろうか、坂爪さんはどんな家庭で育ったのですかとか、両親や兄弟とは良好ですかとか、家族にまつわる質問を頻繁に受ける。こちらをご覧のみなさまは、さぁ、家族仲は良好でしょうか?お母様やお父様とはうまくいっているでしょうか??それとも、言いたいことをなかなか言えずに腹の内に抱えてお暮らしになられていらっしゃいますでしょうか???あらゆる問題の根源を遡ると「家庭環境」にたどり着くような気がする、稀に、そんな風に感じることがある。

 

 

昨日、イベント参加者の女性が「わたしは実家で両親と暮らしているのですが、家族仲があまりよくなくて家を出たい気持ちがあるのですが、家を出たら出たで罪悪感を感じてしまうし、どうすればいいのでしょうか」という話をしてくれた。わたしは、おお、これはなかなか難しい問題だなあと思いながら返答を濁した。家族や恋人は距離感が近すぎるために、自分の問題が相手の問題になったり、相手の問題が自分の問題になったりする。一度離れて見るのもいいことだとは思うけれど、なかなかそういうことができない場合、わたしたちはどうすればいいのだろうか。

 

正解は「(越後製菓!からの)ごちゃまぜの家」

極論、親子関係が問題になる最大の原因は「言いたいことがあるけれど言わずに我慢をしてきてしまった結果、溜め込んだ感情が自分のなかで腐り始めてあんまり良くない腐敗臭を発してしまうこと」にあるような気がする。 理想的な解決策は、実の両親に向かって「実はこれこれこういうことをずっと思っていた(自分はずっと寂しかったんだよとか、ちゃんと目を見て愛していると言って欲しかったなど)」と伝えることで、両者の間に長年蓄積されてきた氷の壁を溶かす作業に励むことだと思う。しかし、それができれば最初から悩まないよという話でもあると思いますので、そういう時に「ごちゃまぜの家」が前向きな効果を与える場所になったらうれしいなあなどということを思った。

 

基本的に、家族とは「血の繋がりのあるひとたち」とされているのが現代社会での常識になる。でも、たとえばシェアハウスの住人同士も家族のようなものであり、友達同士も職場も同僚も、見方によっては「すでに家族である」と言えるのではないだろうかとわたしは思う。家族という言葉には、表面的には「お互いに助け合える・支え合える・笑い合える最高の共同体」みたいなイメージがあるけれど、その裏側には「家族間の問題は家族間だけで解決をしなければいけない」という非常に閉鎖的、執着的、束縛的、密室的なイメージもつきまとっている(気がする)。わたしは、この、固定的で閉鎖的な関係性のなかに「ある種の風穴を開けたい!」みたいなことを思う。そこで、実験をしてみることにしたのが『ごちゃまぜの家』というアイデアであり、これをやったらどうなるのかということはまるでわかっていないけれど、これをやったらもしかしたらちょっとだけ面白い現象が起こるかもしれないという非常に曖昧な動機から、今回のプロジェクトは幕を開けた。

 

家族にまつわる問題を耳にする機会は多い。なぜ、家族にまつわる問題は後を絶たないのだろうか。わたしは、極論にも程があることは百も承知でそれは「シチューのCM」に原因があると思っている。シチューのCMに登場をする家族は、とにもかくにも常に笑顔で、美男美女の夫婦は仲良く、こどもも可愛い、なにかこう「家庭って最高だよね!」という雰囲気をこれでもかと醸し出している。別にそれはそれで構わないのだけれど、なにかこう、視聴者のみなさまに「家族とはこうでなければいけない」という幸福の圧力をかけている(気がする)。この『幸福の圧力【理想的な家族像の強制】』みたいなものは実は意外と厄介で、家庭を築くからには「常に笑顔にあふれた状態で食卓を囲まなければいけない(それができていない家族は家族失格である!)」みたいなことになるのではないだろうかと思うことがある。

 

家族を溶かす。

でも、別に、そんなことはないんじゃないのかなと思う。常に笑顔にあふれている必要はないし、常に食卓を共に囲む必要もないし(インドネシアのバリではそれが日常で、でも、家族仲は良好である)、なんなら「必ずしも同じ家に暮らす必要はない」とさえも思う。問題なのは、親子が一緒に暮らしていないことではなく「親子が一緒に暮らしていないことを問題だと思う」その意識であり、別に、それで誰も問題だと感じていないのであればそれで全然構わないのだと思う。逆に言えば、周囲の余計なお世話が爆発をして、普通に快適にやっていたはずの当事者が得体の知れない不安や恐怖心を埋め込まれてしまって、結果的に「こうでなくちゃいけない!」という強迫的な感覚にとらわれてしまう、そういう『同調圧力』が発生することの方が、わたしには怖いことに思える。

 

家族とは言え相手は他人で、血の繋がりがあるとは言え「(自分と同じ)ひとりの人間」であることに変わりはない。こんな風にいうとなんだか冷たく響くかもしれないけれど、でも、その通りなんじゃないのかなと思う。親は親。こどもはこども。親の考えは親の考えであり、それは決して『こどもの考え』にはならない。そこをしっかりと「分けて考える」ことが非常に大切であるような気がしていて、そこが訳のわからないことになってしまうと、いつの間にか「親【自分以外の誰か】の操り人形」みたいなことになってしまう。親は親であり、自分は自分である。以上!【それ以上でもなければ、それ以下でもありません!ありがとうございます!】という感じで、スパッと切り分けて考えることが大切であるように感じることは多い(ここを分けて考えることができないと、相手の問題を自分の問題として背負ってしまうことになる気がする)。

 

下手くそな話が長くなってしまった。その辺の詳細は過去記事にも書いたのだけれど、わたしは「(家族をつくりたいのではなく)家族を溶かしたい」のだと思う。なんていうか、もう、ひとりひとりの人間が『みんなの父親であり、みんなの母親であり、みんなのこどもである』ということでいいんじゃないだろうかと思う。家族とは何か。それは、いま、あなたの目の前にいるひとのことである。なんだかもう、それだけでいいのではないだろうかと思う。血の繋がりというものは、実は、それほどたいした問題ではない(実際、母と父の間に血の繋がりはない)。家族だから無理をしてまで仲良くする必要もない、家族だからおもてなしを用意する必要もない、家族だから過剰に気を遣う必要もない(それは「お客さん」にすることだ)。愛想笑いの必要もない、自分を大きく見せる必要もない、そんなことよりも「自分の素の状態に一番近づける」空間、誰もが自然体で無理のない態勢でいながらも同時に全体の調和は謎にとれてしまっているような、ごちゃまぜの家がそのような場所として機能をすればいいと思う。

 

【過去記事】一夫多妻制を凌駕するネオ概念「一夫八百万妻制(通称『やおよろぷ』)とは何か。 - いばや通信

 

『奇跡の絶景』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、講談社刊行『奇跡の絶景』です。こちらの本は、ベリーズ中央アメリカ北東部、ユカタン半島の付け根に位置する国】で旅行会社を経営していらっしゃる日本人女性から「ベリーズの自然は素晴らしいので、是非!」ということで譲り受けた一冊になります。この広い世界にはまだまだ、見たこともない素晴らしい景色が無限に広がっているのだということを思い出させてくれる壮麗な風景の数々に、小生、圧倒されっぱなしでございました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、マウイ島にわたりました ※※※

 

なぜ、これほど完璧な円を描いているのか。なぜ、これほど濃い青色を湛えているのか。まるで隕石が落ちた穴のような巨大な青い正円を眼前にすると、この疑問が当たり前のように頭に浮かぶ。

 

世界有数の透明な海を穿ったように開いた巨大な「穴」。穴の直径はおよそ300m、深さ120mを超える大穴だ。その深さは太陽の光が届く水深100mをはるかに超えている。さらに外周に広がる浅瀬のサンゴ礁とのコントラストがあいまって、この穴はひときわ深い青色に輝いている。ライトブルーのカリブ海で群を抜いた存在感を放つ正円は、「カリブ海の宝石」と讃えられる一方で、土地の人からは「怪物の寝床」とも呼ばれており、得体の知れない恐ろしさをも感じさせている。真の美というものは、そんな両面を備えるものなのかもしれない。

 

『奇跡の絶景 Miracle Planet 7』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。

花を贈る。手料理をつくる。手紙を書く。わたしは、これらの営みを愛している。しかし、これらの行為は、効率至上主義的な現代社会においては、ともすると「やるだけ無駄【花を飾っても1円の得にもならないし、手料理は手間ひまがかかるし、手書きよりもタイピングの方が圧倒的に早い】」ということになるのかもしれない。ただ、ごちゃまぜの家が実現をした暁には、どうしてなのだろうか「このような非効率なものこそを取り入れて行きたい!」という思いがある。理由は単純で、多分、花をもらうと嬉しいからだ。手料理をつくってもらうと嬉しいからだ。手紙をもらうと嬉しいからだ。家に帰ってポストを開ける。ポストの中に手紙がある。宛名を見る。手書きの文字が書かれている。贈り主の名前が書かれている。手紙を抱えて家にはいる。椅子に座る。封筒を開ける。書かれている文章を読む。こころが温かな気持ちになる。こころが温かな気持ちになりながら「返事を書こう」という気持ちになる。こういうこころの働きを、こういう人間的なつながりを、わたしのこころは「いいな」と思う。

 


クラウドファンディングの御礼として、支援者の方々と電話で話をする。この前、ひとりの女性と話をした。その方は「これまでとは違うお金の使い方をしたいと思って、今回ご支援をさせていただきました。自分でもうまく言葉にできないのですが、消費ではないお金の使い方をしたいって思っていて、このプロジェクトを見たときに『これだ!』と思ったんです」と話してくれた。この言葉は、なんだかほんとうにうれしかった。この言葉を聞くために(そして『あなたに出会うため』に)この企画をやっているのだと言っても過言ではないのだという、そういう気持ちになった。今回のプロジェクトをはじめてほんとうによかったと思えることの理由のひとつに、支援者の方々が「正しさではなく『楽しさ』で反応をしてくれている」というものがある。それは、言い方を変えると「支援をする側と支援をされる側に分割されるものではなく、境界線を超えて『一緒に遊んでいる』だけなのだ」という感覚に近い。わたしたちは、何か社会的な問題を解決するために一致団結をしようとしているのではない、ただ、ごちゃまぜの家を通じて『一緒に遊ぼうとしている』だけなのだというこの感覚が、わたしには、とてもうれしいものとして響いてくる。

 

 

自分の中に「採算の取れないことをやろう!」という思いがある。わたしは、採算性のあることを考えることが非常に苦手なタイプの人間で、活動を維持するためには月額これくらいのお金が必要になるからそのためにはこれとこれとこれをやって、みたいなことを考えることができない。だからこそ「採算の取れないことをやろう!【その活動が必要とされるものであれば必ず誰かに生かされるだろうし、必要とされることがなければその時は潔く散ろう!】」という初期衝動から、今回の企画をはじめた。誰かに笑ってもらえたらそれだけでも嬉しいと思ってはじめたものの、蓋を開けたらこれほどまでの支援と恩恵を受けることができている。これはもう、支援者の方からも「どんどんやれ!」と言われているのだなと思うことにした。何か新しいことをやる時に、多分、もっともらしい理由なんていらなんだ。こころない人の声にダメージを受けまくることもあるけれど、他の誰でもない自分自身の直感が「これをやったら面白そうだ!」と感じる方向に、自分の内部に宿るナビゲーターが「こっちだ!」と導く方向に、思い切り舵を取っていきたいのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BS-GQxoDyEt/

何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。。。

 

人生は続く。

 

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