いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

最後の一人になったとしても、闘い続けること。

 

芸能人が離婚や不倫をすると「無責任だ」とか「あり得ない」といった批判の声が殺到する。時には「人間のクズだ」と言う人もいる。誰かをクズ呼ばわりする時、その人は正しい側にいるつもりかもしれないが、その人自身もクズになっている。誰かの一部分だけを取り上げて、それがその人の全部であるかのように語るのは違う。わたしたちは、その人の全部を知らない。知り得ない。「知らない」という前提に立つ時、傲慢な自分を律することができる。謙虚になる。わたしたちの根底にある思いは、他者を裁きたいと言う思いではない。できることならば、許したい。本当を知りたい。分かり合いたい。許せないものを抱きながら生きる人生は辛い。

 

おおまかなスケジュール

9月1
(木)京都府〜福岡県
9月4日(日)EVENT出演@福岡市中央区桜坂

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

本当に善いことなら、持続できる。

世の中に断言できることは少ないけれど、道端のゴミを拾った時の「善いことをした感」と同じように、花を配る時間に確かな手応えを感じる。金銭的にはマイナスだし、花は枯れる。永遠ではない。それでも、花を手渡した時に「自分にも他人にも善いことをしている」という感覚を得る。真理と呼ばれるものは、常識と真逆のことが多い。一般的に損と呼ばれているものが得になり、得と呼ばれているものが損になる。花を配って何になるのかという問いもしっかりと自分の中にあるが、花を配りたいと思う。千本。先月まで、鶴を千羽『集める』営みをした。今度は、花を千本『配る』営みをしたい。その結果、何が待っているのかは知らない。ただ、武者修行に出たいという思いがある。大袈裟に言えば、一度、破滅を経験したい。

 

報われる喜びと、報われない喜びがあると思う。何年もの間、死に物狂いで音楽を作り続けたとする。まともに食わず、まともに眠らず、一般的な生活とはほど遠い貧しい暮らしを続けたとする。誰にも認められず、誰にも見向きもされず、何一つ報いを受けなかったとする。その時、周囲の人々は「あいつは人生を無駄にした」と言うだろう。物事の価値は、普通、どれだけ他人の票を集めたかで定められる。しかし、私は、自分の人生に何の報いも受けない時期を持つことは、誰にも奪えない宝になると思う。見返りのある苦労なら誰だってする。しかし、何の見返りもないと知って、それでも苦労の多い道を歩くと言うことは、その道を歩いたことのある人にしかわからない宝を残す。死なないでいることと、生きていることは違う。報われるからやるのではなく、報われないとしてもやる。報われない道を歩く時、死なないでいるだけではなくなる。報われない喜びは、報われる喜びに匹敵する。

 

自分の仕事について考える時、出会い続けることというワードが思い浮かぶ。一般的な仕事とは異なるが、出会い続けること。外に出て、人間に出会い、人生に触れる。哀しみに触れ、痛みに触れ、喜びに触れ、共に叫び、共に笑う。ある人が言った。心地良いものだけを集めていたら、退屈をするようになった。今の環境は恵まれているし、生活には困らないし自由だけど、なんか違うなという感覚がある。だけど、現状打破して思いっきり変える元気や行動力もない。生きることへの意欲が薄くて、空っぽというか虚無感ある日々が続いていたのだけど、本当は、魂揺さぶられるような体験をいっぱいしたい、魂喜ぶ生き方をしたいっていう想いがあることに気がついた、と。やりたくないことを無理にやる必要はないと思う。だが、嫌なことを排除し続けていると、生きる気力までなくなってしまう。やりたくないことをやらないことより、やりたいことをやることだ。やりたいことの中には、やりたくないことも含まれている。それでも一歩を踏み出すことで、命が踊る。魂が揺さぶられるような体験に、生まれてきてよかったと思える瞬間に、一歩、近づく。

 

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最後の一人になったとしても、闘い続けること。

自分だけがはみ出しもので、周囲の人々がうまくやっているように見える時、自分は生きていなくてもいいと思う。多くの人々が「いい」と思うものを、自分は「いい」と思えない時、だったら自分がいなくなればいいと思う。そう思う時、私は、傲慢の渦に飲まれている。人の哀しみを知らず、人の痛みを知らず、偏った思い込みの世界で「あの人はこうだ」とか「世界はこういうものだ」と決めつけて、勝手に疎外され、勝手に一人になる。本当には苦しんだことのない人、なんていない。ただ、苦しみを出していないだけだ。その人の一部分だけを取り上げて、それが全部であるかのように語ることは違う。何かを「ダメだ」と思う時、自分自身もダメになる。何かを「素晴らしい」と思う時、自分もまた、素晴らしさの一部になる。

 

一般的に、私たちはうまくいったことよりもうまくいかなかったことの方を多く考える。あれができなかった。これができなかった。また逃げた。また怠けた。またやらなかった。そして、最終的に自分はダメな人間だと決定づける。確かにあったはずのできたことを忘れ、得たことを忘れ、感謝すべきことを忘れ、それが全部であるかのようにダメな部分ばかりを取り上げる。だが、やれたことは絶対にある。ダメな一日の裏側には、ダメな人生の裏側には、ダメな人間の裏側には、必ず「捨てたものではなかった自分」がいる。やれなかった部分ではなく、やれた部分が自分だ。みんなが「いい」と思うことではなく、自分が「いい」と思うことをやれた部分が自分だ。最後の一人になったとしても、それでも闘い続けた部分が自分だ。

 

いつまでも心地よい場所にいたいと思うが、嫌なことや面倒臭いことは先延ばしにしたいと思うが、大事なことは出発することだ。自分から動き出すことだ。歩き出す前が一番疲れている。歩けば歩くほど、湧き出してくる元気がある。歩けば歩くほど、湧き出してくる出会いがある。歩けば歩くほど、湧き出してくる魂がある。生きることを先延ばしにしてしまってはいけない。いざという時に使い物にならない自分を見ることは、この世で一番情けないことだ。睡眠不足はちょっと辛いが、あの世でぐっすり眠れればいい。最後の一人になったとしても、闘い続けること。その心意気さえ忘れなければ、潔く、晴れ晴れと人生の幕を下ろすことができる。

 

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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