いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

被害者になんてならないで、ヒロインのまま笑ってよ。

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京都駅でY様に会った。最近思うことはあるかと聞いたら「想像力って、自分ができる範囲の外側に及んだ時、はじめて想像力と言うのだと思いました」と言った。私は、綺麗なものを見るとか美味しいものを食べるのもいいけど、謝るべき人に謝ることでこころが解放されることってあるよねと話した。よろこびに触れるだけではなく、かなしみに触れることによっても、こころは安らぎを得るよねと話した。

 

おおまかなスケジュール

12月26日(日)東京

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

俺たちは、とっくの昔から許されている。

女性二人組から「会いたい」と連絡をもらった。相手が複数名いる場合、集中力が分散するためいつも以上に力を使う。A様が「私は人の話を聞くことが好きだ。人は、自分の話をしている時が一番楽しいと思うから、私はそれを聞くようにしている」と言った。私は、それはちょっと違うと思った。自分の話をするのが楽しいのではなくて、人生に触れたと思える瞬間が楽しいのだ。人生の中には、当然、自分も含まれている。だが、A様の言い回しには自分が含まれていないと感じた。だから、そのことを伝えた。いい人といい人の振りを続けることは違う。そんなものが俺に通用すると思うな。人間を舐めた態度は必ずバレる。バレずに気持ち良くなって調子に乗ってベラベラしゃべる人も多いが、そんな人と繋がっても意味がない。

 

時折「他の人とはどういう話をされるのですか?」と聞かれる。だが、そんなことを聞いても仕方ないだろうと思う。他の人がどうかなんてどうでもいいことで、大事なことは自分がどうしたいかだ。今までで一番印象的だった出会いは誰ですかとも聞かれるが、バカなことを聞くなと思う。俺は、今、この瞬間を一番印象的な時間にしたいと思っているんだよ。それなのに、ここにいない人間の話をするなよ。上っ面だけ取り繕って表面的な会話でこの時間を終わらせようとするなよ。正解を求めたくなる気持ちもわかるが、自分という存在に前例はないんだよ。自分を生きるしかないんだよ。だから、もっと自分を出してみろよ。そういう気持ちになる。

 

超偏見だが、正解を求める心理の裏側には「自分はここにいてもいいのだろうか」という不安や恐怖心があるからだと思う。しかし、そんなものはいいに決まっているのだ。いいに決まっているから会っているのだし、いいに決まっているから一緒にいることができているのだし、いいに決まっているから生きていることができているのだ。最初から許されているものを、許すだの許されないだの言いはじめるからおかしくなる。違う。いいのだ。俺たちは、とっくの昔から許されているのだ。ここにいるってことが、許されているってことの最大の証明だ。だから、さあ、そういうことはどうでもいいことだから本当に話したいことを話そうよ、と、思う。

 

被害者になんてならないで、ヒロインのまま笑ってよ。

同席した女性M様は言った。坂爪さんを見ていたら、相手のコアに肉薄するという付き合い方を今まで自分はしてきたことがなかったなと思った。相手がそれでいいならそれでいいのか、余計な言葉を言うのは自分のエゴかと思って自分の気持ちを引っ込めてきたが、それさえも出していいのかと思うと生きることが楽しみになった。と。それを聞いて思った。確かに、余計なことを言うのはエゴかもしれない。しかし、言うことがエゴならば、言わないこともエゴだ。どちらのエゴを選ぶかは自由だ。自分の気持ちを言葉にすることはエネルギーを要する。言いたいことを言わないでいることは、表面的にはエネルギーを温存しているように見える。しかし、実際は温存しただけエネルギーは死ぬ。エネルギーは、温存をすると、死ぬ。

 

おかしいと思うものには、おかしいと言っていかなければ生きていけなくなる。自分が嫌だと思うものは、跳ね返していかないと生きていけなくなる。愛のある言い方を考えなきゃとか、怒る自分の心の狭さが問題だとか、違う。当然、愛にあふれた行為ができた方がいいに決まっている。しかし、自分が聖人君子になるのを待っている間に、寿命が来る。うまくやれるようになってからやるのではなく、へたならへたなまま、へたなまま出す。おかしいと思うものにはおかしいと言う。誰かを傷つけない限り何をしてもいいと言うが、違う。傷つけることも含めて、傷つくことも含めて、何をしてもいいのだ。何かをやるということは、傷つける可能性を抱くことだ。傷が、傷こそが、私たちを解放させることもある。生きた証に、なる。

 

涙を目にすることがある。涙を流す人は「ごめんなさい」と言って、涙を押し殺そうとする。だが、私は、涙ほど純粋なものを知らない。人間が流し得る最上の純粋さが、涙だと思う。時折、号泣に触れることがある。号泣をするためには、深い悲しみと、深い喜びが必要だ。悲しみだけではダメで、喜びだけでもダメで、それらが合致して噴き出した時、号泣になる。号泣をしている人間は「可哀想」と思われることが多い。だが、私は、号泣している人間を世界で一番幸せ者だと思う。そこに人間の全部を感じる。喜怒哀楽の全部を、悲喜交交の全部を感じる。今日、あなたが、世界で一番生きていると思う。一等賞だよ、あんた、今日のあんたは一等賞だよと言いたくなる。そして、私たち一人一人も、本当は誰もが号泣し得る何かを抱えながら生きているのだと思う。さみしさが号泣となって噴き出した。そういう瞬間を、そういう可能性を、そういう悲喜交交を、誰もが抱えながら生きているのだと思う。涙は、朝露に似ている。朝露を見ると、夜を越えたんだな、と、思う。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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