いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

愛するとは、自分の命を相手にやること。

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外苑前のドトールにいる。ムーミンパパの思い出という本に、パパとママの出会いが描かれている。ムーミンパパは孤児で、海のオーケストラ号という船に乗って冒険をする。その道中、溺れている女性を発見する。必死に助け出すと、彼女は「海がおしろいを、だいなしにしたようよ」と言う。パパは「そのままだってきみはきれいだよ」と言う。救助した女性がムーミンママで、その後、二人は結婚をする。危機的状況なのにユーモラスで、全員が自己中心的なムーミンの世界観が好きだ。

 

おおまかなスケジュール

12月8日(水)東京

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

諦めるなって言うけれど、諦めた人なんて一人もいない。

自分が溺れて命の危機に晒されているにも関わらず、ムーミンママは「私のハンドバックはどこ?私のハンドバックはどこ?」と尋ねる。命よりもハンドバックを気にするのだ。パパは「ハンドバックなら、きみがもっているじゃないか」と言う。ムーミンママは「あら、あったわ」とか言いながら、コンパクトを取り出す。そして、鏡に映る自分の姿を見て「海がおしろいを、だいなしにしたようよ」と言う。それを聞いたパパは、即座に「だけど、そのままだってきみはきれいだよ」と答える。パパもママも自分勝手で身勝手だ。だが、彼らの人生を物凄く素敵に感じる。

 

昨日、都内某所でタッカンマリを食べながらお酒を飲む機会に恵まれた。話題にあがったテーマは『家族』だった。私は、行く先々でこんな言葉を頻繁に耳にする。やりたいことをやりたいのだが、家族がいるからそんなことはできない、と。誤解を恐れずに言うと、私は「それはお前のミスだろ」と思う。お前のために俺は嫌な仕事を頑張って続けているんだぞ的な背中を見せられるよりも、自分の理想に挑み続ける姿を見せた方がこどもも喜ぶ気がするのだが、人にはそれぞれ事情がある。超偏見だが、家族を持つと「自分達さえ良ければそれでいい」という思考の土壌が生まれやすい。そして、自分を守ろうとする狭さが息苦しさや窮屈さをもたらす。家庭には幸せなイメージが強いが、底冷えするような優しさに満ちた家庭は多い。

 

愛のない家庭にこどもは育たないという言葉を読んだ。よく、教育関係者の人間が「怒ると叱るは違う。怒らないで、叱りましょう」みたいなことを言う。だが、私は逆だろと思う。躾とは何か。みんなの迷惑になるからやめなさいとこどもを叱る親をたくさん見る。だが、これは冷たい仕打ちだと思う。迷惑だと感じた人間が怒ればいい。みんなの迷惑になるからやめろと言うより、自分が嫌だからやめろと言えばいい。世間体を気にする親の姿をこどもは見抜く。ああ、この人は自分よりも世間体を守ることの方が大事なのだなと見抜く。経済的には恵まれていても、暴力や飢えなどはなくても、底冷えするような優しさに囲まれた環境はこどもの将来から希望を奪う。家族の間で培った感覚は人間関係全般に及び、他者に踏み込めない人間になる。怒られたいのは、踏み込まれたいのは、愛に触れたいと思うからだ。

 

note.com

 

愛するとは、自分の命を相手にやること。

昨日、冷たい雨に打たれながら重い荷物を長時間徒歩で運んだ時は心が砕けそうになった。だが、面倒な事態になった時も自分の態度は選択できる。ふざけんなよと喚き散らして不機嫌の沼にはまることも、おいおいおいおいと突っ込みながら事態を俯瞰して面白がることもできる。ふざけんなよと思う時は気分もサガる。だが、おいおいおいおいと思う時は気分がアガる。ただでさえズブ濡れという被害を被っているのに、更に「不憫だ」と思うことで二重の不幸を背負う必要はない。どのような事態も面白がれたらネタになる。ネタにできたら覆る。不運も笑い話になる。

 

昨日お会いしたM様が「私は病気で片方の卵巣を摘出し、こどもを作るためには妊活治療をする必要がある。前に妊婦がたくさん集まる場に行ったのだが、妊婦たちからは生のエネルギーを強く感じて、自分からは死のエネルギーを強く感じた」と言った。この話を聞きながら、私は先日お会いした一人の女性を思い出していた。その女性はお金がたくさんあり、悠々自適な生活を続けている。行きたいと思う場所には何処でも行けて、食べたいと思うものはなんでも食べられる。だから私は幸せだ、感謝しなくちゃいけないねと言っていたのだが、どことなくさみしそうに見えた。極めて余計なお世話だが、もう、自分を満たすことに飽きている印象を受けた。自分を満たすことよりも、自分以外の何かに自分の命を注ぎたい、自分を越えたものを「生む」「育む」「繋ぐ」ことを、彼女の心は求めているように見えた。

 

幸せとは何かわからないまま、幸せをずっと求めている。物質的に恵まれたら幸せなのかと思っていたが、何一つ不自由のない環境に身を置かせてもらった時、胸に湧いた思いは「俺はここにいちゃいけない」というものだった。自分さえよければそれでいいという思いでは狭く、窮屈で、息苦しい。逆説的だが、自分の命を自分を越えたものに向かって差し出した時、最大限に自分が生きる。聖書には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とある。キリスト教は破滅的な宗教だと思う。破滅には二種類ある。心地良い破滅と、心地悪い破滅だ。私がロックンロールとキリスト教に惹かれる理由は100個以上あるが、その内の一つが「破滅を肯定する姿勢」だ。自分の生涯を丸々キリストに捧げた修道女がいる。彼女が死んだ時手元に残ったものは、ロザリオと聖書と修道着の三つだけだった。私は、こういう生き方をした彼女をカッコいいと思う。本当にカッコいいと思う。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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