いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

すべての苦しみの根源は、赦せなくなること。

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800段程度ある石段を降っている途中、一人の老人が意識を失って倒れていた。周囲には人だかりができており、高齢の女性が「大丈夫?いま、救助の人を呼ぶからね」と声をかけながら、電話で助けを求めていた。私は、その横を通り過ぎた。野次馬になるのも嫌だなと思ったし、専門知識のない自分には力になろうとも力になりようがない。ただ、ほんの一瞬「自分が老人を背負って石段を降りれば、スムーズに救助できるのではないか」と思った。だが、病人を無闇に動かすのは逆効果かもしれないという最もらしい理由を隠蓑にして、結局、私はその横を通り過ぎた。

 

おおまかなスケジュール

12月5日(日)京都

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

愛の軌跡。

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その出来事から数日経ったが、いまだに思い出す。なぜ、あの時、自分は老人を背負って石段を降りなかったのか。なぜ、私は素通りをしたのか。石段を降り終わった時、ちょうど救急車が到着した。しかし、当然、救急車は石段を通ることはできない。救急隊員が担架と共に石段をかけあがるしかないのだが、私は、見て見ぬ振りをした自分を恥じた。自分を冷酷だなと思った。老人に手を貸すことは、関わり合いの表明を意味する。もしも自分が手を貸せば、それが逆効果に出た場合、自分が失敗の責任を負うことになる。関わり合いを避ければ、責任を負うこともない。

 

だが、責任や罪悪感を避けたことによって、もやもやとした後悔が生まれ、より一層の罪悪感が募った。たとえ裏目に出たとしても、具体的に手を貸すことが大事なのではないか。最もらしい理屈を並べて何もしないでいるよりも、自分にできる最善を差し出すことの方が、命を凍結させることなく生きていられるのではないか。私は責任を避けた。老人は他人で、私に老人を助ける義理はない。義理もなければ責任もない。だが、横を通り過ぎた自分に残った者は、責任を避けた人間の後ろめたさだった。大袈裟な言葉で言えば、それは「罪の意識」だった。助ける義理はないというのは嘘で、多分、義理はある。責任もある。義理を果たす自由もあれば、義理を避ける自由もある。責任を果たす自由もあれば、責任を避ける自由もある。

 

関係性が浅ければ、喪失の悲しみも浅く済む。深い関わりを築く時、喪失の悲しみも深くなる。愛する者を喪う悲しみは、時に、生きる力を根こそぎ奪う。こんな苦しみを味わうくらいならもう二度と人を愛したくはないと思うことさえも、ある。だが、深い関わりを避けて浅い関わりを生きるだけでは、人生そのものが空虚になる。心は冷え、深い悲しみが減る代わりに、涙が出そうになるほどの喜びも減る。愛する者を喪う時、人は深い悲しみに襲われる。誰の声も届かない闇の中を、いつ抜けられるかもわからない闇の中を、たった一人で彷徨うことになる。だが、誤解を恐れずに書けば、悲しむ人は美しいと思う。それは、愛の軌跡を感じるからだ。愛する者は、死んだのではなく、生きたのだ。同じ時間を確かに共に生きたのだ。

 

すべての苦しみの根源は、赦せなくなること。

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石段で倒れていた老人は意識を回復しただろうか。それとも意識を失ったままだろうか。私にはそれを知る術がないし、老人が死んだとしても涙を流すことはない。あと数日もすれば老人のことを完全に忘れ、私の中でなかったことになる。老人の命も、義理も責任も罪の意識も全部、なかったことになる。ただ、なかったことにされた経験の蓄積は、私の身体と精神を冷やし、私を冷酷な人間に変えるだろう。私は私を赦せなくなることに慣れ、私は私を赦せない方向に向かわせる道を選ぶことに慣れ、私の身体が冷えることに慣れ、私の精神が冷えることに慣れるだろう。

 

そして私は苦しむのだろう。慣れることと諦めることは別物だ。赦せないと赦したいの間を揺れながら、葛藤の摩擦熱に苦しむのだろう。すべての苦しみの根源は、自分が、自分を赦せなくなることだ。平気な振りをしながらも、葛藤の摩擦熱は常に自分の肉体を焦がし続け、芯から冷え切ろうとする頭の働きに歯止めをかける。いいのか、お前、本当にこのままでいいのか。また見て見ぬ振りをするのか。また素知らぬ顔で通り過ぎるのか。また自分の体を冷やす道を選び、また自分の心を冷やす道を選び、こんなことには慣れているからと平気な振りをしながら、また自分を赦せなくなる道を選ぶのか。いいのか、お前、本当にこのままでいいのか、と。

 

このままでは老人は死に、私の中でなかったことになる。老人が生き続ける道は、自分が、これから先の人生で「手を貸すこと」だと思った。相手の代わりに自分が重荷を背負い、石段を共に行くことだと思った。私は優しい人間ではない。ただ、まだ、かろうじて「優しくなりたい」と思うその気持ちによって、ぎりぎり人間の形を保っている。優しくはないけれど、優しくなりたいと思う気持ちだけはなくしてはならないと思う。綺麗事に聞こえるかもしれないが、そう思うことが、誰かのためではなく自分自身を保つ力になる。冷え切った体と心を再び燃焼させる力になる。最近はめっきり寒くなった。寒くて、空腹で、貧しいのだが、貧しさの中には本当がある。貧しさの中には本当がある気がして、貧しさの中に居座ってしまう。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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