いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

君の夢の中へ。

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熱海の家に戻った。近隣は崩壊しているが草木は思い切り茂り生命の力強さを感じる。人間が数ヶ月立ち入らないだけで周囲は簡単に廃墟と化し、玄関前の庭はジャングルになっていた。家に入り換気をする。ガス会社や電気会社に連絡をし、パガニーニの主題による狂詩曲第18変奏を爆音で流しながら隅々を水拭きする。空間が少しずつ家としての機能を取り戻す。掃除をしていると自然とひざまずく。懺悔をしているみたいだなと思った。正確には「懺悔をさせてもらっている」と思った。

 

物語と記憶。

数週間ブログを書けなかった。何を書いても浅薄に感じられ、書けば書くほど自分を嫌いになった。自分にはインプットが足りないと思って読書をしたり映画を見たりしたが、見れば見るほど他人の人生に自分の人生が凌辱されていく感覚を抱き、自分は自分の歌を歌うしかないのだと思った。昔から知性に憧れていた。教養のある人間に惹かれるし、教養のない自分を恥ずかしいと思う。評論家の知識量に圧倒され「俺も少しは知識を身につけなければ」と焦ったりもしたが、そうした動機で身につけられた知識は窮屈で重い。多分、自分は憧れたままでいいのだと思った。知識や知性に憧れたまま、からっぽなままで生きる。歌を歌っている間はからっぽになれる。からっぽになれる心地よさは、知的な楽しさとはまた別の喜びがある。

 

ラフマニノフを流していなかったら自分は悲愴感と共に家の掃除をしていたと思う。音楽が空間を浄化した。音楽は記憶と密接につながっている。私の音楽を聞いてくれた女性から曲の感想をたくさんもらった。彼女は言った。ずっと忘れていた記憶があなたの音楽を聞いたことによって「大切な記憶」として蘇った。と。最近、物語や記憶といったワードに強い関心がある。音楽を作る時、言葉を綴る時、私は人類共通に記憶にリーチをしているという感覚がある。それが成功したときは良い文章(良い音楽)になるが、まったく成功していない時は程度の低い独り言で終わる。過去とは、過ぎ去ったものではなく過ぎ去らなかったものだ。自分を過ぎ去ることができなかったものが、自分の一部に沈殿して、香りや音楽や風景を通じて攪拌される。私たちは、はじめて足を運んだ場所に懐かしさを覚えることがある。懐かしさと寂しさは似ている。どちらも胸を締め付ける。昔の人はこの感覚を郷愁と呼んだ。根源的な郷愁を感じるものに、どうしようもなく惹き付けられる。

 

誰一人例外なく物語を生きている。弾き語りとは言うが弾き喋りとは言わない。喋る人は多いが語る人は少ない。逆説的だが、喋ることをやめた時に語り出すもう一人の自分が登場する。私は、できることならこの部分にリーチをしたいと思う。おそらく、誰もが社会的な自分を維持するために「これが決壊してしまったら自分のままではいられなくなる」という部分を決壊させないように決壊させないように生きている。そうした日々を長い時間生きていると、自分は何かを守っているということを忘れ、決壊しそうな部分が自分にはあると言うことを忘れていく。だが、それは確実にある。私たちが映画や音楽などの舞台に足を運ぶのは、無意識的に決壊を求めているからだ。涙腺を崩壊させたい。心のガードを決壊させたい。この、なんだかよくわからない重たいものを取っ払いたい。この重たいものがある限り、自分は世界と繋がっていくことができない。そういった無意識的な叫びが、何か面白いことはないかななどといった表面的な言葉の裏に潜んでいる。物語を内側から破壊することはできない。物語を壊すことができるのは、物語の外側から差す光だ。

 

夢。

人類共通の記憶というのだろうか、記憶の海のようなものが何処かにあり、私たちはそこから咲き出た睡蓮みたいなものなのかもしれない。人間は、夢を見ることで思考を整理すると言われている。寝る前、私は、暗闇の中で目を瞑ると必ず誰かの声が聞こえる。幻聴といえば幻聴だが、その日に別にあったわけでもなんでもない人が突然何かを喋り出し、まったく出鱈目な方向から今度は別の人の声が聞こえたりする。いまではすっかりそれに慣れ、その声を聞かないようにするというよりは彼らの話が終わるまでただただひたすら聞いている。彼らは、別に私に話しかけているわけではない。会話に整合性もないし、インスピレーショナルな何かを貰うわけでもない。大体が意味不明な内容で、私は、それをラジオのように聞いている。

 

夢は心の傷を修復しているのか。それとも傷を浮き彫りにしているのだろうか。私は頻繁に身近な大切な人から見捨てられる夢を見る。ある日、いつものように彼らに会うと、彼らは「お前のことなんて知らない」と冷たい眼差しを私に向ける。大概はそういった夢だ。ちょっと前にも同じ夢を見た。生きている人全員から冷たい眼差しを向けられ、どこに行っても傷つくと思って逃げるように街中を彷徨っていたら葬式が行われていた。よく見ると、それはX JAPANのhideの葬式だった。なぜか、葬式場だけでは自分が傷つけられることはなかった。その時に私は「死んでいる人だけが優しかった」と思った。夢は、あの世とこの世の境界線みたいな場所だなと思う。死んでいるひとだけが優しかったという感覚は、目覚めている間にも効力を発した。横のつながりだけではなく、縦のつながりもあることを私は学んだ。

 

生が終わって死がはじまるのではなく、生が終わる時に死も一緒に終わるのだと思う。熱海の夜は一面虫の声が鳴り響いている。東京では全然聞くことのない音が世界を覆っている。私の家がある伊豆山という地域は夜になると真っ暗になる。以前、伊豆山に遊びに来た人が「ここは夜になると本当に真っ暗になるから、昼間出会った人はみんな幽霊か妖怪だったのかなって思う」と笑いながら話した。小さな頃、こんな想像をしたことがある。自分以外は全員演者で、私の友達を演じたり、学校の先生を演じているだけ。私がその場を離れると、みんな一斉に「おつかれさまです」などと言いながら楽屋に戻る。全員が私を騙すために彼らの役を演じているだけだったとしても、私はそれに気づき得ない。そういう想像をしたことがあるのだが、最近はそういったことを頻繁に思い出す。毎日夢を見る。号泣しながら目覚めたことが過去に何度かあるのだが、最も印象的だったのは両親がただ仲良く過ごしているだけの夢だった。その夢を見た時、私は号泣をしながら目を覚ました。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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