いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

睡蓮は、泥を必要としている。

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熱海の災害対策本部から電話が来て、ニューフジヤホテルの一室を避難所として使えることになった。ロビーに行くと先に避難していた近所の人々が「あ!」と声をかけてくれる。大概は高齢のおばあちゃま方なのだが、土石流の如くマシンガントークを捲し立てる。話を聞くことしかできないが話を聞くことくらいならできるから話を聞いていたら、次から次へとおばあちゃんが話しかけて来て一気に知り合いが増えた。不謹慎だが避難所が一種の修学旅行感を醸し出している。泣きながら身の上を語るおばあちゃんの真横を、小さな子供達が満面の笑顔で駆け抜けて行く。

 

おおまかなスケジュール

7月14日(水)熱海

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

 

知識は冷たい。知恵は温かい。

色々な人々から激励の言葉をいただく。自分に余裕がある時はいいのだが、余裕がない時に頑張れと言われると「これ以上何を頑張ればいいんだ」と叫びたくなる。鬱病患者はこうやって追い詰められるのだろうな、と思う。優しさとは想像力だとは思うが、被害者ぶっている自分自身にも「自分のことをわかって欲しい」と他者に期待をしている部分がある。多分、誰も悪くない。悪いのはタイミングだけだ。誰もが、良かれと思って声をかけている。誰もが、基本的には善意で生きている。

 

前に、余命わずかとされた病を抱えた男性が、他者から必要とされることで回復を遂げたと言う話を聞いた。普通、病人は慰める対象として扱われる。だが、ある日、彼のもとに身の上話を語る女性が現れた。女性は、男性が余命わずかなだなんてことをまるで気にせずに、自分の悩み事をぶちまけた。助けてください。あなたの力を貸してください。そう、男性にお願いをしたのだ。彼は、これまで生きてきた中で培ってきた知恵と勇気を総動員して、彼女の話に耳を傾けながら慎重に言葉を選び、自分だったらこうするというようなことを丁寧に話した。それを聞いた彼女は彼の言葉に従い、問題を解決した。普段は病人として扱われていた彼も、誰かから必要とされる体験を通じて生きる気力を取り戻し病を克服したと言う実話だ。

 

大変な時ほど「誰かに何かをして欲しい」と受け取ることばかりを考えがちになるが、受け取ることと同じくらい、与えることも力になる。私たちは、誰かに何かをした時に「してあげた」という表現を用いる。だが、正確には「させていただいている」のだと思う。私は、多分、おばあちゃんの話を聞くことで生きる力を取り戻しているのだと思う。自分のことを一旦忘れて、他者の言葉に耳を傾ける時、大袈裟な表現になるが自分の魂も一緒に救われている。幸福とは、自分の命の中にすべてのものの命を見ることであり、すべての命の中に自分の命を見ることだと思う。

 

助けるとか、助けられるとか、その境界線はひどく曖昧なものだ。自分に優しくすることが難しい時、他者に優しくすることを通じて優しさの根源に触れ直すことがある。そんな時に「世界が俺だけじゃなくてよかった」と思う。殺伐とした世の中では、他者を自分の利益のための道具として見てしまう場面がたくさんある。有用か。不用か。しかし、私たちにとって他者とは、空気や水と同じように「それがなければ生きていけない」ものだ。他者を通じて、私たちは自分を確認することができる。世の中が豊かになっても自殺者や精神病患者が減らないのは、命を見つめる眼差しが減っているからだと思う。人間は神の道具であり、人間の道具ではない。

 

ここ数日、自分のLINEを公開して「話したい人がいたらご連絡ください」と連絡先を開放している。避難所の個室にWi-Fiがなくてしかも圏外というハンデはあるが、今宵も時間があるので「人間と話したい」と思う方がいたらご連絡ください。ひとつだけはっきり言えることは、私たちが抱える問題は閉ざされた空間では絶対に解決しないと言うことだ。だが、逆に言えば「閉ざされた空間を一歩だけでも外に出る」ことによって、停滞していた心に風が吹く。自分をクローズなものにすると人間は簡単に死ぬ。だが、自分をオープンにしている限り、人間は絶対に死なない。

 

睡蓮は、泥を必要としている。

報道関係者が「あなたの知り合いで亡くなった人や行方不明者はいませんか?」と毎回聞いてくる。あまりにも無神経な質問に驚くが、それに答える人もいるから更に驚く。報道関係者が熱海タクシーを占拠しているため、遠方に住む高齢者たちは移動手段をなくしている。報道のためなら地域住民の生活を蹂躙してもいいのだろうか。誰のための報道だろう。避難先のホテルでは、行き場をなくした人々がまるで生きる力を吸い取られて行くかのように延々とテレビを見続けている。各種メディアだけを責めることはできない。それを見たがる人間がいるから彼らも仕事として成り立つ。芸能人や被災者の私生活が脅かされるのは、それを見たがる一般の人々がいるからだ。問われているのはメディアだけじゃない。私たち一人一人だ。

 

ホテルのロビーには、全国各地から届いた服が大量にある。ここは服屋ではないから当然平積みにされる訳だが、誤解を恐れずに言えばゴミの山に見える。支援物資という名の下に、全国から不用品が届いている。乱暴な言葉になるが「お前らはゴミで生きろ」と言われているみたいで、それを手に取る被災者は少ない。支援物資が置かれている場所の波動は低く、自分が乞食として扱われているような気持ちになる。本当の支援とは何か。それを考えさせられる貴重な瞬間の中に自分はいる。

 

様々な人から連絡が届く。私は阪神淡路大震災を経験した。私は熊本地震を経験した。私は実家を火事で全焼した。だから、お前も頑張れ。おそらくそういうことを言いたいのだろうが、時折「お前の不幸を盾にマウントを取るな」と思う時がある。私の被害に比べればお前の被害は小さいのだから前を向いて生きろと言われても、正直、困る。悲しみに大小はない。みんな頑張って生きているのだから自分も頑張って生きようというのは、自分が自分に言う言葉であって、誰かに強制される言葉ではない。規模の大小で悲しみが決めつけられると、悲しむことが許されない人々が発生する。家が雨漏りして困ってる人に「家が流された人間もいるのだから不満を言うな」と咎めることは、ある種の暴力だ。誤解されると困るが、私は全部の連絡に反感を覚えた訳じゃない。ただ、こう言う時に人は善意によって苦しむのだなと思っただけだ。自分の苦しみを認めること、涙を抑えることより一回しっかり涙を流すことが、悲しみを浄化させる。熱海では、東日本大震災を経験したラーメン屋の店主が「自分も助けられたから」と、被災者に無料で食事を提供している。一つの経験も、人によって解釈も生かし方も異なる。心の数だけ世界がある。

 

私は熱海の人間ではない。新潟生まれの異物だ。だが、異物だから話せることもある。コミュニティの枠外の人間だからこそできる役割もある。異物の役割は、閉鎖的な空間に風穴を開けることだ。常識を攪拌することだ。昨日、関西に暮らす女性から電話が来た。発達障害ADHDなどを抱えて日常生活が辛いがなかなか周囲に理解されることが少なくて辛い、それが原因で人間関係で揉めることも多いと彼女は話した。話を聞きながら「腹が立つのは、本当は仲良くやりたいから」だと思った。知識は冷たい。知恵は温かい。苦境に置かれた人間を救うのは知識ではない。知恵だ。知恵には温度がある。知恵には血が流れている。表面的なアドバイスは体温を奪う。それよりも食事を奢るとか甘いものを奢るとかハグをするとか「好きだ」と伝えるとかひたすら黙って同じ時間を共にするとか、現実に寄り添う知恵が力になる。そのようなことを伝えたら、彼女は頑張りますと言った。私は、頑張りますでは固いままだと思ったから「頑張るっていうよりは、温かくなる方向に行きたいですよね」と言った。言葉も時間も金も命も各種メディアも、大事なことは使い方だ。睡蓮は、泥を必要としている。睡蓮は、泥を使って美しい花を咲かせる。 

 

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「睡蓮」 詞曲 Keigo Sakatsume

 

叫び出したくなるほどのさみしさの中

確かに 僕らは 生きていた

 

醜いものでさえ終わりが来るのなら 愛しい

 

強く儚く美しく散る花のように舞う

白いあなたの 瞳を落ちていく

 

ボロボロに泣きながらふと目覚めた朝

終わらない光を 夢見ていた

 

消えない傷でさえ絆に変わるなら 愛しい

 

甘く激しく温かな血が巡る肌に舞う

冷えた僕らの 心に落ちていく

 

強く儚く美しく散る花のように舞う

白いあなたの 瞳を落ちていく

 

甘く激しく温かな血が巡る肌に舞う

冷えた僕らの 心に落ちていく

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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