いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

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沖縄本島南部にある温泉に一緒に行かないかと誘われ、那覇空港に向かっている。航空券を取ったのは昨日だが関西空港から片道6000円程度だった。私の場合、自分が行きたいと思って何処かに行くより誰かに誘われて受け身的に行くことが多い。自分の直感をあてにしていないというか、宇宙に身を委ねていると自分の想像をはるかに超えて面白い目に遭えると思っているのか、大枠以外は何も決めていない。

 

おおまかなスケジュール

6月25日(金)沖縄

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます) 

 

 

宇宙に楔を打ち込むように。

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自分のホームページを作り始めている。心ある方から「あなたは絶対自分のホームページを作った方がいい。いまはまだその必要性を感じていないと思うけど、ホームページが入り口となり、あなたを知らない世界に連れて行ってくれるはずだ」と言われたからだ。実際に制作をはじめてから、ああ、いよいよ自分の作品化がはじまったぞと思った。私は、これまで形に残すことを避けてきた。一箇所にとどまることなく流れ続けているもの。それをたまに目にした人が何かしらを感じてくれたらそれでいい、という風に思っていた。だが、そのステージが変わる。これからは、宇宙に楔を打ち込むように「これが俺だ」と、自分を作品化するのだと思う。

 

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何かを作るためにはコンセプトが必要になる。なんでもいいからどんなホームページにしたいか言ってくれと言われたので「私はロックンロールとキリスト教が好きです」と答えた。教会のように荘厳な雰囲気と、ロックンロールの無骨なサウンドのようにいまにも何かが飛び出してきそうな胎動、静と動をどちらも強く感じるようなものが好きだと答えた。圧倒的肯定力を伴うもの。あらゆる人生を肯定するようなものが好きだと答えた。こういうやりとりをすることで、自分が何を大事にしているのかが言語化される。作品化をする行為は、言語化を通じて可視化することと同じだ。自分が、どんどん可視化される。自分の輪郭が、どんどん明確になる。

 

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キリスト教と言えば十字架、十字架と言えば安藤忠雄光の教会ということになり、昨日急遽茨木に行ったのだがコロナの影響で見学は不可能になっていた。見れなかったことは残念だが、即座に足を動かした自分たちを称えたい。成功者と呼ばれる人々と交流を持たせていただくようになってから痛感するのだが、彼らは一様に行動が早い。まじで早い。本当に早い。スーパーマーケットで野菜を掌に乗せるように、自分の人生に欲しいものを投入する。軽やかで迷いがない。その姿は遊んでいるように見える。彼らは別に成功してやろうとは思っていない。うまく行こうがダメになろうが経験は残る。生きることは遊びであり、経験こそが成功になる。

 

お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

熱海の家を譲渡していよいよ私は家なしになった。毎日ホテルに泊まったり人の家に泊まっている。今夜の宿ももちろん決まっていない。大変だが、大変とは「大きく変わる」ということだ。私は何処かで大変さを歓迎している。一応日々は順調だ。小学5年生の頃、母親をひどく悲しませたことがある。私の両親は実家の新潟で理髪店を営んでいるため、土日は仕事をしていた。だから親と遊んだ記憶はない。ある日、母親が「次の日曜日は店をお休みにするから、一緒にサーカスを見に行かないか」と私を誘った。しかし、私は友達の家でテレビゲームをする方がいいなと思ったために「行かない」と答えた。すると、母親はほんの一瞬だけ、ものすごい悲しそうな表情を浮かべた。あの表情を、36歳になった今でも時折思い出す。

 

自分にとって大切な人を傷つけてしまったと感じた体験は、あれが最初だと思う。おそらく母親はこの出来事を忘れている。だが、私は死ぬまで忘れないと思う。大切な人を傷つけた記憶は永遠に残る。悔恨や懺悔の感覚に近い。だが、この傷痕は自分を整える。二度と同じ過ちを繰り返さないように、悔いのない方向に進ませる。熱海の家を譲渡する時、この出来事を思い出した。欲しがっている人がいるのなら、あげよう。変にケチって守り続ける道を選ぶと、多分、私は「あの時欲しがっていた人がいたのに、あげなかったな」と死ぬまで思い続けることになる。それが大事な人であれば、尚更だ。誰かを失って初めて「もっと色々なことをしてあげたらよかった」という悔恨が生まれる。良いことは、生きている間にすることだ。

 

道具は使い倒すためにある。車を新車同然に磨き上げる楽しみもあるが、使い倒してこその道具だ。人間は道具の主人であり、道具は人間の主人ではない。聖フランチェスコの祈りに「私を平和の道具にしてください」という言葉がある。車や家や金が人間の道具ならば、人間は神の道具だ。油断をしていると私たちは足りないものを嘆くが、違う。必要なものは全て揃っている。あとはそれを用いるだけだ。結果を考えるな。ただ、結果になれ。道具を求めるな。ただ、道具になれ。どう生きるかを考えるな。ただ、生きろ。ただ、用いろ。自分が消えて神の道具になれた時、逆説的だが、私たちは人間として生まれた最上の喜びを感じることができる。

 

 

聖フランシスコの平和の祈り」

 

主よ、わたしを平和の器とならせてください。

憎しみがあるところに愛を、

争いがあるところに赦しを、

分裂があるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、

誤りがあるところに真理を、

絶望があるところに希望を、

闇あるところに光を、

悲しみあるところに喜びを。

 

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

理解されるよりも理解する者に、

愛されるよりも愛する者に。

それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

許すことによって赦され、

自分のからだをささげて死ぬことによって

とこしえの命を得ることができるからです。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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