いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

目を背けたくなる出来事の中に、本当の思いがある。

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24歳の頃、ある不動産を通じて東京に家を借りた。担当者は私と同じ歳くらいの女性で、結構な数のピアスに革ジャンを着て仕事をしているファンキーな人物だった。即入居が可能だったので「すぐに住みます」と告げ、その日のうちに暮らし始めていたら夜に来客があった。驚いたことに、不動産会社の女性が合鍵を使って私の部屋に入ってきたのだ。すごいことをするなと思ってしばらく会話をした。女性は、昼は不動産でバイトを、夜は風俗の仕事をしているのだと楽しそうに話した。

 

おおまかなスケジュール

6月16日(水)京都

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます) 

 

 

傷を生きる。

23歳の頃、銀座嬢のAと付き合っていたことがある。当時はmixiというSNSが流行っていて、私はそこに自分の内面をさらけだす文章を綴っていた。偶然Aが私を発見し、ネット上で友達になり、コメントのやりとりをするようになった。当時私は東京の赤坂でカフェをしていた。そのことなども日記に書いていたら、ある日、Aが実際にそのカフェに来た。これまで顔なんて見たこともなかったが、Aが店に入ってきた瞬間「あ、この人はAだ」と瞬時に察知した。私に予知能力があるからではない。Aの存在感や空気感が、あまりに店の雰囲気と不釣り合いだったからだ。

 

Aは私の7歳年上で、色々な要素が重なり私たちは同棲をすることになった。Aの稼ぎは尋常ではなくあなたは働かなくてもいいと言われたが、カフェの仕事は好きだったので続けた。あの時期に、金がある生活というものをある程度体験した気がする。デカい家やデカい車や芸能人もよく来るパーティーだとかここには書き切れない背徳的なイベントの数々、いろいろな体験をさせてもらったが、正直「なんだ、この程度なのか」と思った。物質的には豊かだったが、心はどんどん冷えていく気がした。Aも同じだった。喜びと共に金を使うというよりは、見たくない何かがあってそれを見ないでいるために散財をしている、といった感じだった。時折、Aは自分の中に棲むバケモノを飼い慣らすことができなくなり、破壊的に暴れた。

 

水の仕事(水商売)や風の仕事(風俗)をしている人は、存在がその空気感をまとう。うまく言葉にできないが、存在に「冷え」を感じる。その人物が冷たい人間だという訳ではない。大概は優しい。優しすぎるほど優しい。その優しさが体を冷やしている、そして、その冷えは幼少期に父親との関係の中で生じた悲しみである、という印象を与える。風俗で働いていることを隠す女性もいる。だが、風俗で働いた痕跡を消すことはできない。誤解されると困るが、私は風俗を否定したい訳ではない。生きている限り、人間は何処かで「他者を諦める」瞬間がある。自分にとって大切な人には自分以外にも大切なものがあるということ。その事実を受け入れた時、傷にも似た境界線が発生する。私の母親は理容師だった。どれだけ私が泣き喚いても仕事があれば仕事に行く必要があった。私は、そのことで母親を恨んでいる訳ではない。ただ、母親には自分以外に大事なことがあって、どれだけ私が泣き喚いてもどうにもならないことがあるということを、細胞レベルで理解しただけだ。

 

目を背けたくなる出来事の中に、本当の思いがある。 

数日前、京都でK様とお会いした。これまで人前で踊るなんてことをしたことがなかったK様は、去年の11月、ひょんなきっかけでステージに立つことになった。踊りを披露する前に自己紹介をする時間があり、そこで何を話そうかと必死に原稿を書いた。できるだけ自分に正直な言葉で話そうと思い、どうにか書き上げたものを実際に声に出して読みあげてみたら、自分でもびっくりするくらい泣きそうになってしまう言葉があった。それは「私は、踊ることが大好きです」という言葉だった。書いているだけの時はそれほどだったのに、それを実際に声に出して読み上げてみたら、どうしようもなくこみ上げてくるものがあった。この涙は、何処から来るのだろう。苦しみは、自分にさせたいことをさせてあげられなかった悲しみだ。

 

どれだけ物質的に恵まれても心がどんどん冷え切ってしまうのは、一番欲しいものが得られなかったからだと思う。それは「自分を見つめるまなざし」だと思う。自分を見つめるまなざしがなければ、自分の存在の心許なさに押し潰される。これだけモノが溢れているのに無力感や無価値感が蔓延しているのは、誰も、本当に見てもらいたい部分を見てもらえていないからだ。誰も、本当に話したいことを話せていないからだ。他者への関与を諦めると、自分への関与も薄くなる。生き方が投げやりになり、生命感が希薄になる。自分なんかいてもいなくても同じだと感じたり、いない方がマシなんじゃないのかとさえ思う日もあるが、これは卑怯者の考え方だ。大切なものへの関与を諦める限り、常に、自分は大切なものと遠く隔てられているという感覚と生きることになる。いざという時にふんばりが効かなくなる。

 

金は表面的な問題に過ぎない。真の問題はコミュニケーションであり、その大元は家族にある。家庭は、安心の場所でもあるが、致命的な傷を与える場所にもなる。傷は癒すものではない。生かすものだ。傷に敗れると、運命に敗れる。傷を生かすということは、自分にとって大切なものに「関与をする」ということだ。目を背けたくなる出来事の中に、本当の思いがある。私たちは、傷つくことを避けて生きようとする。しかし、私たちは、本来、傷の中でしか生きられない生き物だと思う。傷の中を生きるとき、はじめて「本当の意味で生きている」と言えるのだと思う。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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