いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

永遠にそのままで行け。

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アスファルトの上でのたうちまわるミミズを見た。土の中にいればいいのに、日陰にいたらいいのに、そのミミズはアスファルトの上をもがきながら移動していた。なんでそんなことをと思ったが、死なないために生きているわけじゃないと全身で叫んでいるようにも思えた。数分後、ミミズは1メートル先のコンクリートの上で息絶えた。干からびた彼を見て「死んだのではなく、生き切ったのだ」と思った。

 

おおまかなスケジュール

5月11(火)
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます) 

SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

 

ここに生きる命がひとつ。

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誰もいない渓谷を見つけた。嬉しくて嬉しくて、こういうのが欲しかったんだと小枝をバチにして岩を叩き続けた。嬉しかった。だが、心はずっと心許ないままだった。いつもなら自然に囲まれて自分も一緒に元気になれるのに、自分と自然が切り離されたままだった。海や森が素晴らしいように、きっと自分も素晴らしいはずだ。頭ではそう考えてみても、心が追いつかない。素晴らしい自然の中にいても、自分自身を素晴らしい存在だと感じられない状態は辛い。自分を無価値に感じる。

 

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自分を無価値に感じる辛さ、自分を無力に感じる辛さ、誰にも必要とされていないと感じる辛さや、何処にも行く場所なんてないと感じる辛さ。きっと、こういった辛さを感じた経験のある人間は自分だけではない。孤独じゃない人間はいない。ただ、孤独じゃない人間はいないというまさにその一点において、私たちは孤独ではない。消えてしまいたくなるほどの苦しさを抱えている人がいたとしたら、肩に手を回して「わかるよ」と言いたい。そう思うことで、多分、自分自身にわかるよと言っているのだろう。生きていると、そういう気持ちになることってあるよな。人間って、そういうところがあるよな。そんな感じで、兄弟愛的な共感を示したい。

 

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先日お会いした方が「自分は常に『ここにいちゃいけない』という思いがずっとあって、ただ、自分がその場にとって有用な人物であれた時、はじめてそこにいてもいいという許可を得られる感覚があります。だから、自分が話したいと思う話よりも、みんなを楽しませる話をしたり、自分が期待されている役割を演じてしまう」と話していた。多かれ少なかれ、きっと誰の中にでもある部分だと思う。その人は言った。こういう話をすると、私はあなたのことが大好きだよって励まされたり、私はあなたにここにいて欲しいって言われることがある。だけど、ここにいて欲しいって言われるよりも「ここにいてもいいよ」って言われた時の方が、深い愛を感じるのはなぜなのだろう。強く求められているわけじゃないのに、それなのに「ここにいてもいいよ」という言葉には、自然のようにおおきくて深い愛を感じます。

 

永遠にそのままで行け。

愛は視聴率みたいなものなのかなと思う。誰かから見てもらうためには、見てもらうための努力をしなければならない。だから、私たちは外見を綺麗にしてみたり特別な何かを身につけようと奮闘したり、他者との比較で優越感を抱いたり劣等感を抱いたりする。しかし、視聴率(愛)とは、受け取るものではなく与えるものだ。 常に誰かからの関心を集めるために努力を続けなければいけないと言う圧迫感は、人間を疲弊させる。誰かが見てくれている間はいい。しかし、誰からも見てもらえなければ自分には価値がないという考え方を広く蔓延させる。承認欲求の恐ろしさは、ここにあると思う。誰もが「見て!見て!」と自分をアピールすることに必死になると、誰も彼(彼女)を見てくれる人がいなくなる。結果、誰もが視聴率不足に陥り、自分なんかいてもいなくてもいい存在なのだという存在の孤独を深める。

 

常に誰かから視線をもらい続けるということは、とても難しいことだ。だが、自分が常に視線を注ぎ続けることならば可能だと思う。視聴率を受けとり続けることではなく、視聴率を与え続けることこそが愛なのではないだろうか。たとえば、私が誰かを好きになったとする。その人から尊敬してもらいたい、認めてもらいたい、愛されたいと思って私は努力を重ねる。誰もできないことをできるようになってみたり、みんなから尊敬される人物になることで彼女からの視聴率を集めようとする。しかし、その生き方には無理がある。どれだけ頑張ってみても「俺よりも優れた人間が現れたらどうしよう」という不安が常につきまとう。だが、逆に、自分が常に視聴率を与え続ける側に回ったとしたらどうだろう。自分が見てもらうことよりも、自分が彼女を見ることに力を注ぐ。可能な限り寄り添い、可能な限り耳を傾け、可能な限りまなざしを注ぎ続ける。見てもらうことよりもしっかりと相手を見つめることを、愛されることよりも愛することに力を注ぎ始めたとき、確かな手応えが自分の中に宿るのを感じる。視聴率は、受け取るものではなく与えるものだ。自分が見てもらう側になったときは、視聴率がゼロになることもあるかもしれない。しかし、自分が視聴率を与える側にまわったとき、視聴率がゼロになることは絶対にない。たったひとりだとしても、必ず見てくれている人間(自分)がいる。 

 

なんでこんなにさみしいのだろう。そう思いながら歌を歌った。自分が作った曲に自分が胸を打たれることがある。恥ずかしい話だが涙が出そうになり、ああ、涙が出るかどうかが全部だなと思った。生きる苦悩や葛藤があるからこそ、喜びの涙がある。自分を生きると言うことは、常に歓喜の中を歩むこととは違う。自分を生きることが誰かを不幸にすることもあることを知りながら、自分を捨てきれず、他人も捨てきれず、苦悩と葛藤により生じる摩擦熱で生の火花を散らすこと。自分が自分であることに嫌気が差しながらも、自分が自分であることをやめることができない。自分も他人も切り捨てることができない人間が、それでもなお優しくなりたいと願う爆発の火花が、夜の闇を彩るのだろう。何かがあるからすごいんじゃない。何もないけどすごいんだ。太陽も、木々も、渓流も、何も言わずに見守っていた。彼らは、最初から最後まで「ここにいてもいいよ」と、自分の存在を許していた。

 

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「永遠にそのままで行け(FOREVER GO)」 詞曲 Keigo Sakatsume

 

勝ち組も 負け組も 金持ちも 貧乏人も

喜びも 醜さも 悲しみも 美も

 

クソガキも 孤児も 凡人も 劣等生も

愚かさも 汚さも 間違えた 日も

 

永遠に 永遠に そのままで 行け

 

FOREVER GO かっこいい

FOREVER GO かっこ悪い

FOREVER GO 男なら

FOREVER GO やってやれ

 

勝ち組も 負け組も 金持ちも 貧乏人も

喜びも 醜さも 悲しみも 美も

 

クソガキも 孤児も 凡人も 劣等生も

愚かさも 汚さも 間違えた 日も

 

永遠に 永遠に そのままで 行け

 

FOREVER GO かっこいい

FOREVER GO かっこ悪い

FOREVER GO 女なら

FOREVER GO やってやれ

 

永遠に 永遠に そのままで 行け

 

FOREVER GO かっこいい

FOREVER GO かっこ悪い

FOREVER GO 永遠に

FOREVER GO やってやれ

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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