奥武島最終日。マスクって何のためにしているのだろう。コロナから身を守るためというより、人間から身を守るために思える。私は、コロナより集団心理が怖い。ある日、偉い人が今日からマスクを外して良いですよと通達した途端、多くの人々が意気揚々と外すのだろう。これってコントロール下に置かれているとしか思えないのだが、そのようなことを言うと爪弾きにされ、最悪の場合は正義に殺される。
イベントに呼ばれるとどうすれば愛されるかを語れ的な雰囲気を嗅ぎ取る。逆だろ。愛されたいとか言ってんじゃないよ。自分から愛するんだよ。誰かに幸せにしてもらおうとか思ってんじゃないよ。自分を幸せにするのは自分なんだよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2021年4月13日
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同調圧力に負けるな。
みんなもそうだから。みんなもそうしているから。この「みんな」って誰だろう。過去にフランスに訪れた際、徹底した個人主義に度肝を抜かれた。彼らは個がはっきりとしていて、人間は違って当然という雰囲気が前提にあった。まず最初に個があり、個と個が集まってできるものが集団だった。それに対して日本は、まず最初に集団があり、そこから弾かれたものが個になる。集団の中では個としてあることは許されず「協調性が無い」とか「和を乱す」と糾弾され、画一的であることが要求される。結果、みんなと同じでなければならないと言う同調圧力が醸成される。
誰かに合わせて生きるほど自分自身から離れていく。みんなと同じという安心感は得られるが、自分の人生を生きていると言う手応えは薄くなる。私はまだ結婚をしていないため、長年連れ添った夫婦に対する憧れがある。だが、夫婦の話を聞くと必ずしも長い時間を一緒に過ごしたからと言って強い絆を築けているとは限らないことを知る。中身のないコミュニケーション、本当に話したいことを話せていない間柄は、どれだけ時間を重ねても中身のないスカスカなものになる。夫婦なんてそんなものだ、人生なんてそんなものだと諦めた人々から、生き甲斐は遠く離れていく。誤解を恐れずに言うと、幸せの檻に閉じ込められている人が多い気がする。愛の鎖に繋がれて、お互いの翼をもぎあっているような関係性が多く見受けられる。
野営生活を一週間続けた。野営中は基本的に火の管理や食料の調達と調理に1日の大半が注がれる。生活にかける労力が半端ないのだが、充実感も半端ない。狩猟採集という行為そのもの、生きることそのものに喜びを感じる。先日、差し入れでいただいた弁当を食べた。弁当は便利だ。手間もかからないし豪華だし美味い。だが、プロセスがぶった斬られていると感じた。世の中はどんどん便利になり、人間はどんどん不機嫌になった。もはや、生きることそのものから喜びを感じることは難しくなった。だから、私たちは生活以外で生き甲斐を求める。衣食住という人間の基本はインスタントなもので済ませ、それ以外のものに喜びを求める。便利さは人間をせっかちにさせ、時間をかけるということを「合理的じゃない」と判断するようになった。結果、人間関係もインスタントなものになった。洗濯機や掃除機は家事の負担を格段に楽にさせたが、人間は忙しいままだ。星の王子さまの言葉を借りれば、おとなたちは忙し過ぎて友達を作ることはできなくなってしまったのだ。
人にはそれぞれトラウマがあるから、憎んだり羨んだりするのは違うよ。
普遍的な喜びは「ものを作る」「自然に触れる」「体を動かす」ことにあると思う。野営には三つの要素が詰まっている。だから充実するのだと思う。周囲には誰一人いない。余計なノイズがないから自分と向き合うことができる。色々なことを思う。人間について。魂について。生きることについて。死ぬことについて。一日に一人程度の割合でこんな森の中にわざわざ差し入れを持ってきて小一時間話して帰っていく人たちがいる。昨日はガンの話を聞いた。酒もタバコも体に悪いことは何もやっていないがその人はガンになった。なぜガンになったのか思い当たることはあるのかと尋ねたら「昔から自分は生きていてはいけないように感じていて、そういった自分いじめがガンを作ったのかもしれないと思います」と話してくれた。
怒りも悲しみも問題を解決することはない。先日、トムから興味深い話を聞いた。幼少期のトムは自然豊かな環境で育った。ある日、トムの愛する大自然に車が止まった。降りてきた成人男性二人がそこにゴミを投げ捨てた。幼いトムは強烈な怒りを覚えた。自分の大好きな場所にゴミを捨てるだなんて。怒りによってトムは正気を失ったが、子供だから具体的に何ができるとかはなかった。その時、トムの恩師的存在のおじいちゃんが隣に来て言った。怒りは何も解決しないよ、と。そうは言われても、なかなか怒りの感情の型から抜け出すことができなかった。時間が経ち、ようやく落ち着きを取り戻したトムは勇気を出して成人男性二人のもとに言ってこのように伝えた。「ここはぼくの大好きな場所だから、どうかゴミを捨てないでください」と。それを聞いた男性二人は、小さな子供からそのようなことを言われたショックも重なり、幾度もトムにすまなかったと謝ったた後に周囲に落ちていた(自分たちが捨てた何倍もの)ゴミを拾い、数キロ先のゴミ捨て場まで運んだ。トムが怒りの道ではなく心のある道を選んだことによって、トムが愛した自然にはこれまで以上の美しさが与えられ、成人男性二人には自然を慈しむ心が育まれた。
ここはぼくの大好きな場所だから、どうかゴミを捨てないでください。トムにとって大好きな場所は自然だったが、私は、この言葉を人間に対して使いたいと思った。この記事を読んでくれているあなたに対して、そして、他でもない自分自身に対しても用いたいと思った。ここ(あなた・わたし)はぼくの大好きな場所だから、どうかゴミを捨てないでください。自分は無価値だとか、自分はダメな人間だとか、自分なんかいない方がいいのだとか、そういった言葉ばかりを自分の心に投げ入れないでください。あなたは大切な存在です。あなたはぼくにとって大切な場所だから、どうかゴミを捨てないでください。そのようなことを祈りたくなった。
「鼓動」
君の奏でる音がかき消されぬように
その行く道に光降り注ぎますように
踊れ踊れ砕けて散って全てになって
彼岸の座には陽炎の獅子
呼び戻せそれは君の心臓
紺碧の波を蹴って
銀河の風を切って
満月の下でまた逢おう
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu