いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

やりたいことは、全部やろう。

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横浜駅ドトールにいる。久米島在住の方から「誕生日をお祝いしたいのと、4月18日に開催されるイベントに出て欲しいので来てください。片道交通費は出します。無料のキャンプ場があるので18日まで生き延びてください」と連絡をいただき、明後日から沖縄に行く。持っていける荷物に限りがあるため、テントを諦めて蚊帳に、寝袋を諦めてアルミシートで生きることにした。雨が降ったら終わりだ。

 

おおまかなスケジュール

4月4日(日)祈り難きを祈る教会@横浜「ロックハウス」
4月7日(水)坂爪圭吾36周年記念野宿@奥武島キャンプ場

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

 

獣性、人性、神性。

久米島で野垂れ死なないために最低限の調味料を持っていく必要がある。多種多様な料理を作ることは実質的に不可能なので、味噌汁に命を賭けることにした。私は器によって料理の味は変わる説を採用しているのだが、味噌汁の一番美味しい食べ方はキャンプ用のマグカップに入れて飲むことだ。シェラカップじゃダメだ。飲み口が広く香りが逃げるし、計量カップで飲んでいるみたいなさもしさが宿る。普通の器だと「普通だな」となる。だが、不思議なことにチタンやステンレスのマグカップに味噌汁を入れて飲むと「まさかこんな場所で味噌汁をいただけるとは」的な感動が湧き上がり、お湯に味噌とダシを溶かしただけのものが異様に美味くなる。

 

好きな小説を5冊あげろと言われたら間違いなく一冊は「奥田英朗のサウスバウンド」と答えるが、その中にペニーさんという西表島で乞食生活を満喫しているカナダ人が登場する。彼が非常によい味を出しているのだが、彼は乞食だから島民と出会うと片言の日本語で「アナタハワタシニナニヲクレマスカ?」と平気でのたまう。この平気さとふてぶてしさと生命力に感銘を受けた私は久米島のペニーさんとなることを目指す。珈琲豆や茶葉も持参をするので「久米島の売茶翁」と名乗ることも考えたが、売茶翁の名前はあまり一般的ではないために裏の名前にする。いただける交通費は片道交通費のみになるために滞在費や帰りの飛行機代などは一体どうするのか問題があるが、問題を問題と呼んでいる限り人生と仲良くなることはできない。これまでの日々を振り返ると、問題が私の人生を面白くしたことを知る。

 

人間には獣性と人性と神性の三種類があり、これらをバランスよく(?)満たせた時に人生を謳歌できている手応えを得る。私は野生のクワの実を最終している時に途轍もない幸福感を得るのだが、おそらくこれは獣性が満たされるからだろう。野営をしていると時折「地球が俺の居場所だ!」と雄叫びをあげたくなる瞬間がある。これも獣性だと思うが、どれだけ高級ホテルに泊まっても「地球が俺の居場所だ!」と叫びたくなる喜びを得ることはできない。だが、野営期間が長く続くと「蛇口をひねるだけでお湯が出るなんて奇跡!」とか「屋根がある、壁がある、バスタオルがある、文化的な生活ブラボー!」となる。これが人性だ。サウスバウンドのペニーさんはユダヤ人の末裔であり、物語の終盤に島の御嶽を壊してリゾートホテルを建設しようとする政治家に決死の抵抗をする。自分の体を御嶽に縛り付けた状態でガソリンを全身にひっかぶり、これ以上御嶽に近づいたら私は私を燃やしますと能動的に人柱になる。能動的な人柱になること、多分これが神性だと思う。

 

わたり文庫『サウスバウンド』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は奥田英朗著作『サウスバウンド』です。非常に素晴らしい一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は沖縄県にわたりました ※※※

 

二郎。前にも言ったが、おとうさんを見習うな。おとうさんは少し極端だからな。けれど卑怯な大人にだけはなるな。立場で生きるような大人にはなるな。これはちがうと思ったらとことん戦え。負けてもいいから戦え。人とちがってもいい。孤独を恐れるな。理解者は必ずいる。

奥田英朗『サウスバウンド』【講談社文庫】

 

やりたいことは、全部やろう。

4月7日(水)以降、久米島のシンリ浜無料キャンプ場界隈で虚空を見つめているので「食べ物をもってきましたよ」的な来客を心待ちにしております。誕生日は不思議だ。祝って欲しいんだか祝って欲しくないんだかが謎だ。MailやLINEやSNSから「誕生日おめでとうございます」とたった一言杓子定規的に言われてもリアクションの仕様がないし返信も面倒臭いと感じるけれども返信しなければ返信しないで俺が悪者になるし、窮地に陥る。飲食店などで照明が突如落ちてハッピーバースデーの音楽が流れたりすると公開処刑を受けているような気持ちになり「お願いだからやめてくれ」と思うがそれなりに喜んでおかないと相手に悪いよなとか思うから窮地だ。だが、最近考え方が変わった。常々お世話になっている方が節目を非常に大切にする方で、その方から誕生日を祝福されると「そうか、誕生日って本来は自分にとって非常にパワフルな1日だよな。それをクールにやり過ごすよりも、誕生日が近づくほど漲る漲る漲るとか思っているくらいがいいよな」という気持ちになる。

 

世界に関与する。世界と関われていると感じる時に幸福や繋がりや充足感を抱き、世界から自分だけが切り離されていると感じる時に孤立感や無力感を抱く。生きる態度がよそよそしくなるほど、世界との繋がりは薄くなる。自分(他者)=世界=神様=宇宙=自分(他者)。自分の喜びは他者の喜びや世界の喜びと切り離すことはできない。真の意味で自分のためになっていることは必ず世のため人のためになっている。繋がりを感じ取れない時に感じる心許なさや孤立感や無価値感は一人の人間をダメにするほどの力があるが、繋がりは外から与えられるものではなく自分の手によって生み出していくものだ。大事なことは、繋がりを与えられることではなく自分の手によって繋いで行くことだ。何を。命を。生きる意思を。時折、自分が作った曲を見て「これは俺の歌であって俺の歌ではない」と思うことがある。作品が自分を越えて存在する時、自分の歌であるとか自分の歌ではないとかそういったことがどうでもよくなり、ただ「歌い継いでいかなければ」という意志を抱く。

 

自分の真価を発揮できている瞬間は「俺はこれがやりたかったんだ」という自我を満たすことではなく、逆に「自分なんてどうでもいいからこれだけは守りたい」と思う何かを、自分自身がパイプ役になって伝えること、繋いで行くことだと思う。自分の作り出したものに濁りを感じる時、それは「俺が、俺が」の自我に捕まっている時だ。自分自身はからっぽになり、ただひたすらに継承することに命を用いている時、逆説的だが一番自分自身を正しく用いている。めちゃめちゃ自分だなと思う曲を作ることもあれば、これは自分を越えている、この曲は後世にまで歌い継ぐ必要があると感じる曲が生まれることもある。どちらも大事で、どちらも自分だ。濁るのは、本当の純粋さを知るためだ。愛を知る人間は、決して憎しみを抱かない人間ではない。祝福を知る人間は、決して呪いを抱かない人間ではない。やりたいことは、全部やろう。憎しみ合うほど、愛し合える。呪い合うほど、祝い合える。

 

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「海へ 〜end of the journey〜」 詞曲 Keigo Sakatsume

 

また 新しい光が 昇り堕ちていく

自分も他人もない 狭間で空を飛ぶ

 

It's the end of wonderful world

 

生きてることが一つの夢だとして

目覚めるとき 僕らは何処にいる

 

It's the end of wonderful world

 

紅く焼けた空に 視界は奪われて

黄金色の中 境界線は溶けていく

 

海へ

 

この乗り物は重いから 連れて帰る場所もない

自由は怖れがないこと 愛も 同じことだろう

 

海へ

 

また 新しい光が 昇り堕ちていく

自分も他人もない 狭間で空を飛ぶ

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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