いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

一人ぼっちの君のために。

f:id:ibaya:20210318110359j:plain

 

南大東島に向かう那覇のフェリー乗り場にいる。今の生き方をしていなかったら何をしていたと思いますかと時折聞かれるが、多分、自殺か発狂をしていたと思う。自殺をしていたらいばや通信は存在していないが、いばや通信を書いている自分は発狂しているのかもしれない。発狂しているくせに「発狂していない」と思うことは傲慢だ。死ぬか狂うか。私は、生きるために狂う道を選択したのかもしれない。

 

おおまかなスケジュール

3月16日(火)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

開拓者精神を学びに。 

北大東島のパンフレットを見ると「人の上陸を拒み続ける島」と書かれてある。那覇から遠く360キロ離れた大東島は百年前まで無人島だった場所だ。そこに八丈島から入植者が上陸したのが明治33年。かなり最近の話だ。南大東島と言っても台風情報で目にする以外は「どこにあるの?」となるが一般的な反応だ。私も一昨日までそうだった。だが、昨日突如「大東島に言って来い」と言う指令がくだされ、他人事が自分事になった。南大東島に、魂を持っていかれる伝説のラムがあるのだ。

 

私は(スマホはあるがデータ通信のみなので)携帯電話がない。大東島行きのチケットを買おうとしたら「電話がない人はダメ」と一回弾かれかけたものの「ダメじゃないです」と無理やり捻じ込み、どうにかしてチケットを入手した。島には港が三個あり、直前までどこから出港するかわからないので通常電話で連絡をするのだが電話がないあなたはせいぜい頑張ってください的なまなざしをいただいたので、私は「頑張ります」と思った。電話がない=乞食と思われたのだろう。係員から「野宿は島で禁止されているから宿を確保してからまた来てください」と言われた。公衆電話から島の宿に電話をすると「あいにく部屋は満席ですが24畳の研修室ならご用意できます」ということになり、明日、私は公式に研修室で一夜を越す。

 

人生は研修だ。我輩は開拓者精神を研修するために南北大東島に行くのだ。那覇で立ち寄ったコンビニのトイレに「婚活パーティー参加者募集!男性4000円!女性1500円!男性はみんな職業を持っているので安心安全!」みたいな張り紙がしてあってぶち破りたい気持ちになった。私は婚活とか出会い系とか合コンとかが異様に嫌いだ。目の前に二つのボタンがあって、一つが婚活に参加するボタンで、一つが(自分を含めて)人類が滅亡するボタンだったとしたら、迷わず後者のボタンを連打するだろう。色々な人に出会うが、死ぬほど綺麗な人でも出会い系サイトに登録していたりするからきっと出会いはあるのだと思う。だが、出会い系で出会うって世も末じゃないか。研修しろ、研修。お前らみたいな連中が島流しされて(略)。

 

 

一人ぼっちの君のために。

f:id:ibaya:20210318133255j:plain

 

先月、東京池袋にある自由学園の明日館に感動した。フランク・ロイド・ライトの作品だ。東京の目黒に、アントニン・レーモンド建築の聖アンセルモ教会がある。海外に行くとふらっと立ち寄れる教会が多数あるが、日本には滅多にない。だが、目黒の教会は海外のように自由だった。日本人はあまりに教会に馴染みはないが、Googleマップで「教会」と検索をかけるとここ那覇でさえ多数の教会がヒットする。教会があるということは、過去にここで伝道をした人間がいるということだ。石を投げられたり、拷問されたりしながら、伝道者たちは各地に教会を建設した。

 

私は、基本的に人生はなんでもありだと思っている。好きなように生きたらいいし、やりたいことをやればいいと思う。だが、時折「やりたいことをやることが本当に自由なのか」と疑問に思う。なんでもありだと思う反面で、同じくらい強く「普遍的な何か」「拠り所になる何か」「自分の中心に一本の芯を通す何か」を求める。行く先々で夕日を追いかけるようにワクワクした気持ちで教会を探してしまうし、寺や神社もそれなりに好きだが、教会に掲げられた十字架を見た時は不思議な安心感を覚える。十字架は今ではアクセサリーにも使われる一般的なモチーフになっているが、そもそもは罪人を処刑するための道具だ。磔刑は最もむごたらしいとされる拷問であり、手と足に釘を打ち、呼吸困難に陥らせることで人間を死に至らしめる。残忍な処刑道具の前で、我々は祈りを捧げたり、結婚の誓いを交わす。

 

私はロックンロールとキリスト教に多大な影響を受けた。ロックンロールとキリスト教は弱い人間に優しい。ダメな人間なんていない。ただ、自分はダメだと思い込まされている人間がいるだけだ。そういう人間に「生きててもいいよ」と言ってくれる何かを、温かくて優しくて激しい何かをロックンロールとキリスト教に感じる。静的な部分と動的な部分、喜怒哀楽の全部、人間的な葛藤と生命の輝き、逆説的なダイナミズムを強く感じるから好きだ。一人一人はいい奴なのに、社会が入り込むと冷たくなる。要る人間と要らない人間を容赦無く分断する。多分、私は、ロックンロールとキリスト教を通じて「お前、要るよ」と言ってもらったのだと思う。神の愛を伝えるなどと言うと大袈裟だが、それは、自分が一人ぼっちの時に「お前、要るよ」と言ってもらえたように、一人ぼっちの誰かに「お前、要るよ」と言い続けることなのだと思う。神様は、不必要な人間を作るほど愚かではない。人間社会は必要な人間と不要な人間を切り分けるが、神は無条件で人間を愛する。

 

f:id:ibaya:20210318110400j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20170719083424j:plain

LINE ID ibaya